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(回答先: 阿修羅でも見つからなかった立花隆さんのメディア ソシオ-ポリティクス「第104回米メディアが警戒する安倍首相初訪米の中身 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 10 日 19:31:35)
第105回 “A級戦犯合祀が御意に召さず” 卜部侍従日記が明かした真実 (2007/04/27)
http://web.archive.org/web/20070429070334/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/
2007年4月27日
間もなく昭和天皇没後19回目の「みどりの日」(旧天皇誕生日)になるなと思っていたら、朝日新聞が一面トップで、「卜部侍従32年間の日記」を入手し、それをはじめて公開するという大ニュースを報道をしていた。
発表されたのは、まだほんの一部だが、5月から全5巻で順次刊行される予定という。
小倉侍従日記と並ぶ貴重な資料
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昨年は昨年で、戦時中天皇にいちばんそば近く仕えていた小倉庫次侍従の、宮内省用箋で600枚にも及ぶ日記が発見された。これを発表した「文藝春秋」はすぐに売り切れ、雑誌が増刷されるなどという異例のことまで起きた。戦後60年以上たっても、戦争や昭和天皇に関し、まだまだこれだけの新資料が発見され、それが公表されるたびに、これだけ大きな反響を呼ぶということが感慨深い。
やはり、あの戦争と昭和天皇に関しての歴史は、まだまだよくわからない部分があり、解かるべき謎が多いということなのだろう。
小倉侍従日記が発見されたときには、公表の少し前に、たまたま文春の編集者に会って、そのニュースを聞くことができた。
「でも、戦後これだけ時間がたってしまうと、このような歴史資料にどれだけの人が関心を持ってくれるのか、編集部としてもはかりかねているところがあるんです。なにしろ、今や社会のほぼ全員が、戦争を知らない世代になってしまったわけですから。文春としてもこの号がどれだけ売れるかで、こういうものの将来性を占ってみようと思っています」
ということだった。そこで固め固めにその号の部数を見積もっていたところ、アッという間に売り切れ、嬉しい悲鳴になったわけである。
私も1940年生まれだから、終戦時5歳であり、リアルな戦争時代は、ほとんど知らないに等しい。しかし、あのような戦争の時代がいかにはじまり、どのように終わったかについて、ずっと関心を持ちつづけていたから、どちらの資料もすぐに読んで、大変関心をそそられた。
next: 富田宮内庁長官メモを裏付ける証言
http://web.archive.org/web/20070429070334/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/index1.html
富田宮内庁長官メモを裏付ける証言
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新しいところからいけば、卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が記した「卜部侍従日記」では、やはりなんといっても昨年7月に日経新聞がスクープした富田朝彦宮内庁長官のメモ(昭和天皇の発言メモ)で明るみに出た、昭和天皇がある時期から靖国神社の参拝を取りやめたのは、A級戦犯合祀に対して不快感を持ったからだという事実を、どう疑いようもなく明らかにしているくだりに注目した。
あの富田メモが出てから、靖国参拝推進派の人々は、さまざまな詭弁を弄して、あのメモにあらわれた天皇の真意はそういうところにあるのではないといいたてた(A級戦犯合祀に賛成できないから参拝をやめたわけではない。あのメモはちがう趣旨の発言内容がまぎれこんだ、など)が、今度はどんな詭弁を用いてもいい逃れできないほどに問題点は明らかになっている。
「靖国神社のご参拝をお取りやめに 経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず 50/11/21が最後」
「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(合祀を推進した靖国神社宮司)は大馬鹿」
などの記述によって、もはや事情は明らかである。
卜部日記でビックリしたのは、70年安保の時期、「本日のデモ 6.15樺美智子追悼労学市民統一集会(日比谷)につき三度にわたりお尋ねあり」(昭和45年6月15日)などという記述があったことだ。天皇がこんなことにまで、こんなに深い関心を持っていたとは想像もしていなかった。
next: 昭和天皇は板垣陸相に不快感
http://web.archive.org/web/20070429070223/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/index2.html
昭和天皇は板垣陸相に不快感
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だが、歴史資料として貴重なのは、やはり「小倉侍従日記」のほうだ。特にこれは、半藤一利氏の詳細な注が付いているところがいい。それによって、日記の短い記述からは読みとれない背景事情が詳しくわかるからである。
たとえば昭和14年7月5日、板垣陸相が参内した際の記録。
「后三・三〇より五・四〇位約二時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出でたる所、『跡始末は何うするのだ』等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決済を遊ばされず……今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加へさせられたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし」
これは、ノモンハン事件がはじまったばかりの時点の記述である。「跡始末はどうするのだ」とは、ノモンハン事件の後始末、ソ連軍との衝突の後始末の意味である。この事件をめぐって、天皇がどれほど悩んでいたかがよくわかる。玉座で「跡始末をどうするのだ」と大声でひとり言を言っていたとか、「憤怒に悲しみさえ浮かべていた気色」といった表現に、天皇の苦悩がよくあらわれている。
このとき、天皇が強い怒りをぶつけていた板垣陸相は、満州事変を起こした男であり、三国同盟の推進者でもあるなど、あの戦争を起こした主要な責任者の一人だった。天皇は、歴史の分岐点となったこの2つの事件(満州事変と三国同盟)に当時から強い不信感を持っていたことがよくわかるくだりだ。
東京裁判でも、板垣はA級戦犯の筆頭格の一人と認定され死刑になっている。天皇がこの板垣の一連の働きに強い不快感を持っていたから、板垣に面と向かって、
「お前ぐらい頭の悪いものはいないのではないか」
と問詰したこともある、と半藤の注にある。
next: 戦時の昭和天皇の気持ちを詳述
http://web.archive.org/web/20070429070348/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/index3.html
戦時の昭和天皇の気持ちを詳述
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小倉侍従日記によって見ても、天皇が戦争初期(日中戦争)は悩み苦しみつつなんとか戦争のこれ以上の拡大は食いとめようと努力していたことはわかる。しかし途中から天皇の気持ちが変わってしまう。
「戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ。また行はざるを得ぬ」
と考えるようになったからである。
そして、1941年12月8日、太平洋戦争が、ハワイの真珠湾攻撃とマレー沖海戦の大勝利ではじまり、その後も年内は勝ち戦をつづけていく過程で、天皇も急に楽観論に転じてしまうのである。
12月25日の記述にこうある。
「常侍官出御の際、平和克服後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど仰せありたり」
天皇はもう戦争に勝ったつもりになっているのだ。平和になったら日本の領土になった南洋を視察に行きたいなどといいだしているのだ。
日本人全体がこの当時、緒戦の勝利に酔って浮かれていたのだが、天皇もまた浮かれていたということなのだろう。
だが、このように勝利に浮かれていたこともあるとわかると、天皇にも戦争責任ありの声が強くなってくるだろう。
next: 天皇の「人間宣言」の真実
http://web.archive.org/web/20070429070553/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070427_urabe/index4.html
天皇の「人間宣言」の真実
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「文藝春秋」は昔から歴史の貴重な資料の数々を世に出してきた。古いものを読み返していると、「ヘエーッ、この頃こんなものが」とビックリすることがよくある。
たとえば昭和37年3月号には、終戦後最初の文部大臣であった前田多門が、「『人間宣言』のうちそと」と題して、天皇の人間宣言が出される前後のことを書いている。
「人間宣言」というのは、戦争が終わった翌年(昭和21年)元旦に出された勅書で、それまで現人神(あらひとがみ)とされていた天皇自らが、自分は神ではないと宣言した勅書である。
この勅書作りに前田多門が深くかかわった。このような前代未聞の勅書を書く人がいなかったので、前田多門が自らそれを書き、その原案を天皇のところに自ら持っていって、天皇と直接相談しながら、その内容を詰めていったのである。
やむを得ず、私が代わりに陛下のところに伺って、案文をご覧に入れたのであったが、その時私が深く感じたのは、陛下は極めて平然たる御態度でこれをお受け取りになり、むしろこれを待ちもうけておられたというような積極的なご様子で、早速案文をご点検になり、ある部分は低い御声で発声して朗読されたように私はいま記憶しておる。
その時、天皇が神でないということについて陛下はこういうお話をしてくださった。
「後水尾上皇がまだ天皇の位におられたときに水疱瘡を患われた。ところが水疱瘡を治すには、おきゅうがいいということであったのだが、現人神たる玉体におきゅうをすえるということは許されないという異議が出たために、ついに譲位をなさって、おきゅうの治療を受けられた。まことに不自由な話である」
天皇自身が人間になりたかったからあの宣言を出したのだということだ。
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立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月 -2006年9月東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。2006年10月より東京大学大学院情報学環の特任教授。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。近著に「滅びゆく国家」がある。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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