★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK56 > 737.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://www.amakiblog.com/archives/2008/12/09/#001282
2008年12月09日
史実の探求に終わりはない
鳥居 民(とりい たみ)という評論家がいる。
産経新聞の歴史評論ぐらいしかメディアに登場しない人物である。
しかし私は彼の書いたものをいつも興味深く読んでいる。
そのよって立つ思想、信条は異なるかも知れないが、彼の史実を追求する基本姿勢に私は敬服する。
12月9日の産経新聞「正論」に書かれていた事もその一つだ。
また一つ私は勉強させてもらった。
その記事の本質はずばり、あの愚かな開戦に踏み切った最大の戦犯は、昭和天皇の戦争回避の決断を妨げた木戸幸一内大臣であった、というものだ。
その要旨はこうである。
「・・・アメリカとの開戦を決める昭和16年12月1日の御前会議の前日に、高松宮が昭和天皇に向かってアメリカとの戦争を回避したいのが海軍の本心であると説いた。
このことは関係者の日記や記録でもはや明らかになっていることだ。
しかしその背景ある真実をいずれも伝えていない・・・
なぜ高松宮は天皇にアメリカとの戦いを回避したいと言上したのか。戦後、高松宮は海軍省兵備局長の保科善四郎から戦えば難渋すると聞いて、お上にそれを申しあげたのだと語り、保科もまた、それを認めた。
しかし、すべての戦争準備がうなりを上げて展開し、連合艦隊が北太平洋をハワイへ向かって直進しているまさにそのとき、一人の局長の話を聞いただけで、高松宮はこの戦争をしてはなりませんと天皇に言上するだろうか。また開戦を決める御前会議の数日前に、一介の局長が天皇の弟君に向かってそんな悲観論を語るであろうか。実は高松宮と保科が隠していた事実があったのだ・・・
高松宮から信頼されていた外交官加瀬俊一(初代国連大使)は、口外しないとの約束で病床の高松宮から本当の事を聞いていた。加瀬は高松宮没後、「高松宮の昭和史」を発表し、その中で連合艦隊司令長官山本五十六がアメリカとの戦争回避を天皇に申し上げて欲しいと高松宮に依頼した事実を示唆している。
一方の保科も、その回想録で自分が山本五十六長官に信用されていたと記し、なぜかアメリカとの戦争が始まる直前、戦艦長門に座乗する山本長官に呼ばれた事実を書いている・・・
実は山本五十六は昭和天皇による戦争回避の「聖断」を願っていたのだ。その願いは、山本の旧友堀悌吉(註:山本と海軍兵学校同期の海軍将官。穏健派であった事が災いし、その時はすでに現役を追われていた)に宛てた昭和16年10月11日付の書簡の中で、アメリカとの戦争回避のためには、『最後の聖断のみが残されておる』と書き綴っていたのだ。
この山本の願いは、堀から内大臣秘書官長の松平康昌、宮内大臣の松平恒雄に伝えられ、彼らはそれを内大臣に告げたはずだ。間違いなく木戸は連合指令艦隊司令長官山本五十六が「聖断」を望んでいる事を知っていた・・・
「アメリカとの戦争を回避したいのが海軍の本心である」との高松宮の訴えを聞いた天皇は木戸内大臣を呼んだ。木戸は海軍の真の腹を確かめられたらいかがかと天皇に言上し、そのあと軍令部総長の永野修身と海軍大臣嶋田繁太郎を呼んだ。木戸は、戦いを回避したいと今更、口にだせるはずのない永野と嶋田をわざと呼んだのだ。
木戸はアメリカと戦争するしかないと決意していた。だからこそ、彼は山本の願いをおしつぶしたのだ・・・」
この「正論」に書かれている鳥居の解説は果たして史実なのか。それは私にはわからない。
鳥居氏は、日米開戦を回避するために最後まで努力を続けた近衛文麿を評価し、その近衛にライバル心を燃やしていた木戸幸一に鳥居氏は一貫して厳しい評価を下している。この記事もその一環であるに違いない。
それに当時の情勢の中では、たとえ戦争回避を願うものがいたとしても、果たして誰がそれを実行に移せたかは大いに疑問である。
そしてやはり最後の開戦を決断したのは昭和天皇である。
そうであっても、しかし私たちは少しでも歴史の真実に肉薄し、再び同様の過ちを繰返すことのないよう、進歩していかなければならない。
史実の探求には終わりがない。その謙虚さと絶えまぬ努力が重要であるということだ。
▲このページのTOPへ HOME > 政治・選挙・NHK56掲示板
フォローアップ: