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http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20081125-02-0901.html
人が人を裁くとはどういうことか 作家・高村薫氏インタビュー
2008年11月25日 ビデオニュース・ドットコム
半年後に開始が迫る裁判員制度について、死刑制度への疑問を表明するなど司法制度について積極的な発言を行っている作家の高村薫氏は、一般人が人を裁くことになる裁判員制度には反対の立場を取る。高村氏は、「裁判」という制度は、法律という一般市民が承認した共同体での約束事に基づいて、法律の専門家が行うことを根拠に成立しているのだとの考えを示し、市民感情を根拠に裁判を行うということの意味が理解ができないと語る。また、神の存在がその前提にある欧米の陪審員制度とは、制度の前提が大きく異なることも指摘する。
人が人を裁くことの意味を問う高村氏に、半年後に施行が迫った裁判員制度の問題点を聞いた。
市民感覚で人を裁けるのか
神保:高村さんは、裁判員制度についてはどのような考えを持っているか。
高村:私は、そもそも人が人を裁くということを考えた時に、法律の専門家が行うということが、人が人を裁くという制度を成立させている根拠だと思う。だから、紙一枚で法律の専門家でもない一般市民が借り出され、法廷に座って人を裁くということ自体が、私には理解できない。もしそんなことが許されるのであれば、裁判という制度の根拠をどこに求めたらいいのかということになるので、私自身は市民が一般参加するということ自体が理解できないという立場だ。
だから、裁判員制度には結果として反対だ。私自身が一市民として、人を裁くということができるとは想像できない。
神保:まさにそこが、裁判員制度の是非をめぐる議論の重要な争点だと思う。推進派はむしろ、市民の司法参加を導入の根拠にしている。専門家だけに任せるのではなく、市民も参加することで、自分のこととして考えるようになるとの主張だ。この議論についてはどのように考えるか。
高村:今回導入され刑事裁判で考えると、市民感覚というのはそもそも何ぞやということになる。市民感覚は、時代や社会などによりいくらでも変わっていくもので、根拠がない。根拠がないものを根拠にして人を裁くということになると、同じ犯罪で、ある時には有罪になり、ある時には無罪になる。あるいは、ある人は懲役10年、ある人は20年ということが根拠なしに起こる。これは、私には想像できないことだ。市民感覚を根拠にするということ自体が私にはわからない。
裁判制度が成立する根拠とは何か
神保:高村さんは、市民が人を裁くようになると裁判の根拠自体がわからなくなるとおっしゃったが、前提になっている裁判の根拠とはそもそも何か。
高村:法律は、一つの共同体の中での約束事だ。一般市民が約束事として承認し、承認することによって機能している。法律に基づく裁判の根拠は、法律の専門家が行うということだ。そういう制度であるから、一般社会が承認をしている。だから、私たち誰でもいい人間、一般市民が行って良いことではない。そうでなければ、そもそも法律家とは何ぞやということになる。
神保:市民の司法参加の意味として、日本人は何でもかんでもお上に頼り、お上に任せておけばいいのだと考えることが問題なのではないかという指摘がある。自分が近代社会の担い手の一部だという意識が希薄で、何かあればすぐに行政等に頼るところが問題であり、司法に参加することで、参加意識が増すはずだと裁判員制度の推進派は主張している。
高村:法律の専門家に任せることの意味は、市民が承認をするということなので、お上に全部預けるという意味ではない。それに、法律はあくまで主権者たる国民が、この法律でいきましょうという承認を与えているわけだから、決してお上任せではない。
むしろ、本来であれば、裁判は政治家たちが法律を恣意的に運用することを裁くことができる。あくまで三権分立だから、裁判はお上からは独立したものであるべきだし、そうであるという前提をもとに裁判制度というものを承認しているのだと思う。なので、お上に任せるというのは全く違う議論だ。
なぜ今、裁判員制度なのか?
神保:今の日本で行われている、専門家が長い時間をかけて事実認定と刑期を決める精密司法を否定する根拠を、「時代の要請」だと推進派の人は言う。今裁判員制度を推進しようと考える人たちやその動機について、時代の何がそう言わせているのだと高村さんは考えるか。誰かにメリットがあるのか、あるいは、彼らなりの公共心から主張しているのか。
高村:今推進派の方々が言っている「時代の要請」という言葉は、後から出してきたものだと思う。時代の要請というのは漠然としているし、変化するものだ。だから、大きく裁判員制度を変える条件に、時代が当たるはずがない。
なぜこんなに拙速に、刑事裁判で、しかも重大な刑事事件に裁判員制度に導入することになったのか。非常に公正な立場、もしくは公共の精神に基づいて裁判員制度を考えるのであれば、当然民事のほうから始めるべきだったわけだが、民事は政府が絶対に手放さない。本当は民事裁判の方が、市民感覚を生かすべきところとして裁判員制度が適切だが、政府の壁を突破できないから、とりあえず刑事裁判でということになったのだろうと、私は理解している。刑事裁判を時代の要請に合わせるということが最初にあったのではないと考える。
神保:どうしても民事裁判を手放したくない政府の論理をおうかがいしたい。
高村:民事裁判の中でも、特に行政訴訟だ。行政訴訟では、どんなにしても国あるいは行政府の責任が問われたことがない。たとえ公害裁判などで問われたとしても、20年、30年かかる。決してすっきりと責任が認められるわけでもなく、和解という形で落ち着く場合が多い。そういう形での、国と行政府の壁の厚さ、高さ。私は、これがこの国の一番の問題のところだと思う。
私たち市民が裁判に参加をして、いわゆる公共の利益について、私達の意識、私たちの希望を実現させるというのであれば、絶対に行政事件だ。行政事件で、私達の公共の利益が守られなければならないし、私たちの本当の公共の利益というのは、行政裁判でしか実現されない。しかしその部分は、当面崩れない壁だ。
※各媒体に掲載された記事を原文のまま掲載しています。
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