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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20081210-01-0901.html
今あらためて問う、この裁判員制度で本当にいいのか
2008年12月10日 ビデオニュース・ドットコム
西野喜一氏(新潟大学大学院教授)
市民が重大な刑事裁判に参加することを義務づける裁判員制度の実施が、いよいよ半年後に迫った。しかし、現行の裁判員制度は大きな問題点を残しており、人を死刑や無期懲役に処する可能性の高い重大な司法制度の変更がこのまま実施されれば、深刻な問題が起きるとの懸念は根強く残っている。また、この制度だけは、とりあえずまず始めてみて、問題があれば直していきましょう、では済まされない面もある。その間、不当な刑罰を受けたり、場合によっては命を奪われてしまう被告が出てしまう可能性があるからだ。
議論を通じて浮き彫りになってきた裁判員制度の最大の疑問点は、「市民参加」「開かれた司法」などの一見美名の元に、実は全く正反対の効果を生む危険性が高いことにある。市民参加と言っても、それを口実に公判前整理手続で論点が大幅に絞り込まれてしまうことで、弁護側は検察のシナリオに対して疑義を差し挟む機会を奪われることになる。
また、裁判員になった市民はそこでの経験を一切口外してはいけないことになっているため、実際に裁判に参加した裁判員と市民社会全体が、経験則や参加意識を共有することはまず難しいことも問題だ。
さらに、実際の判決や量刑を議論する評議の過程で、裁判官が裁判員にどのような説明を行うかによって、法律の知識が限られる市民は容易に説得や操作が可能になると思われるが、そこでのやりとりは表には一切出てこない。それを裁判員が明らかにすれば罪になるからだ。評議が割れた場合は多数決で評決や量刑が決まるのだが、それが割れたかどうかも、公表はされないし、裁判員はそれを口外してはならないのだ。
無論法律の知識も限られ、人を裁いた経験も無い一般市民は、特に凶悪な犯罪に対しては情緒的な反応をしてしまう可能性が高い。被害者の司法参加によって、さらに感情的な判断をしてしまうリスクも高い。これもまた、裁判員の参加が被告人の利益となる蓋然性は低いと言わざるを得ない。
中には、「開かれた司法を装いながら、実は統治権力側によって、より重罰化への流れを正当化するための道具に使われる」、「裁判員に結果責任の一部を押しつけることで、司法が責任を逃れるための口実になる」など、本来の制度の趣旨とは正反対の影響を懸念する向きもある。そして更に根本的な問題として、「いろいろな問題が起きていても、それが守秘義務などによって表には出てこないようになっているため、問題があってもそれが直らない制度設計になっている」など、根本的な欠陥も指摘された。
斎藤貴男、宮台真司両キャスターが、元判事で裁判員制度に強く反対の意を表明している西野氏とともに、半年後に迫った裁判員制度の実施を前に、今あらためてその問題点を見直すと同時に、仮にこのまま制度が施行された場合、どのようなリスクが内在されているかを考えた。
裁判員制度の問題点
斎藤:裁判員制度の問題点をどのように整理しているか。
西野:問題点があまりに多すぎるが、私は4つに整理をしている。一つは、何ら必要性・必然性がないということだ。国民が裁判員制度で裁判を行いたい、刑事事件は裁判員制度によって行いたいという声を上げたことはない。二つ目は、裁判員制度は、国家の骨格を定めた憲法に違反するということだ。この点については、真剣な議論がされたことがない。三つ目は、審理が非常に粗雑になり、誤判・えん罪が増える可能性があることだ。四つ目は、たとえ数日間とはいえ、仕事を放り出して裁判所に来ることを国民に要求するわけだから、国民に対して大変な迷惑をかけるということだ。
この中で特に、必要性・必然性がないということが最大の問題だと考える。現行の裁判官が行う裁判では、裁判の正当性を得られなくなったという意見があるが、これは全く無理な論法だ。裁判員制度を導入するという法律を作ってしまったので、皆それぞれとってつけたような説明をしているにすぎない。
「何ら必然性がない」にもかかわらず立法に至った経緯
斎藤:そもそも必然性がないのであれば、なぜ法律を作るまでに至ってしまったのか。
西野:裁判員制度の導入を決めた司法制度改革審議会では、何らかの形で「国民の参加」を入れるということが、始まる前から事実上、既成事項になっていた。審議会で、陪審員制度推進派と反陪審員制度派で議論が衝突した結果、結局どちらでもない制度ということで、日本独自の裁判員制度が生み出された。
陪審員派は、陪審員制度は実行できなかったが国民参加は実現できたから、これをできるだけ陪審員制度のように運用することによって、足がかりにしようと考えたのではないか。審議会で陪審員制度を支持していた人は、陪審員制を取り入れればとにかく裁判が良くなると主張していた。一方の反陪審員制度派は、陪審員制度は非常に危険だと唱えていた。双方が激突した結果、陪審制度ではないけれども国民参加は取り入れるということになり、全員がしょうがなく受け入れられるという、ぎりぎりの妥協の結果としての裁判員制度が決まった。最終意見書の表現でさえ、てにおは一つも動かない、もめにもめた末のぎりぎりの妥協が行われた。
審議会の最終意見書を受け取った小泉首相は、その日のうちに「意見書を尊重して立法化を図る」と発言したために、法律が制定されるに至った。しかし、国会での審議期間は全体で3か月、中を見ると衆議院で3週間、参議院で1週間という有様だった。これほどの大変革を行うというのに、審議・検討が非常に不十分だったと思う。このような制度が本当に必要なのかという点が全く議論されていなかった。
なぜ必要なのかという点でさえ、審議会の議論と、裁判員法の第一条に書かれている目的、そして今裁判員制度の推進派の論者が述べている意義はそれぞれ異なっている有様だ。まったく国民的同意が得られていない。これが、最大の問題だと思う。
なぜ「国民参加ありき」だったのか
斎藤:宮台さんは、なぜまず国民参加ありきだったのかという点に関しては、どのように考えておられるか。
宮台:なぜ司法制度の近代化が必要だという話が出てくるのか。これは、従来「お上が言っていることだから聞きなさい」ということが効かなくなってきたということが大きな背景にまずある。たとえば、当たり前だが、法理と感情は別だ。感情的には殺してやりたいと思っても、法の裁きに従おうというのが法生活の基本だ。
しかし、インターネット化が進んで、誰もがある種の意見表明ができるようになってくると、重罰化要求が高まる。とにかく厳正なる対処、断固たる措置を要求する感情的な意見が、相乗作用的に膨らみやすくなる。その意見が実際にはどれだけ分布しているのかはよくわからないが、いわゆる「世論」としての影響力を行使しやすくなり、政治家や役人、裁判官がその意見を参照しやすくなるという動きがある。
日本の裁判官は世論をとても気にしている。そうすると、世論が重罰化を要求しているが、従来の判例からいくとそのような判断は下せないというときに、裁判員が重罰の判断を下すことによって、従来ではできなかった重罰化が場合によっては可能になるのではないか。実際には評議の過程は公にはならないが、「市民が参加して合意した」という虚構は作ることができる。市民が決めた重罰なのだ、ということになれば、重罰化要求に対する制度の権威、正当性が脅かされないような対処という観点から考えると、裁判員制度は極めて合理的だ。
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投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 11 月 15 日
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