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1 【愛国主義は排他的】 福田首相が二代続きで政権投げ出しをした後、五人囃子の茶番劇があり、麻生首相が誕生した。 言葉の上では"日本特有のすぐれた伝統や文化を大切にする"ことに原則的に異論はないが、彼らの困ったところは、「友がみなわれよりえらく見ゆる……」と詠った石川啄木ふうにいえば、およそその反対の見方で、おのれの国が他国よりもすぐれていると強く思い込むがゆえに「他人(ひと)がみな われより劣りて見ゆる……」という見方・考え方になることである。 しかもそれが次第に肥大し、凝り固まって、ついにはそれ以外の物の見方や考えが入り込む余地をまったくなくしてしまうことである。その結果、他国や他民族に対して排他的・独善的な振る舞いに突進するところが近現代史の失敗の教訓で、少しも新しくもなければ、未来志向型でもない。以下、日本特有の伝統や文化についても検討していきたい。 2 【愛国の定着はごく新しい】 日本では「愛」も「国」も一般国民レベルにその概念が定着したのは、きわめて新しい。 冗談に「日本語の辞書は、愛に始まり腕力に終わる」などといわれるが、今から約400年前の『日葡辞書』(1604年ごろ、イエズス会の長崎コレジオで印刷出版されたポルトガル式ローマ綴りで表記された当時の日本語辞書)の邦訳にも、前日勇編『江戸語の辞典』く講談社学術文庫)にも、「あい」といえば、〔相〕や〔間〕〔藍〕ばかりが目立つ。 前者の『日葡辞書』では、かろうじて「愛着=強い愛好心や愛情を抱くこと」「愛敬=愛想のよい言葉のやりとりと愛情にみちた交際」「愛執=熱烈な、常軌を逸した愛情を抱くこと」「愛欲=物事に対する大きな欲望、または愛着」「愛憎=愛情と憎悪と」「愛し、する、した=かわいがる、また愛しているしるしを外に表す」などを拾い出せる程度だ。 時代が下った『江戸語の辞典』でも、「愛する=大人が幼児をあやす」などと出ている。西郷隆盛が好んで揮毫したという「敬天愛人」の愛人は、もっとヒューマニズムな心構えで、自分以外への尊敬や尊重を意味するものであろう。 3 【愛はイコールloveか】 それでは、男女間の愛情をどのように表していたのか。それらしい言葉や用法を探すと、『日葡辞書』によれば「契り=結びつき、愛情関係など。また、籠めるという語を伴って肉体結合の意」とあり、イエズス会の宣教師たちが編集したからそんな言葉がことさら少ないとも思えない。 『江戸語の辞典』では、ご想像のように「相惚れ=男女が双方から惚れて愛し合っていること」とか「惚れる」が一般的だが、注目すべきは「おっこち=参っていること。惚れていること。また、情人。愛人。いろ。男女いずれにもいう。寛政頃から現れるが、天保年間盛んに使われた」とあり、その程度の大きいのを「おっこちきる」などと言った、とある。英語の fall にある「恋に落ちる、ぞっこんになる、惚れる」という用法とまったく同じである。男女間の心の綾やそれを表すことぱ(とくに俗語)は、国や時代を限らない。 4 【日本人が国の危機を感じたとき】 『古事記』にもたしかに"国"という文字や言葉が出てくる。 古い時代にこの列島に住む人びとは、中国や朝鮮との通交などを通じて、自分たちと中国や朝鮮との歴史や政治支配の違いを多少は意識しただろうが、"(国家にしろ国土にしろ)日本の国"という概念をどこまで自覚していたかは疑わしい。 日本(自分たちの周辺)と朝鮮半島との言葉や風習の差や民族意識の違いなどを認めながら、長期にわたって互いの住民がある程度まとまって自由に往来・交流していたのではないだろうか。 人の交流とともに、文字文化、農耕稲作、治水灌漑、騎乗駆使、その他の新技術や新知識が我が国にたくさんもたらされた。こうした激動の時代とドラマチックな人びとの行動が語り伝えられ、やがて『古事記』『日本書紀』などの神々の奇蹟的な物語として、いくつも結実したのではないか。 その後の長い歴史のなかで、おそらく日本人が自分たちの"国の危機"を強く意識させられたのは、13世紀後半に元(蒙古)の大軍船団が二度も襲来したときと、幕末期に西欧各国の黒船が相次いでやってきて日本に開国を迫ったときぐらいと思われる。 元の来襲の際には二度とも運よく大型の台風来襲で船団が大破・沈没して日本が危機を脱することができたので、この台風を天の助け=「神風」と称して長く語り伝え、その起死回生の奇蹟をなんとか必勝に結びつける縁起にしたいと、第二次大戦末期に、体当たり自爆戦術の特別攻撃隊(特攻)の名に冠せられたのはご存じの通りである。 5 【近代国家の成立は新しい】 イギリスのチャールズ皇太子が自己紹介するときに「何しろ、世界で二番目に古い職業でございまして…‥」といって笑いをとるそうだ。一番古い職業は、聖書にも出てくる売春婦。またイギリス人は「世界で最後に残る王様は、トランプの王様と英国の王室」というジョークが大好きである。 その正否はさておき、1776年のアメリカ独立、1789年のフランス大革命という世界史的な変動も、アメリカでは1861〜63年の南北戦争、フランスでは帝政の巻き返しなどで一時的蛇行はあったが、イタリア王国(1861年)、ドイツ帝国(1871年)も成立する。日本も徳川幕府が倒れて明治政府がスタートする(1868年)。 明治政府も初めは軍事・兵制関係の指導をフランスに頼るが、1870〜71年の普仏戦争でフランスがプロシア(ドイツ)に敗北したのであわてて軍事の指導と模範をドイツに切り替えるという一幕もあった。つまりヨーロッパでも、統一的な近代国家はその頃にやっと出そろったのである。 『明治のことば』[斎藤毅著/講談社刊]によると、幕末・明治になって欧米先進国からいろんな制度や概念が一挙に入ってきたとき、社会とか個人という用語(つまり概念)ですら日本で定着するまでにずいぶん時間がかかったという。まして共和政や合衆国など、どのように説明して適切に表現するのかについて苦心が重ねられたということは想像がつく。 6 【王政復古に反対だった孝明天皇】 幕末期の公武合体、尊王攘夷、王政復古などの駆け引きのなかで、古めかしい天皇株が意外に大当たり・大化けをする。ところが当の孝明天皇自身が王政復古には一貫して反対で、「暴論の輩、復古を深く申し張り、種々計画をめぐらし候えども、朕においては好まず、初めより不承知と申しおり候」と言い張っていた。 当時の皇室は幕府から直接経費く内廷華)として 3万石、御所関係各所の人件費・管理費など一切を合計しても12万石程度をもらって暮らしていたから、いきなり日本全体を支配する権力が手に入るといわれても自信がなかったのだろう。倒幕派の面々は「このわからずや奴が!」と苦々しく思っていたにちがいない。その天皇が数ヶ月後に急死したから、いまもなお暗殺説が歴史の謎としてくすぶっている。とにかく当時の王政復古派の面々は、天皇のことを「玉(王ではない)」と呼び、玉を他派の手に渡さぬように扱ったり振る舞ったりしていた。 7 【天皇家は一躍日本有数の財産家に】 そこで王政復古派は急遽、孝明天皇の息子で当時15歳の睦仁親王を立てて徳川幕府に大政奉還を迫った。世界の現状と将来の見通しがきいた 15代将軍慶喜が戦わずしてそれに応じたので、局面は急旋回して新たな時代に入った。かつがれた新天皇は、鳥羽伏見の戦いの銃声を聞いただけで卒倒するような若者だったので、その後も何かあると、10代のうちはしばしば「それならば、京都の生活に戻しますぞ」と、側近から脅されていた。 明治になると徳川家は駿府70万国に削られ、豊かではなかった天皇家はその後、政府から定額の金穀を渡し切りで提供され、臨時の必要経費は別口支給という構造で次第に潤うようになり、廃藩置県や地観改正など経済構造変化の経過を経て、かつての天領(幕府の直轄領)や諸大名に奉還させた優秀な山林のかなりの部分を天皇家の所有にふりかえたので、天皇家はたちまち日本最大の山林地主となり、これも敗戦まで続いた。 8 【廃仏毀釈で天皇家も宗旨替え】 いまひとつ、天皇をかついだ連中は、仏教と神道とを分離させ、神道を天皇家と日本国家の宗教とすることにした。新しい国の精神的支柱を神道に置く〔国家神道の考え方〕である。神道は日本に古くからある信仰だが、仏教が伝来すると、経典や学習法、儀式・祭器・建築物などすべてが壮麗に整っているので次第に仏教の方が神道より格が上になり、神仏は混淆して信仰されてきた。 ヒンズー教や道教などの神や聖人までも仏教に取り入れられた。また鎌倉期から戦国時代の武将たちは文字通り生死を賭けた合戦が日常だったので、死者への供養と自らの来世への安心とを得るために多くの寺院を寄進・改修して仏教を厚く保護してきた。徳川幕府も諸大名もその例に洩れなかった。 ところが封建思想を早く倒したい明治新政府は、ます仏教保護を標的にし、寺院・仏像の廃棄を徹底させたのである.天皇家も強引に神道に鞍替えさせられたが、実は、天皇家は鎌倉時代以後、幕末までずっと京都にある泉涌寺という真言宗の檀家であり、代々の墓も泉涌寺にある。 廃仏毀釈の嵐は吹き荒れて、全国各地で多くの寺や仏像が壊され、焼かれ、仏像や仏教美術品が二束三文で西欧人に売り飛ばされた。奈良・興福寺の五重塔も焼却される運命にあったが、近隣住民が類焼を恐れて猛烈に反対したので今に残った、という。 9 【国家がすべての神々を支配する】 1869(明治2)年2月、東京遷都に際して明治天皇は古例を破って伊勢神宮参拝を行ない、祭政一致、皇道隆盛の大方針を奉告した。さらに皇居に神祇官神殿が建立され、八神(神武天皇が祀ったとされる天皇守護の神々)、天神神祇、歴代皇霊が凄座された。これによって国家が直接に全国全神社の全祭神を支配するかたちを整えた。 そしてさらに、国民教導の要員として神道の教導職がおかれ、まず神職、僧侶が、のちには講釈師、落語家、俳優など、およそ人にものを説くことのできる者は総動員された。国民各層に新しい時代の生活信条を説き、町内・村落、職場などを通じて、上からの国民啓蒙運動を展開した。 全国各地の神社は官幣大社・中社、県社、村社……として格付けされるようになったが、その背景には、天照大神を天皇家の直系の先祖とする考えがあって、その結果、伊勢神宮(ヤマト)系の神と神社は格が高くなり、それまで庶民の信仰がいかに高くても、歴史的には古くても、出雲系の神社は低く格づけされた。 今でも毎年10月には全国の神が全部出雲に集まるので神無月というほど、出雲の神は権威があるが、それらを無視して、地方豪族の祖先神や地方神は天照大神やその一族の神々の家来だとする記紀神話の記述に従ったのである。 たとえば大国主命は、別の呼び名が十数個ある。それは、古くから各地方で信仰されていた証拠と現在は考えられているが、それまでずっと出雲神社より格下であった氷川神社(元来大国主命が主祭神)がスサノオノミコトとその妻のクシナダヒメノミコトを主祭神にすることで、神話ではスサノオが大国主命の上位にあるから(つまり、スサノオは天照大神の弟という理由で)、出雲神社より桔上に認定されるなど、出雲系の神々は露骨な干渉と差別的な扱いを受けた。 東京・神田明神の主祭神は平将門であるが、明治の初めに明治天皇がどこかへ出かける途中として神田明神を参拝することになった。だが、平将門は時の政権に謀反を起こした朝敵であるから、天皇が頭を下げるわけにいかない。そこで、主祭神を伊勢神宮系の神に変更して参拝することにした。理不尽な扱いに対して神田明神の氏子たちは江戸っ子らしく、以後10年間、祭礼を取りやめて抗議の意思表示をしたという事実もあった。 10 【国民の考えや行動を規制する】 社格にしたがい例大祭や定例行事に派遣される参拝使者や祭祀料も格付け・区別をつけられた。氏子組織の再確認とともに、各神社には奉賛会などの組織が強化され、奉賛会中心の寄付・奉仕運動によって、各地の荒れ果てた社殿や鳥居、狛犬、燈籠、玉垣などの施設新調や改修を競わせ、農村地域からは神饌(神前に供える酒食)や注連縄などを定期的に提供させた。 また各家庭には神棚を設置し日々の参拝が奨励された。キリスト教会に倣って、神社で結婚式を執り行うようになったのも、明治以後のことである。個人的な願いごとのほかに、天皇中心の国家行事の際はもちろん、戦争が始まると"戦勝祈願・武運長久"などの徹底のため、機会あるごとに地域や学校単位で神社参拝や境内清掃をするなどは、国民の基本的な義務とされた。 天皇を中心とするピラミッド型の神社の格付けと、それに伴う各種の儀式や行事のかずかずによって国家が国民全体の精神や行動を支配・規制する状態は、1945(昭和20〉年の末まで続いた。これが、かつて森元首相が口にした≪天皇を中心とする神の国日本≫の真の姿である。 11 【純朴な信仰の上に天皇支配の正当性を加える】 明治新政府の国家神道は幕末の復古神道、特に平田篤胤派の国学思想の影響を受けて形成されたが、そもそも神道には他の宗教のように聖典(教典)に相当するものもなければ、厳しい戒律もない。その基本理念ともいうべきものは「自分の良心にしたがって判断して正しいと思ったことを行え」という、至極単純なことである。 神道では、人間はだれもが生まれながらに5つの良い心をもっていると説く。清い心、明るい心、正しい心、素直な心、赤心(まごころ)があれば、話もが神の心に叶った生き方ができると説く。みんなが幸福に、豊かに生活できる世の中にするにはどうすればいいのか、銘々で考え、人のため世のためになることを行えという。 日本人はおそらく縄文時代の昔から、天体や気象、山や海、水源・瀑布、巨大岩石、巨樹・巨木、森林、動物など自然界のほか、農耕や漁労や狩猟、また金属加工や火を扱う技術など、人知を超えた万物に神が宿ると考えてきた。八百万の神々である。 現代ふうに考えれば、自然にも環境にも敬意と感謝を表し、生産行動の開始に先立って真摯に祈り、行終わり一定の成就や収穫があれば神とともに喜びを分かち合って宴会(祭礼)をするという、きわめて素朴で謙虚な生き方である。 もっともな考えだが、支配者にとってはあまりにも漠然としていて、とらえどころがない。ラッキョウやタマネギみたいで芯がなく、いかにも手掛かりがなさすぎる。そこで国家神道の拠りどころというよりも、神々からの直系子孫である天皇が支配する国家体制の"歴史的な正当性"を、記紀神話の記述と挿話に全面的に頼ることにした。 記紀神話はお伽噺ではなく、書かれてあることすべてを日本国民としてありがたく歴史的な事実として受けとめよ、ということにした。これが戦前・戦中の教育ばかりか国民の常識全般を支配した皇国史観である。 12 【支配者が書いた正史の編纂責任者】 『古事記』と『日本書紀』の内容は、第二次大戦後はそれまでの神がかり的強制の反撥で歴史価値は全面的に否定された。しかし最近は考古学的遺構・遺品との照合研究や、中国・朝鮮との関係からの視点、また個々の記述から一定の"歴史的な事実"や"必然的な寓意"を読み解く方法など、多様な研究が進んでいる。 『古事記』(712年完成)と『日本書紀』(720年完成)は同じ世紀の作としてひとくくりにされることが多いが、作られた動機がまったく異なる。『日本書紀』は兄・天智天皇の子=大友皇子と骨肉の争いを演じ(壬申の乱= 672年)、力づくで王権を奪い取った天武天皇が、 682年に自分の息子たちに「南紀」や「上古諸事」を記して定めるよう命じたことが端緒となって編纂されたとされる。 つまり自分が手にした王位の正当性を後世に残すために作られた正史だから、天武天皇(ヤマト政権)にとって都合よく書かれた"偽装の歴史"だ、少なくとも矛盾と作為に満ちていると、戦後は徹底的に批判されたのである。 しかし天武天皇が 686年に死んで、その後30年以上の編纂実務は、天武の後を継いだ持統天皇と権臣・藤原不比等の手によってすすめられた。だから『日本書紀』における歴史偽装の陰謀主体はこの二人にこそある、という学説も説得力がある。 とくに持統天皇が天武天皇の皇后で、しかも天智天皇の娘であるという複雑な立場にあることと、藤原不比等がその娘を持統天皇の息子(後の文武天皇)と結婚させて聖武天皇を生ませ、藤原家と皇室との関係を緊密にした策略家だから、その歴史偽装の"真意"(政敵の抹殺など)がいやがうえにも深読み・裏読みされるわけである。 13 【古事記に登場する最初の朦朧たる神様】 一方の『古事記』は稗田阿礼の語り伝えを太安万侶が文字化した素朴で自由なものとされるが、『日本書紀』とは異なる政治立場の人たちによって編纂されたという見方もある。 政治立場の真偽は不明だが、『日本書紀』が朝鮮半島の百済を重視しているのに、『古事記』は新羅を尊重しているというし、表記の方法も『書紀』が漢音であるのに対し、『古事記』や『万葉集』(770年代完成)は呉音で書かれているという。 記紀は日本最古の歴史記録というが、『書紀』には、各所に「また―書にいわく」と、先行著書からの引用があって、それが複数に及ぶ場合もしばしばあるから、すでにいくつかの記録文書が存在したことを窺わせる。また当然のことながら、両者に表記の違いが見られることは、日本語の表記法が定着するまで、かなりの期間が必要とされたことも想像される。 ところで記紀神話というと、最初に現れる神はイザナキ、イザナミで、日本列島の国生みから物語が始まると思い込んでいる人も多いだろう。実は『日本書紀』では最初に登場する神は国常立尊(クニノトコタチノミコト)で、イザナキ、イザナミはその7代後に現れる。 『古事記』ではクニノトコタチノカミのさらにその先に5代の神々がいて、この神々はみな独身で、しかも姿を見せない(身を隠したまま)で出現(?)することになっている。クニノトコタチの孫の代になって、初めて男神と女神が対になって表れる。 『古事記』最初の神は天の御中主の神(アメノミナカヌシノカミ)という名だが、これは中央・中心の思想的神格表現とも、空間の表示ともいわれ、それゆえにその神の活動も伝えられないのだと解説される。つまり、日本神道の神の系譜は、もやもや、からっぽ、何もない、姿も見えぬところから始まるのである。 神話の始まりとしてはそれなりに納得できる話でも、天皇中心の強権的な国家体制の精神的・思想的基盤として喧伝された―国の誇るべき歴史が、「空白」や「無」の神から始まるというのは、その精神を国民に対して声高に強要しつづけた時代の結末を冷静に振り返ると、きわめて象徴的である。 「無」から生じた末裔の"権威や権力"機構が、その方針の徹底によって国民や周辺国家に与えた莫大な被害や惨害に責任をとる必然は、芯のないタマネギやラッキョ同然に、最初からどこにも存在しなかったのだ。無責任体制は、この国の開閉以来の"栄えある"伝統なのである。 14 【人が神になる場合】 日本ではまた、古くから「カミ」と「オ二」とは同じ概念でとらえられていた。人間も「借りるときのエビス顔、返すときのエンマ顔」に変わるのと同じに、時と場合によって「カミ」も「オ二」になる。 すぐれた活躍や業績によって尊敬され崇拝されて祀られる神ばかりではない。時の敗者や被害者であった死者の霊の"怒りや祟り"を恐れて祀る場合もけっこう多い。祟りの神="荒ぶる神"の御霊を鎮める目的で祀るのを「怨霊信仰」とも「御霊(ごりょう)信仰」ともいう。 このような考えから、ヤマトタケルとか神功皇后など伝説上の悲劇の主人公も多く神として祀られてきた。実在の人物で有名なのは、菅原道真(天満宮)や平将門(神田明神)、崇徳上皇(京都・白峯神宮)など、平安末期の人物が多い。時代の要請であったのかもしれない。 鎌倉期以後は活躍を顕彰して神にするようになり、豊臣秀吉も徳川家康も死後、新たな神社の祭神になった。明治の「国家神道」では天皇の権威を高めることと、国家に功績あった人物を祀るために、桓武天皇と孝明天皇を祭神とする平安神宮(京都)や織田信長を祀る建勲(たけいさお)神社(京都)、楠木正成・正行父子(湊川神社)、本居宣長を祀る本居神社(松阪市)などが創られた。 政府にとって都合のよい"国民の手本とすべき人物"も神として祀られるようになって、その筆頭として「軍神」という概念が作られ、軍国主義時代に、広瀬武夫中佐(広瀬神社=大分県竹田市)、乃木希典夫婦(乃木神社=東京)、東郷平八郎元帥(東郷神社=東京)などが相次いで神として祀られた。 封建時代を躍起に終わらせ、近代科学が取り入れられるようになったという時代に、神の世界と人間の世界をへだてる仕切りがかえって低くなるという奇妙な現象が起こった。誰かを神様にするもしないも、その時代時代の人間の都合次第なのである。 15 【明治神宮の森づくり】 その最たるものは、明治天皇を祀る明治神宮である。1913(大正 2)年に帝国議会で明治天皇のための神宮造営が決議され、それから7年後に、東京・代々木の地に約70万平方メートルの広大な敷地をもつ明治神宮が完成した。神宮の敷地には全国の小学生をはじめ各地自治体やいろんな団体から数十万本に及ぶ各種の樹木が献納されそれらを植樹するために人々が勤労奉仕をして、人手による"神宮の森"をつくった。 この間(1914=大正 3年)に明治天皇の皇后である昭憲皇太后が没したので、皇太后も明治神宮に合祀されることになった。新設の神社にもかかわらず、明治神宮は東京の総鎮守と決められて多くの信仰を集めた。明治天皇と皇后が祀られていることから、明治神宮はいつのまにか縁結び・夫婦和合・家内安全・良縁の祈願成就などの御利益があるとされ、そのため、地の利の良さもあってか、現在も毎年正月3が日には150万人を超える参拝者があり、とくに若い男女たちはそのいきさつを知ってか知らずか、初詣の人気スポットとなっている。 16 【東京招魂社の建設と改名】 神道にはもともと、戦死者をまとめて一か所で祀るという発想がなかった。死者はすべて、それぞれの家の先祖の一人として、家の御魂舎(みたまや)や墓に祀られてきた。ところが明治維新後まもなく、明治政府のなかから、維新戦争のときの官軍(皇室側・政府軍)の戦没者を慰霊する施設を造るぺきだという意見が出てきて、1869(明治 2)年に東京・九段に東京招魂社が建てられた。 この前の年には、京都に霊山招魂社(いまの京都霊山護国神社)がつくられていた。また各藩でも招魂社が次々に建てられていた時期でもあった。死んだ人たちの怨霊の祟りを恐れたのであろうか。そこで東京招魂社では、まず鳥羽・伏見の戦いから函館戦争までの戦没者(約3500柱)を皮切りに、度重なる戦没者を神として祀ることにした。 対象者は官軍の戦没者に限るから、どんなに維新の功労者であっても、たとえば西郷隆盛は西南の役で官軍に敵対して死んだから招魂社に祀られることはない。1873(明治 6)年には徴兵制が布告され、成人男子は洩れなく国のために兵役の義務を課せられた。 1890(明治23)年、第一回帝国議会が召集される直前に「教育に関する勅語(教育勅語)」が発布され、さらに国民に向けて「親に孝行するのと同じ倫理で、天皇(国家)には忠義を尽くす」こと、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」ることが徹底され、子供たちはまず「大きくなったら兵隊になる」と答えるように教育された。 これより先、東京招魂社の名称は1879(明治12)年、明治天皇の意向によって靖国(やすくに)神社と改められた。「靖国」とは「安国」と同じに国を平安にする意味で、平和な国づくりをするために戦死者をしのぼうという発想から名付けられた。しかしこの後、日清戦争にはじまる対外戦争が拡大の一途をたどり、国家のために戦死した者が次々に靖国神社に「英霊」として合祀されるようになり、戦死者の家には「英霊の家」と貼り出され、国民は皇居と同じに靖国神社を遥拝するよう義務付けられた。 春秋の例大祭や臨時大祭には天皇はじめ国の高官が参拝して、戦死は名誉なこととされ、兵役に召集された国民は互いに「死んだら、九段(靖国神社のある場所)で逢おう」を合言葉にし、陸軍の徽章が桜だったことから「花は桜木、人は武士」=桜の花はパッと咲いて散る時もパッと散っていさざよい、まさにこれこそ武士道の精神だ、と国のために散る兵士の心がけの模範とされ、国民を戦争に駆り立てるのに役立てられた。 敗戦によって靖国神社は国家の保護下を離れて一宗教法人となったが、戦没者の遺族と保守(右翼)政治家の思惑と支えによって存続した。とくに東京裁判のA級戦犯を合祀して(昭和天皇は、これを機に靖国参拝を中止した)侵略したアジア諸国へ挑戦する態度を示していることと、歴代の総理や閣僚たちの公式参拝が、サンフランシスコ講和条約や日本国憲法に抵触すると問題化していることはご存じのとおりである。 靖国神社の境内にある「遊就館」は戦争博物館といわれるほど、展示品解説の精神や説明用語は、今も戦前・戦中思想そのままで凍結しているので、戦後生まれの人々には"皇国史観教育"の見本を見聞できる稀有な場所として一見の価値がある。自民党政治家の多くの歴史観は、戦後教育を受けてもよほど成績が悪かったのか、この戦争博物館の展示説明同様、完全に戦時中の「時代のまま凍結状態」にあり、その延長線上に敗戦があることを「愛国者たち」にはっきりと理解させる必要がある。 17 【日本独自の文化には何がある?】 日本には古くから独自の古い伝統や文化が存在する、と愛国主義者たちは声高に言うが、真実はどうだろうか。文字ひとつ考えてみても中国から学んだものだし、紙をすくことも、文章を書くことも、筆記用具なども、みな中国からの移入である。 儒教・道教・仏教、孝行や忠義という考えもそうである。天皇という呼称も、王の変り目にする年号の改正も中国渡来である。日本独自と思われる「花鳥風月」という美意識も中国の六朝時代(後漢が滅んで隋が興るまでの3世紀半ばから6世紀の末ごろまで)の貴族間で手紙を書く際に確立した"美意識"だといわれる。花鳥風月に加える「雨」が日本特有か。 遣隋使や遣唐使が派遣されて、あらゆることを学びに行った歴史的証拠もたくさんある。縦長の掛け軸に絵や字をかくことも、横長の巻物に絵や物語をかくことも、陶器や磁器をつくることも、石臼や水車をつくることも、鵜飼でさえ日本で発明されたものではない。 明治以後、記紀神話の挿絵で、天孫二二ギノミコトが雲に乗って高千穂の峰に降りてくる図を見せられたが、これも浄土教が説く、臨終の際に多くの菩薩が西方浄土から雲に乗って来迎する経典の図を参考にしたものに違いあるまい。来迎図の方がはるかに古いからである。 何から何まで中国文化・文明のお世話になっているのを忘れはて、日本が中国や中国文化を蔑視し始めたのは、明治になって「脱亜入欧」を言い出してからである。韓国を併合し、中華民国に対しても西欧帝国主義と歩調をそろえ出して植民地主義むき出しになり、辛亥革命関連で来日していた多くの若き中国の留学生たちを失望と怒りの淵に追いやった。 幸田露伴は「愛という範疇には、メグシという概念がふくまれるのはもちろんだが、少し間違うとムゴシというところまで行ってしまう場合があることを知らねばならない」と、言っている。「愛国」も同じである。 また、永井荷風はずいぶん早くに「われらは徒(いたずら)に議員選挙に奔走する事を以ってのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷士の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に努むる事を以って第一の義務なりと考えるのである」(『日和下駄』1915〔大正 4〕年)と、開発事業が活発で旧来の東京の風景が失われつつあることを嘆きながら警告している。 愛国心もこのへんならば、少なくとも他人に「ムゴシ」という類の迷惑をかけないですむのではなかろうか。 (了)
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