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2008.11.12
テレビの政治討論番組で「日の丸・君が代」の強制について批判的に言及した人に向かって、別のスピーカーが「あんた、日本人止めなさい」と怒鳴りつけた。
不思議なロジックである。
「日の丸・君が代」が国旗国歌であるということはいわゆる「国旗国歌法」によって9年前に定められた。
国法に疑義を唱える人間に向かって「だったら日本人を止めろ」ということが適法的であるとするなら、国憲に疑義を唱える人間についてはどうなるのであろう。
たしか私たちの国の政権与党はひさしく「改憲」を党是として掲げいる。
憲法は片々たる法律とは違う上位規定である。
憲法98条にはこう記してある。
「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」
下位規定である法律に「疑義がある」という人に向かって「それなら日本人を止めろ」と言うことができるなら、論理的には改憲派の全員に対してはさらに強い口調で「日本人を止めろ」と言うことができるはずである。
そうでなくてはことの筋目が通るまい。
この番組ではひさしぶりに教育問題が論じられていた。
「ヤンキー先生」という通り名で知られたという人が日教組が日本の教育をダメにした、ということをさかんに言っていた。
日教組の元書記長という人が別にダメにしていないとあまり迫力のない反論をしていた。
「ダメ」というのはどういうことかがよくわからない。
というのは、この討論の場にいた人たちは全員が「日教組が日本の教育をダメにしていた」時代に学校教育を受けた人たちだからである。
もし「日教組が日本の教育をダメにしたせいで、日本の子どもは全部ダメになった」というのが本当なら、その論を立てている当の本人が日教組によって知的に致命的に損なわれたはずであるので、その人の言うことはたぶん支離滅裂であり、その議論には信憑性がないことになる。
逆に、その人の主張が正しいなら、彼は正しく推論ができるほどに知的だということになる。先天的才能や後天的な努力や「もののはずみ」でその影響が簡単に払拭しうるものであるならば、日教組のイデオロギー的バイアスは論ずるに足るほどの力を持っていなかったということになる。
とりあえずその場にいた全員は自分たちは「日教組の教育」からまったく影響を受けていないということを前提にしゃべっていた。
私はその前提でよろしいかと思う。
「日教組の教育」はたぶん誰にもたいした影響を及ぼしていないのである。
私はエドゥアール・ドリュモンという反ユダヤ主義者の書いたものをずいぶん熱心に読んだ時期がある。
ドリュモンは「近代反ユダヤ主義の父」と言われたイデオローグである。
しかし、さすが盛名をうたわれただけあって、その反ユダヤ主義は「捨て身」の構えのものであった。
ドリュモンによれば、19世紀フランスの政府機関も財界もメディアもすべてはユダヤ人によって支配されていた。
フランス人は誰も自分たちがユダヤ人に支配されてることを知らないくらい完璧にユダヤ人に支配されていた。
現にドリュモン自身、ユダヤ人がオーナーである新聞社でたいそう気分よく働いていたくらいである。
そしてある日、フランスのすべてがあまりに根深くユダヤ人に支配されていたために当のドリュモン自身が「ユダヤ人の走狗」として、ユダヤ人支配の実相を隠蔽する作業に前半生を捧げていたという「事実」を「発見」したのである。
「私自身が40年間完全に騙されていたくらいにユダヤ人のメディア支配は徹底していた」というロジックをドリュモンは採用した。
「自分の無知」という事実をカミングアウトすることによって「自分の明察」を基礎づけたのである。
そうやってドリュモンは「反ユダヤ主義の父」になった。
私はドリュモンという人は知的にかなり問題を抱えていた人だと思うけれど、その捨て身の構えには一目を置く。
「陰謀史観」をそれなりに説得力のあるものにしたいと望むなら、人はその「陰謀」によって、どれくらい自分自身の明察が損なわれていたかという「おのれのバカさの構造の吟味」から始める他ない。
そして、そのような離れ業を実際にやってみせたイデオローグは思想史上ほとんど存在しないのである。
そこまでする気がないなら、「日本の子どもを組織的にダメにしている政治結社が存在する」というような妄説は口にしない方がいい。
翌日、前航空幕僚長が参院外交防衛委員会に参考人招致されて、自説を述べていた。
彼もまた自分の明察に基づいて発言していた。
「正しいこと」を言って何が悪いと彼は言い放った。
言い放つのは構わないが、そういう人間は「言論の自由」というような大義名分を口にしてはならない。
つねづね申し上げているように「言論の自由」というのは、「自分の持論の当否について検証できるのは私ではなく他者である」という「場への信認」のことである。
『大人のいない国』でしつこく書いたことだけれど、「言論の自由」とは何のことか、もう一度繰り返す。
メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出されるとき、「その正否真偽を審問する場」の威信を認めなければならない。それを認めない人間はそもそも「言論の自由」の請求権がないと私は思う。
「私は誰がどう思おうと言いたいことを言う。この世界に私の意見に同意する人間が一人もいなくても、私はそれによって少しも傷つかない。私の語ることの真理性は、それに同意する人間が一人もいなくても、少しも揺るがないからである」と主張する人間がいたとする。彼は果たして「言論の自由」を請求するだろうか。私はしないと思う。「私は誰の承認も得なくても、つねに正しい」と主張する人がその上なお「言論の自由」を求めるのは、「すべての貨幣は幻想であり、無価値である」と主張する人間が、その主張を記した自著の印税支払いをうるさく求めるのと同じように背理的である。というのも、「言論の自由」とはまさに「他者に承認される機会を求めること」に他ならないからである。
「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名することである。自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間が請求しているのは「言論の自由」ではなく、「教化する自由、洗脳する自由、他者の意見を封殺する自由」である。彼は「自由な言論が行き交う場」の威信を構築するために汗をかく気はない。なぜなら、彼の言葉は他者たちによる吟味の場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。もし、「言論の正否真偽を審問する場の成立に先立ってすでに真理である言葉」が存在しうるというのなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。その場合には、「言論の自由」は真理を語る人間だけに許され、それ以外のすべての人間は「同意」か「沈黙」のいずれかを選択すべきであろう。もし、真理が「言論の自由に行き交う場」とは違う審級で、その場に差し出されるに先んじて、すでに決定されうるなら、そういうことになる。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論の行き交う場」そのものであるという、場の威信に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない。「聴き手が同意しようとしまいと、私は言いたいことを言う」という態度に、場の威信と場の判定力対する信認を認めることはむずかしい。
「言論の自由」を自説を公開することの根拠とする人間に何より求められるのは「情理を尽くして説得する」という構えだろうと私は思う。
自説に反対するであろう人たちとも「ここだけ」は共有できるというプラットフォームを探り当て、「とりあえず、ここまではよろしいですね」という同意をどれほど迂遠であろうとも、一歩一歩積み重ねて、そうやってはじめて「説得」という営みは成り立つ。
だから、「説得」とは「私は正しい、おまえは間違っている」という話型を取らない。
私も永遠の真理を知らず、あなたも知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」であると私は考えている。
誤解している人が多いが、「言論の自由」に基づいて私たちが要求できるのは「真理を語る権利」ではなく、「間違ったことを言っても罰されない権利」である。
その権利の請求の前件は「私は間違ったことを言っている可能性がある」という一項に黒々と同意署名することである。
だから、「私は正しく、おまえは間違っている」という前提から出発する人は「言論の自由」の名において語る権利を請求できないだろうと私は思う。
彼は「絶対的真理」の擁護者なのであるから「絶対的真理」の名において自説を語るべきだろう。
それがことの筋目ではないのか。
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