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2008年11月09日
知り尽くす事のできない史実の一つ一つ
田母神事件について私が繰り返しこのブログで書いている事は、今の世の中を生きているわれわれは、過去の歴史のすべてを知り尽くす事はできない、ということだ。
ましてや、一人の人間が、自分の歴史認識が正しいなどと言い張る事はあまりにも傲慢である。
我々は、どのような小さな歴史の一コマでも、一つでも多くそれを知るようにつとめ、そして新しい史実を見つけた時は、それを自らの歴史認識に積み重ねていく必要がある。
11月9日の東京新聞「こちら特報部」でまたひとつ私は歴史の一コマを垣間見た。
1945年8月15日に全国に流された昭和天皇の玉音放送(終戦の詔書)。
それを放送前日の深夜に宮内省に向かって録音した日本放送協会(現NHK)の元技術職員の一人、玉虫一雄さん(86)のインタビュー記事があった。
宮内省に向かった録音班は玉虫さんのほか5人。当時23歳の玉虫さんは最年少だったという。
玉虫さんを除く全員はいまやすべて鬼籍に入り、文字通り玉虫さんは唯一の生き証人である。
その玉虫さんの言葉を交えて、東京新聞の記事は当時の状況を次のように書いていた。
・・・当初の開始予定の午後6時を過ぎても一向に録音が始まる気配はない。時間ばかりがじりじりと過ぎていく。そのころ、詔書の内容をめぐって閣議で激しい議論が続いていたが、玉虫さんらは知るよしもない。
詔勅の内容が決まり録音が始まったのは、間もなく日付も変わろうという午後11時30分近かった。軍服姿の天皇が部屋に入り、マイクの方へ歩いていく。
「当時、天皇と言えば神様ですよ。まともに姿を見るなんてできない・・・失敗なく録音できるか、そっちの方が心配だった」・・・
録音は二度にわたって行なわれた。一度目を終え、天皇が宮内省職員を通じて「どうだったか」と問い掛けた。協会職員が「数ヶ所不明な点がある」と答えて再度の録音が始まる。ラジオで流されたのは二度目の方だ・・・
(玉虫さんは語る)「ふだんわれわれが接している言葉ではないし、抑揚も違う。はっきり覚えているのは『忍ヒ難キヲ忍ヒ・・・』のところだけ」。
陸軍に不穏な動きがあったため録音盤は宮内省で保管することとなり、玉虫さんらは(日本放送協会のある)放送会館にもどろうとする。
15日未明に坂下門に差しかかろうとした時、思わぬ事態が待ち受けていた。玉音放送を阻止するため録音盤を奪おうとして企てた反乱軍に銃をつきつけられ、兵士の詰め所に軟禁されたのだ。
「殺されるんじゃないか」と思ったという玉虫さん。「蚊がいるし、暑いし、狭いし。木の長いすに座らされて、私語は禁止でトイレに行くにも兵隊がついてくる。いつ解放してくれるのかってそればかり考えていた」
(結局)録音盤を見つけることが出来なかった反乱軍は、午前7時に玉虫さんらを解放。
「(反乱軍に録音盤を奪われず)玉音放送のおかげで死者1千万人ともいわれた本土決戦を避ける事ができたと思う」と語る玉虫さん。
田母神前幕僚長は、このような歴史の一コマを知っているのだろうか。
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