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2008年11月29日
やしきたかじんの「そこまで言って委員会」に出演して田母神前航空幕僚長らと闘論してきました
毎週日曜日の午後、関西の読売テレビでやしきたかじんの「そこまで言って委員会」という番組がある。
以前二度ほど出演したことがあったが、テレビ映りが悪いのか、しゃべりがへたくそなのか、まもなく出演の声がかからなくなった。
それが突然の出演依頼だ。
どういう風の吹き回しかと思ったら、収録日が11月28日(金)であったため、小沢、麻生党首討論とぶつかり護憲議員が軒並み出演を断ってきた、そのピッチヒッターだと聞かされた。
ばからしくなって断ろうと思ったが、あの田母神前航空幕僚長が出てくると言う。本邦初のテレビ出演をするという。それを聞かされ、興味をそそられて、出演に応じた。
結論から言えば出演して正解だった。じつに面白い闘論になった。
田母神氏は不快な人ではなかった。いい人であった。正直で、単純で、そして、失礼な言い方をさせてもらえば、やはり軽率な人である。
しかし、これはテレビでも発言した事だけれど、逆説的に言えば、我々は田母神氏に感謝しなければならない。
なぜならば、この際、あの戦争はなんであったのかという事を、国民一人一人がよく考えなければならない、その切っ掛けを作ってくれたからだ。
闘論の模様は11月30日(日)午後の関西読売テレビで見ていただきたい(東京、北関東を除いては全国ネットワークらしい。東京は検閲が厳しいからということらしい)。
このブログでは二点に絞ってこの問題に関する私の意見を書いてみたい。
ちなみに、新幹線を乗り繋いで栃木ー大阪を日帰り往復した私は深夜に帰宅したのであったが、テレビのスイッチをひねったら偶然にもテレビ朝日の田原総一郎「朝から生テレビ」で、やはり田母神論文の
闘論をやっているところであった。
その模様を聞いて、次に書く私の思いは、更に固まった。
まず第一点は歴史認識とは個人の意見ではないという事だ。
私は今後どんどんこの問題が国民の前で論議されるほうがいいと思っている。衆院でも田母神氏を参考人として招致する動きがあるらしいが、どんどんやればいい。そして田母神氏に自由に喋らせ、それをテレビですべて放映したほうがいい。彼も喋りたくて仕方がないのだ。それで皆がハピーになるのだ。
喋れば喋るほど、皆がだんだん辟易してくる。弁護できなくなるのだ。
それは「朝生」でもそうだった。田母神論文を弁護する側にいた皇国史観の立場に立つ論者たちの立場がどんどんと不利になっていくことが誰も目にもわかった。
それは当然である。歴史認識とは都合のいい記録や所見を伝聞的に繋ぎあわせてできるものではない。
誰も知らないような瑣末な発言や記録を殊更強調してみたところで、皆を説得できる史実にはならない。歴史認識をめぐる論争は、特殊な知識の競い合いではないのだ。
個人が知りうる知識は所詮限られている。おまけにすべての情報が公表されているわけではない。情報隠蔽や操作もある。だから歴史認識というものは、古今東西の多くの学者や専門家が膨大な時間とエネルギーをかけて検証した業績を総合的に吟味し、大勢とされる意見に従う、それが歴史認識なのだ。
田母神氏の意見は意見として、そしてその田母神氏の意見を擁護する人たちの意見もまた、彼らの意見として主張するのは勝手であるが、今の時点における歴史認識として皆が共有するものにはなり得ない。それは彼らが決める事ではない。いくら議論しても勝ち目はない。
それよりも重要な事は、歴史は国際政治の所産であるという事実である。
日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦を認めたのだ。
勝者が敗者を裁いた東京裁判の判決を受け入れて、A級戦犯を認めたのだ。
その事によって日本は国体を護持し、戦後の国際社会に復帰し、今日の日本があるのだ。
日本だけが悪くはなかった、米国にだまされた、などという事は部分的にはその通りであろう。
しかし、それが如何に悔しくても、国際公約で受け入れた日本の責任を否定しようとすればどういう事になるか。
それは国際孤立である。日本の国益を決定的に損なう事になる。
酒場などで憂さ晴らしをするのは勝手だが、国際社会に向かってそれを日本政府が言えると思うのか。
もう一度米国と戦争するつもりなのか。
そういう事なのである。
二つ目に言いたい事は、なぜ田母神論文事件が起きた遠因としての政治の怠慢である。
政治が歴史認識問題を曖昧にしてきたからこそ田母神論文に象徴される歴史発言問題がいつまでたっても後を絶たないのだ。
実はたかじんのそこまで言って委員会でパネリストたちが最も激しく攻撃したのが、あの村山談話であった。
つまり田母神論文を擁護できない代りに、そのはけ口として社会党党首の名前を冠した村山談話を諸悪の根源であると攻撃することになる。
これまで、日中共同宣言をはじめいくつかの外交文書において歴史認識を示した事はあったが、閣議決定を経て発表されたあの村山談話こそ、政府の歴史認識を示す公式見解であった。
その公式見解である村山談話が、そしてその後の歴代の首相が踏襲し続けてきた村山談話が、なぜ今でもここまで貶められるのか。
それは保守政治家たちが、社会党の党首が首相であった時に作った談話であるから仕方がない、とあの談話を内心で認めていないからだ。
一方の村山元総理は、「自分だからできたのじゃ」と、自民党に担ぎ出された負い目と引き換えに、無理をして評価しているからだ。
あの談話は外務官僚の作文でできた。それを政治の駆け引きでなんとか村山談話に纏め上げたに過ぎないものだった。
敢えて政府統一見解という事なく社会党党首の名前をつけて、それ以降の自民党首相が踏襲していることこそ、自民党の責任転嫁だ。自民党もまた村山談話を貶めているのだ。
そしてそこまで貶められても、村山元首相本人も、護憲政党も、怒る事はない。
つまり自民党も、民主党も、護憲政党も、要するにこの国の政治そのものが、歴史認識から逃げているのだ。
だから田母神論文事件が起きるのだ。
田母神論文事件が起きても、迅速かつ適切な対応が出来ないのだ。
たかじんのそこまで言って委員会においては政治の怠慢が繰り返し攻撃されていた。
そしてその事については私も他の右翼パネリストと同感だ。
歴史認識とは何の関係もないことであるが、テレビ収録とちょうどおなじ頃に行なわれていた麻生・小沢党首討論を後で知って、つくづくと思った。
政権をあらそう二大政党の党首討論がこの体たらくである。
堂々とした政策論争がまるでできていない。
こんな政治で田母神論文問題を追及できるはずはない。
解散・総選挙とか政権交代などという事以前の大問題がそこにある。
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