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(回答先: 第83回 小泉首相“開き直り参拝” 日本が見失った過去と未来 (2006/08/17) 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 09 日 18:47:58)
第84回 ドラマのない総裁選で勝利した「花」のない新総裁 安倍晋三 (2006/09/22)
http://web.archive.org/web/20061011123904/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/
2006年9月22日
9月20日、自民党総裁選が行われ、安倍晋三官房長官が、第21代の自民党総裁に選出された。
だが、およそ、これほどつまらない自民党総裁選がかつてあっただろうか。
自民党総裁選といえば、形式的には、自民党という一つの政党のヘッドになる人を誰にするのかを決める、私的組織内選挙でしかないが、実質的には、日本の政治構造上、それは即日本国の総理大臣の座に座る人を決める最高政治レベルの選挙となっている。
言ってみれば、それは日本国の権力闘争の最終ラウンドとして機能する選挙なのだ。
だからそこにはいつも大きなドラマがあった。
政治の本質は、基本的に権力闘争であり、政治家たちは本質的に権力闘争大好き人間であるから、いよいよその最終ラウンドが目前に迫っているという事態になると、みんな当然のごとく、血がうずいてくる。そして、必然的にかなり長期にわたって、権謀術数のかぎりを尽くしての政治ドラマが党内で展開されるのが常だった。
それは、総裁レースに出馬できるようになるまで、数々の予備的な権力闘争を苦労して勝ち上がってきた男たちが展開する最後の死闘だから、面白くなかろうはずがない。当然メディアでもその表話、裏話の種々早々が面白おかしく伝えられ、大衆の間でも、総裁選挙が近づくと、どの候補が有力で、誰が不利かなど、その下馬評がさかんに戦わされるのが常だった。
ところが今回は面白いドラマが何もなかった。
基本的には、7月の時点で、安倍の最有力対抗馬とされていた福田康夫元官房長官が不出馬を宣言したあたりで、安倍の独走が決まってしまったからである。
next: 歴史上まれに見るドラマのない総裁選
http://web.archive.org/web/20061011123904/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/index1.html
歴史上まれに見るドラマのない総裁選
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その後、麻生太郎外相、谷垣禎一財務相が正式に出馬を宣言して、一応、三候補の間で総裁の座が争われる形をとったものの、誰も本気で総裁の座が三人の間で争われているとはとらなかった。
各種世論調査によって、(選挙権を持つ)自民党員の間でも、あるいは(選挙権を持たない)国民一般の間でも、あまりといえばあまりの差が、安倍と他候補の間でついていたので、この総裁選は、ただの消化試合としかみなされなかったのである。
それから数カ月、消化試合が予測された通りの筋書きで淡々と展開されていっただけで、見ている人がハラハラドキドキするような要素は何も出現しなかった。
ドラマが何もないところでは、一般人の関心は薄れるばかりだから、ニュースバリューとしては、ほとんど時を同じくして起きた紀子さまご出産のニュースに完敗していた。
何しろ、意外性の要素が何もなかった。もしかしたら安倍が負けるかもしれないなどと予測する人は誰もいなかった。
安倍が勝つことはわかりきっており、いくらかでも注目の的になっていたのは、安倍がどれだけ大きな勝ちっぷりを示すかだった。
結果的に安倍は66%の票を得て圧勝したのだが、事前の予測の中には、安倍の得票が7割を超えるとしていたものもあった。それと比べると、66%が若干低かったということで、そこを問題視する報道もいくつかあったが、その得票でも、小泉首相が過去の二度にわたる総裁選で得た得票よりずっと多かったのだから、勝利という点では全く問題がない大勝だった。
なぜ、これほどつまらない総裁選になったのかというと、理由は簡単。実質的な競争が不在だったからである。
2位の麻生外相は「善戦」をたたえられた。総裁選後の麻生陣営の打ち上げは、ほとんど当選祝賀会並みに盛り上がったというが、麻生は得票率にするとたったの15%しか集められず、麻生は安倍と肩を並べて競い合ったという表現からは終始はるかに遠いところにいた「善戦」だった。
next: なぜそれほど自民党内に競争がなくなってしまったのか
http://web.archive.org/web/20061022203336/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/index2.html
なぜそれほど自民党内に競争がなくなってしまったのかというと、小泉首相がその在任中、一貫して、政治的競争相手のパワーを削ぐことに熱中して、いわゆる政治的実力者がいなくなってしまったからである。
特に、05年の郵政政局(法案否決から解散総選挙)の過程で、少しでも小泉首相に歯向かおうとするだけの気骨を持っていた造反政治家たちが、片っ端から政治的に抹殺されてしまったからである。
非翼賛議員を貫いたのが安倍の父方の祖父という皮肉
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あの選挙では、造反者が選挙に出ようとしても、党本部がそれを公認しない、無所属で出馬して当選してきても、党への復帰を許さないという強硬手段が取られた。
その強行手段は、戦前、国家総動員時代に大政翼賛会が作られ、その会に入ろうとせず、大政翼賛にも賛成しない政治家たちをパージするときに使われたのと同じ手段だった。彼らは選挙に出ようとしても大政翼賛会からの推薦が受けられず、もちろん資金援助もなく、選挙運動がはじまると、官憲からことごとに妨害を受けた。東条はこれら非推薦議員たちを全部選挙で落とそうとしたのである。
政治生命が奪われたくない政治家たちは、みんな大政翼賛会に入ってしまい、非推薦を貫いて戦い通した政治家はほんのひと握りだった。皮肉なことに安倍の父方の祖父、安倍寛は、その勇気ある非推薦議員の一人だった。いずれにしろ、この大政翼賛選挙で、政府当局に反対する議員はほとんどいなくなったのである。05年選挙で小泉首相が造反議員たちに突きつけた踏み絵は、この翼賛選挙がもたらしたものと同じ反対派一掃効果を日本の政治にもたらしたのである。
大政翼賛選挙のあと、議会は、東条の大東亜戦争完遂を叫ぶ演説に拍手大喝采を送るだけの機関になってしまったのだが、それと同じような変化が、郵政選挙のあとの自民党に見られた。
そのことは、このページにおいても、当時、選挙で当選してきた新人議員たち(いわゆる小泉チルドレン)のビヘイビアが、全体主義国家(第2次大戦時代の日独伊の枢軸国家と第2次大戦後のソ連、東欧、中国、北朝鮮などの共産主義国家群)の議員たちの行動とそっくりであると指摘して批判した(第49回 小泉強権政治がもたらす「自由」と「民主」の末路)。
いまの自民党の惨状は、要するにあの大政翼賛選挙以後に日本の政界がおちいってしまった惨状と同じなのである。
小泉首相が徹底的に可愛がって引き立ててきた安倍晋三を除くと、ポスト小泉世代の政治家の中に、安倍に対抗して権力闘争を展開するだけのパワーを持つ政治家がほとんどいなくなってしまったということなのである。
next: “ぶっ壊された”自由民主党の中の「自由」
http://web.archive.org/web/20061022203348/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/index3.html
“ぶっ壊された”自由民主党の中の「自由」
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自民党というのは、実に不思議な政党で、これまでは、右から左まで、政治的見解においても、政治手法においても、幅が広いスペクトルの存在を許容していた。そして、それが独特の生命力を党組織に与えていた。であるが故に、自民党ではしょっちゅうあっちでもこっちでも、様々なイッシューにおいて、さまざまなグループ間の角の突き合わせというか、権力闘争が行われてきた。しかし、それがまた自民党に独特の活気を与えてきたのである。
そのような多様な見解の共存が自民党という政党のカルチャーそのものだったと思うのだが、
「自民党をぶっ壊す!」
と叫んで、自民党を改革し続けた小泉首相は、そのあげくに、自民党にとって最も大切だったはずの、自民党にその不死身の生命力を与えていたカルチャーの根幹部分をぶち壊してしまったのではないだろうか。そしてその壊れてしまった部分こそ、この民主主義社会において、社会が、なかんずくその中における政治組織が失ってはならない部分だったのではないか。
何のことかというと、それは自由民主党の中の「自由」と呼ばれる部分である。
この不毛な総選挙をウォッチしていて、何よりも私が感じたのは、そのことである。
なぜ安倍の言葉はつまらないのか
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もうひとつ私が大きく感じたのは、安倍という政治家の持つ、人間的魅力のなさである。ニュースに出てきて何か安倍が喋るたびに感じたことは、「なんかつまらん男だ」という印象である。人を本質的に引きつける要素が安倍には欠けているということだ。
政治家として成功するために欠かせない要件の一つが「華(花)がある」ということである。
「花」とは、世阿弥の『風姿花伝』にいう「花」である。パッと咲いた花のように、誰でもその姿を見たら文句なしに目が引き付けられてしまうような、説明不要の吸引力を持つものである。
芸能界のスターは、みなこの「花」を持つが故にスターとなる。同じように各界のスター的人物は、その人が姿を現しただけで、何ともいえぬ吸引力というか、磁力を発する。「花」を持つ人が現れると、その人を見ているだけで楽しくなる。目が離せなくなる。
next: 各界にはそれぞれに違う姿の「花」がある
http://web.archive.org/web/20061022203400/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/index4.html
各界にはそれぞれに違う姿の「花」がある。見た目の美しさあるいはカッコよさからくる「花」は、芸能界のスターには必要だろうが、政治家には必ずしも必要ではない。
政治家に必要な「花」は、もっぱらその言語能力において表れてくる。彼が(あるいは彼女が)語り出すと、みんな思わずその言葉に耳を傾けてしまうという、演説能力あるいは、言語魔術能力が、その人を真にすぐれた政治家にするのである。
安倍にその「花」があるかというと、ない。
安倍にも、語り出せば、それなりにもっともなことを延々いつまでも並べ立てられる能力(それが政治家に要求されるミニマムの言語能力)はあるようだが、聞く人の側からすると、それが、「思わず耳を引き付けられ、ついついずっと聞いてしまった」、と後にもらすほどの魔術的言語能力のレベルにまで達しているかというと、そういうレベルには全く達していない。
小泉首相にはそのような「花」があったから、小泉首相はどこで演説しても、すぐに大群を集めた。小泉首相が大群衆を集めた背景には、小泉首相が生来持っていた「花」に加えて、「テレビスター小泉」(何しろ毎日テレビに出ている人なのだ)が持っていた「花」があったし、それに総理大臣という椅子そのものが持っていた「花」もあった。それらもろもろの花が総合されて、小泉首相の大きな「花」になっていったのだが、安倍にはそれだけの「花」があったのかというと、ある程度はあったが、小泉首相ほどなない。
これまでも、「あの安倍さん」という有名人の「花」があったし、幹事長とか官房長官という役職がもたらす「花」もあった。これからはそれがさらに、総理大臣という椅子がもたらす「花」に変わるのだから、安部はこれからどこでも大群衆を引き付けるだろう。
だが、彼が総理大臣の椅子を離れたときの生身の人間としての「花」、あるいは肩書きなしの単なる一政治家としての彼が持つ「花」がどれだけあるかといったら、あまりないと言わざるをえない。それがテレビで彼の語りを聞くたびにいつも思う「なんだかつまらん男だ」という印象になっているのだと思う。
選挙に弱い安倍晋三に政局が乗り切れるのか
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安倍は、小泉首相に最初の最初からずっと取り立てられてきた。はじめ官房副長官。次いで幹事長に大抜擢。次いで幹事長代理に降格。次に官房長官に抜擢と、小泉首相は一度も安倍を手放さなかった。
この間、安倍は二度も選挙の担当者になったが、世論調査的人気は一貫して安倍の個人の上にあったものの、自民党の選挙担当者としての安倍は、二度とも選挙に負けている(04年の幹事長から幹事長代理への降格はその責任を取らされたもの)。
next: この二度の選挙敗北で示された安倍の弱さは
http://web.archive.org/web/20061022203412/http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060922_hana/index5.html
この二度の選挙敗北で示された安倍の弱さは、この安倍には、生来の「花」において欠けるところがあるという要素と無関係ではあるまい。
つまり、「歴史上最も若い幹事長」ともてはやされて03年総選挙を戦ったときも、安倍はいつも「有名人安倍」の「花」、あるいは「幹事長職」の「花」によって、どこに行っても大群集を集めるには集めた。しかし、その大群衆が散っていくとき、人々は安倍の言葉に説得されたわけでもなければ、あるいは安倍の言葉に酔わされて帰っていったわけでもなかったということである。
要するに安倍人気は上滑りした人気でしかなく、安倍の言葉もまた上滑りしていたということなのである。
このように選挙に弱い安倍が、来年の負けられない一戦である参院選の陣頭に立つ。
果たして安倍はその選挙に勝つことができるのか。それに勝たなければ、安倍が最大の悲願としている、憲法改正などとても及びもつかないわけだが、安倍にそれが可能なのか。
──安倍内閣の姿がまだ見えてこないし、安倍の政治の方向性がまだ見えてこないので、本日はとりあえずここまでにする。
(この項、続く)
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月 -2006年9月東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。近著に「滅びゆく国家」がある。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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