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08年1月29日 中日新聞
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http://www.chunichi.co.jp/article/feature/yui_no_kokoro/list/200801/CK2008012902083336.html
<松尾> 国境が低くなり、人が自由に交わるという意味でならグローバリズムにも希望があったが、現実はカネがもの言う世界で、グローバル競争に勝たなくちゃいけない。
<高橋> 今はモノづくりじゃなくて、マネーがマネーを生む投機経済がもてはやされてる。そんなのカネ持ってない人間にとっちゃ、素晴らしい社会って映んないわけ。カネ持ってないと、自分の居場所もないみてえで…。栄村にはマネーの力なんて全然ないけど、その分、一人一人が自分の力で、存在価値を持って生きてる。
<松尾> 初めて村に来たときは携帯も通じないし、とんでもないとこだって驚いた。だけど、この村では、特にお年寄りは生きるすべを知っている。物干しざおひとつにしたって、高い石油から加工しなくてもその辺の竹や木でいい。そういうとこに日本人の生き方のヒントがあると思うんだけどカネにならないから、あまり研究費用を出してもらえない(笑)。
<高橋> 貧乏を奨励してるわけじゃないし、我慢をしちゃいけないけれど、足元を見ながら、人間らしく暮らしていければいい。グローバル社会に無理して近づいても、ゆがんじゃうだけだって。(北海道の)夕張も炭鉱がだめになったとき、昔の景気を忘れられなくて、何か金もうけをしなきゃならねえって、あの手この手で融資をかき集めてやったら無用のハコものと借金が残っちゃったんじゃないか。グローバリズムにまったく関係しないで生きてはいけねえけど、足がつく浅瀬で貝や小魚をとったりしてる限りはおぼれねえ。結局はその方が、人間にとって安定した社会じゃないか。
<松尾> 宮崎県の東国原英夫知事が県民所得が全国で下位だから『どげんかせんといかん』って言うでしょ。でも、その所得って給与とかで、村のばあちゃんが、おいしい野菜を作っても、豊かさには換算されない。村では無報酬のおてんまや普請があり、村の道や水路が維持されている。納めるカネは都会の人より少なくても、はるかに多くのものを支払っている。近世における村というのは、実は行政システムじゃなくて力を合わせて暮らすための共同体。
<高橋> 自然は個人の所有物じゃねえし、自然と結んで農業していくには、人々が力を合わせなくちゃなんねえ。そうじゃなくて、カネで暮らすようになっちゃうと村の生活はとたんに貧しくなる。『結い』っていうのは古い制度で、労働は対価を払うもんだって批判もされるけど、対価以上の何かを頂ける人間関係をつくるもんなんさ。
<松尾> 田舎暮らしブームで、都市から移住した人が、新聞に投書していた。『道普請に出てこいと言われたが、そんなの行政がやることで、もっと行政サービスを充実させるべきだ』と。こういう人には田舎暮らしはしてほしくない。
<高橋> 行政がやることって単なるサービスじゃない。住民が対等に力を合わせ、新しいものを生み出す『協働』じゃねえかな。田直しや道直し、下駄(げた)履きヘルパーも住民と一緒にやるんだ、って思いからできた。都会はカネを仲立ちにしてるからおかしくなる。
<高橋> 都会のラーメン店へ行くとライスの無料サービスってあって、ライスはお代わりもタダだってんだよ。バカにすんじゃねえっての。カネの価値じゃなくて、百姓がどうやって主食の米を作ってるのか、想像する感覚がない。カネとは違う価値感を持ってもらえるよう交流していかなくちゃなんねえ。
<松尾> 僕は共同体が大嫌いで、以前は封建的な共同性を批判してた。しかし、実際に住んでみると下手な大学や企業より、よっぽど民主的だなあと。生活の中から自然に『協働性』が生み出されていく。都会の人がカネでサービスを受ける、っていう暮らしを続けている限り、その必要性は理解できない。他人に何かあっても『そんなの関係ねえ』で終わり。
<高橋> 犯罪が起きると、よく近所の人が『驚いた』とか言うんだけれど、それも関係性を失ったところから出てきてる。都市の人にも『結い』ってもんについて、人と関係しなくて、本当に人間らしく生きられるのかどうか、考えてもらいてえ。