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[机上の妄想]麻生「漫画政権」が放置する「三つの格差」の母屋で“おがる”田母神「軍事皇道派」の狂想
http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/663.html
投稿者 鷹眼乃見物 日時 2008 年 11 月 05 日 21:25:46: YqqS.BdzuYk56
 

*p1*[机上の妄想]麻生「漫画政権」が放置する「三つの格差」の母屋で“おがる”田母神「軍事皇道派」の狂想


<注記0>


お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください・
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081105


<注記1>


「おがる」とは東北地方の方言で、なぜか急に元気よくムクムクと何かが頭を擡(もた)げるように隆起したり、屹立したり、成長したり、芽生えたりするという意味です。


<注記2>


当記事は、いま話題となっている「田母神論文」なるものの具体的内容について逐語的に分析・批判するものではありません。


強いて言うなら、“何故に今このタイミングで、何故このようにアナクロで非常識な<田母神論文なるもの>が、突然、あの余りにも有名な「アパグループ」の懸賞論文・受賞作品として世に出現し、華々しく脚光を浴びることになったのか?”、という自分勝手な問題意識をネタに、その背景についての[妄想]を膨らませてみたものです。


ただ、それだけのことであることを何卒ご了承ください。


【画像1】Oscar Lopez - Lucia
[http://www.youtube.com/watch?v=XA-E82Dvq2o:movie]


【画像2】Dulce Pontes - Fado Portugue
[http://www.youtube.com/watch?v=Ui2zIM8FWS4:movie]


【画像3】ゴヤ『理性の眠りは怪物を生む』
[f:id:toxandoria:20081105204452j:image]
Francisco Jose de Goya y Lucientes(1746-1828)「The Sleep of Reason Produces Monsters」From the series Los Caprichos , plate 43 Etching and aquatint 21.6 x 15.2 cm


フランス革命前後の影響(度重なるフランス軍の侵入など)を受けて、大激動期のスペインに生きたゴヤはロココ的な魅惑と官能の世界から、戦争と悲惨、狂信と妄想などグロテスクな世界まで、あらゆる美を描き尽くしています。特に、病を得て聴力を失ってから暗い内面世界へ没入しますが、そこで首尾一貫して見られるのは、ゴヤの恐るべき程まで透徹した、まさに鬼気迫るアリズムの眼です。


この作品は『版画集、気まぐれ/83点』(1797〜1798)の中の1点です。この版画集のテーマは「人間の傲慢(驕り)、愚劣さ、無知、嘘、偏見などに対する批判」と「理性の眠りが生む悪夢のような世界」です。


ゴヤは、フランス革命前後の激動するスペイン社会の中で、この「理性の眠りが生む悪夢のような世界」が現実化(物象化)する場面、つまり政治権力者、宗教者、革命家、あるいは軍人らの驕れる心が「人間社会にもたらす悪夢のような悲劇」(悪徳のリアリズム)を凝視し続けました。なお、「フランス革命前後のスペイン・アンシャンレジーム社会」と「そこでゴヤが凝視した悪徳」については、下記記事◆を参照してください。


◆2008-10-31付toxandoriaの日記/アンシャンレジーム、流血革命、利己主義・・・「驕れる心の物象化」を凝視するゴヤの視点(映画『宮廷画家ゴヤは見た』の感想)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081031


・・・・・・・・・


(田母神論文(軍事国家型の狂想)を育んだ現代日本の三つの格差)


シセラ・ボク(Sissela Bok/スウエーデン出身の哲学者、ハーバード大学人口・開発研究センター研究員)は、その著書『共通価値−文明の衝突を超えて』(小野原雅夫・監訳、宮川弘美・訳、ウニベルシタス叢書)の中で、現代世界の根本には杞憂すべき三つの格差とその拡大傾向(下記(1)〜(3))が存在すると述べています。しかも、“米国流ネオリベ型「利己主義」の受け売り”に過ぎなかった詐欺師・ペテン師ら(小泉・前首相及び竹中平蔵ら御用学者)が仕立てた擬装「構造改革路線」を、一寸見ではマンガ的な威勢の良さながら、内実は面従腹背の如く綿々とひたすら小泉路線の流れを引き継ぐだけの自民党「麻生漫画政権」が支配するこの日本では、特にこの傾向がますます強まっています。


(1)経済力格差・・・世界で最も裕福な人々と、最も貧しい人々の間の収入の格差が、この三十年間で倍増している。


(2)言語力格差・・・戦争が日々にもたらす残虐性や苦痛を目前にしながら、その内容を適切な言葉で表現することができない人々が甚だしく増加しつつある。


(3)情報力格差・・・(1)、(2)の問題に関心を寄せる人と、これに無関心な人との格差が甚だしく広がりつつある。


「経済力格差」について見るならば、たとえ麻生流の「追加経済対策」(参照、→ http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-34642520081030)をいくら打ち出しても、それは近未来の時間軸を人質に取った子供騙しのネズミ講(ネズミ講型ビジネスモデル=“2兆円の擬似餌バラマキ”と“増税(3年後)”の“回しサヤ取り堂々巡り方式)に過ぎず、結局、内発型の地域経済発展と内需拡大による新しい付加価値の創造などはとても叶わぬ「砂上の楼閣」であることを肝に銘じるべきです(ネズミ講型ビジネスモデルについては、下記●を参照乞う)。


●2008-10-14付toxandoriaの日記/民主党も“ウオール街ポンジー・ビジネス教”の狂信徒か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081014


例えば、今や一千万人を超える「年収200万円以下の貧困層に属する人々の問題」を放置し、それと裏腹の関係にある「中間層の没落傾向の問題」を傍観するままでの「定額給付金2兆円バラマキ政策」は愚の骨頂たる税金の無駄遣いです。同じ2兆円を使うのであれば、先ず「生活保護費」を食い物にするような悪徳「貧困ビジネス」が跋扈する現状を改善・支援するための新たな制度づくりに活用すべきです(参照、下記★)。あるいは、崩壊しつつある国民皆保険制度の下支えに一刻も速く取り組み、とめどない不安・不信の連鎖から遣り場を失いつつある国民一般の政府への信頼を取り戻すため、選挙目当てのバラマキのような邪道の策ではなく国民の厚生充実を目指す正攻法の政策努力に取り組むべきです。


★2008.11.4放送、NHKクローズアップ現代『援助か搾取か “貧困ビジネス”・・・今、年収200万円以下の人は全国で1000万人以上。こうした低所得層を対象にする「貧困ビジネス」が横行している。』、http://www.nhk.or.jp/gendai/


また、「マルチ商法の上がり」から政治資金を集めるような<経済とビジネスの根幹部分についての理解という意味で余りにも低次元で、お粗末で、しかも姑息で意地汚い政治姿勢>を改めて(この点については民主党も同罪!!・・・)、日本社会の存続基盤である中間層の人々の日常生活のニーズに照準を当てたビジネス拡大を目指す、つまり本来の意味での経済活動(持続的に新たな付加価値創造を日々に図る仕事)を目指す、多くの真摯な中小企業経営者らの「ニーズと信頼」に応えるため新たな支援制度づくりに活用すべきです。


「言語力格差」と「情報力格差」について見るならば、この問題の大きな責任は、ひたすら政権与党に媚びてきたマスメディアにあると見なして良さそうです。つまり、彼ら(小泉劇場の出演者、マスゴミ、御用学者、芸能人ら)は、お得意のポピュリズム(B層向け愚民政策の提示 → 善と悪、敵と味方に二分してみせるパフォーマンス、あるいは複雑な利害調整プロセスを、今流行のイロイロ検定試験あるいはテレ・コングかTVクイズ番組の如き単純化を施すこと)によって実に狡猾に小泉劇場の詐欺的本性をカムフラージュしてきたのです。


この意味では、特に小泉劇場のバカ騒ぎで率先して旗振り役を担った民放テレビの責任が重大です。なぜなら、その「小泉劇場」と「民放テレビ」との間には、いま流行の“源氏物語絵巻についての新発見”ではありませんが、何やら薄気味悪く不可解な“紫色の雲”(=彼らが、善良な日本国民を裏切りつつ、持ちつ持たれつの利害関係を隠してきた状況証拠)が延々と棚引いているからです。しかしながら、その核心部分の摘出と解決策への取り組みは殆んど絶望的にすら見えるようになっています(この具体的内用にについては、下記◆を参照乞う)。


◆2008-10-08付toxandoriaの日記/日本の民主主義を退行させた“小泉劇場&民放TV(マスゴミ)”の妖しい関係の罪の重さ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20081008


このため、誰の目にも解決困難に映る過酷な「経済力格差」への絶えざる不安と不満が、言い換えれば、もはや何処へも遣り場がなくなり熱く煮えたぎるマグマと化した多くの国民層のルサンチマン(ressentiment)が、その捌け口を求めて「軍事国体型国家主義=軍国主義ナショナリズム」へ向かって奔流する寸前へ接近しつつあるのが、別に言えば「軍事国体型国家主義=軍国主義ナショナリズム」の臨界に入りつつあるのが今の日本社会の実像だと思われます。しかも、少子貧困化傾向におけるマーケット縮小のなか“貧すれば鈍する”の謂いで、御身第一主義に徹する<御用メディア>がその先導役に傾き始めています。それは1930年代の日本の社会環境とひどく似通った状況です。また、この観点からすると、公安警察としての眼力を誇示しつつ“あらゆる形での麻生批判”を力でねじ伏せる遣り方が目立ち始めたのもむべなるかなと思われます(参照、下記★)。


★村野瀬玲奈秘書課広報室/「特別公務員暴行陵虐罪」では?(麻生邸リアリティ・ツアー逮捕事件)、http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-974.html


★「麻生邸」見物デモでの逮捕映像、視聴回数14万回超 ・・・「ユーチューブ」ランキング上位、http://www.zakzak.co.jp/top/200811/t2008110403_all.html


(田母神論文の背景にある現代日本の統制派の存在)


時恰も、このような最中に“猛り狂った脱兎か猪突”の如く『おがり、飛び出した』のが「田母神俊雄・前航空幕僚長の論文」です。しかも、この問題論文のお膳立てをしたのが、かの「アパグループ」(アパグループ第一回「真の近現代史観」懸賞論文・受賞)であるということは、この問題の背後にも不可解な“紫色の雲”らしいものが延々と棚引いており、その雲か霞かの彼方には、あの昔懐かしい「安部の美しい国」、「安晋会」、「耐震擬装マンション」などの建造物が屹立しています。これらの「なぜか天高く隆々と聳え立つが如き“おセレブ耐震擬装マンション”似の建造物群」こそが「田母神俊雄・前航空幕僚長の論文」問題を育てた培養器の一つであることが窺われます(参照、下記▲)。


▲「dj19の日記/トンデモ田母神俊雄・航空幕僚長「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」、http://d.hatena.ne.jp/dj19/20081031/p2


そして、もう一つの「田母神俊雄・前航空幕僚長の論文問題」の培養器として疑われるのが「与党政権内の極右派における“皇道派と統制派の暗闘”の問題」です。この論題については、下記記事■で取り上げたことがあるので、《関連する部分だけ》を下に、ほぼそのままの形で抽出・転載(一部分修正)しておきます。


■2006-10-31付toxandoriaの日記/安倍政権内における“皇道派と統制派の暗闘”を許す「メディアと民度の劣化、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061031


・・・・・


《 周知のとおり、1930年代の日本では、軍部が中心となってファシズム思想が強まり、彼らは、「昭和維新」(=昭和の改革)を合言葉にファシズム的な国家改造を夢見ました。そこで、彼らはワシントン体制(1921年のワシントン会議と四カ国条約を前提として日本の独占的な中国進出が抑えられた/1930年代の東アジアを巡る国際協調体制)を前提としつつ英米と協調しながら日本の国際外交の展開を構想する政治勢力を「現状維持派」として蔑み、自らを独善的に「改革派・革新派」と位置づけたのです。そして、対外的には軍事力強化による東アジアでの覇権を目指し、国内的には神格化された天皇を前面に押し出して「政党政治」(議会制民主主義)を押さえ込もうとしたのです。ここで見られるのは、異分子的な考えや一切の批判を許さぬという、強健軍事国家の「国粋主義の押し付け構造」です。


一方、このファシズム体制の中核となった日本陸軍の内部では「皇道派」(天皇に直結しつつ昭和維新を実現しようとする、やや観念的・直情的な青年将校らが中心の勢力)と「統制派」(観念的な皇道派に対し、現実的でファシズムへの論理的なプログラムを持つ一派/その中心は東条英機、片倉衷、永田鉄山らで、謂わばこちらが本家・本命の確信犯的な「日本伝統の追憶のカルト」)の対立が深刻化していました。が、遂に1936年2月26日(昭和11年)、右翼(北一輝、西田税ら)と結び皇道派の軍事政権の樹立を目指した青年将校たちが、歩兵第1・第3連連隊及び近衛歩兵第3連隊ら千数百名の兵士を率いて、クーデタ「二・二六事件」を引き起こします。彼らは、内大臣・斉藤実、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監・渡辺錠太郎らを殺害し、首相官邸・東京朝日新聞社などを占拠しました。

結局、これら青年将校らの反乱は鎮圧されますが、クーデタの勃発当初に反乱を容認するかのような曖昧な態度と措置を取った陸軍首脳部は、自らの失態を隠蔽し、事件に対する国民からの非難を逸らすために青年将校らを速やかに極刑に処す決定をします。このため、クーデタにかかわった青年将校らは“一審制・非公開・弁護人なし”の「特設軍法会議」で死刑の判決を受け処刑されます。また、一連の粛清人事によって「皇道派」系の分子は悉く排除され、寺内寿一・陸相らの「統制派」が実権を掌握し、次いで成立した広田弘毅・内閣では「軍部大臣現役武官制」(1900年(明治33)に山県有朋・内閣で制定され、1913年(大正2)の山本権兵衛・内閣で廃止されていた)が復活し、これ以降、軍部は内閣の死命をその一存で制することになります。その後、広田弘毅・内閣は「国策の基準」(北方進出と南方進出の基本構想)を決定し、そのための大規模な軍事拡張・侵攻政策を推進することになります。


この「二・二六事件」の経緯から透けて見えるのは、一枚上手であった「統制派」が観念的・直情的な「皇道派」のクーデタを狡猾に利用して“殆んど批判を浴びることなくカウンター・クーデタ”を首尾よく“合法的に成し遂げた”ということです。この辺りは、ヒトラーが一般国民の圧倒的な支持の下で“合法的にナチス政権を樹立した”プロセスと酷似しています。彼らは、これによって「皇道派」を抹殺・粛清するとともに英米と協調する形での日本の国際外交の展開を構想するリベラルな政治勢力であった「現状維持派」に対して圧倒的に優位な地位を獲得するとともに、遣り場を失ったルサンチマンに身を焦がす国民一般から大きな支持を得ることにも成功したのです。


このことは、本流の「追憶のカルト」(日本の長い歴史の中で培養されてきた武断的・国家主義的・ファシズム的な思想の系譜)が非常に強(したた)かであることを示唆しています。また、これら「追憶のカルト一派」には想定した一定時間内での戦略的結果を急ぐという傾向、及び一種のエリート主義・アリストクラシー(貴族主義)的で特異な意識(大半の一般国民を蔑視する特異な意識)を持つという傾向が見られます。見方次第ですが、自らの論理と観念(哲学)に嵌り、溺れるという意味で、これは、「イラク戦争で先制攻撃論」を押し通したアメリカの「ネオコン一派の狂信性」、あるいは「フランス極右の超観念性」と通じるものがあるようです。


なお、ネオコン一派の多くが、少数エリートによる「永続革命」を夢見たトロッキスト(極左)の転向組であることは周知のとおりです。そして、今の日本において、このような意味での倒錯的アリストクラシー(世襲・寄生職業で脳内環境が激しく異形・視野狭窄化した、まるでマニエリスム絵画の登場人物の如く病的なまで歪んだ選良意識)を身に帯びた輩が小泉・安倍・福田・麻生ら二・三世の国会議員です。特に留意すべきは、彼ら世襲議員たちが決して一般国民の「現実生活」を見てはいるが、それをリアルに理解(実感)していないということです。つまり、彼らが見ているのは、「世襲・寄生職業のスクリーン」を通してフィクションされた「漫画、劇画」あるいは「ゲームソフト」のようなヴァーチャルリアリティに過ぎないのです。


ともかくも、このように見ると、“魑魅魍魎の人材を数多に抱えながら、美しい国という現実離れした飾り言葉の下で、いい加減な曖昧さを前面へ押し出した安倍政権の異様で分かりにくい政治スタンス”には非常に危(あやう)い実像が隠れていたことになります。その政治スタイルは、露骨な形でメディアへの統制と圧力を強める一方で、一般国民の顔色(=支持率調査と投票行動の動向)を狡猾に窺うという独特のものでしたが、その裏側では、恐らく、現代版“皇道派の闊歩”が始まっていたのです。


そして、この政権与党の母屋で育まれてきた「皇道派」のタネは、擬装「構造改革劇場」の小泉政権下でタップリと養分を与えられ、安部政権下で漸く双葉が目立つ程度まで“おがり”、その“おがった”ばかりの皇道派の苗は密かに安部から福田へ、そして福田から麻生へと譲り渡されてきたという訳です。因みに、この「皇道派」の苗床に栄養供給の役割を果たすグループの主なものを列記すると以下のとおりです。


・・・歴史検討委員会、日本会議国会議員懇談会、神道政治連盟国会議員懇談会、旧・終戦50周年国会議員連盟、(日本の前途と歴史教育を考える)若手議員の会、超党派議連・歴史教科書問題を考える会、教育基本法検討特命委員会、新しい歴史教科書をつくる会、 etc 》


・・・・・


ともかくも、《この部分》を振り返って思い知らされるのは、一種のエリート主義・貴族主義的な特権意識(=大半の一般国民を賤視するという特異な意識)を持つ傾向が見られる「統制派軍国主義者(軍人)」の常軌を逸する強かさであり、これは生粋の国粋主義思想家(国家主義者)や同種の政治家にも通じることです。従って、今回の「田母神俊雄・前航空幕僚長の論文問題」は、実は既述の“猛り狂った脱兎か猪突”の如き単純なものではなく、日本の政権与党内「極右派」と「自衛隊内部の統制派」、およびこれらの動向にアカデミズムのお墨付きを与える役割を分担する「極右知識人グループ(渡辺昇一ら)」および「各種支援グループ」(上記)の間で、巧妙かつ計画的に蒔かれてきたナショナリズム(国家主義、国粋主義)の種が芽を吹いたと見なすべきです。


更に懸念されるのは、日本の政財官界、アカデミズム、メディア(ジャーナリズム)および防衛省(自衛隊)の中で、このような動向を是認するか、あるいは一般国民(特にB層ターゲット)を洗脳しつつ、その方向へ誘導することに率先協力すべきだという空気が、既に相当広く、しかも深く浸透しつつある節があることです。例えば、かなり多くのネットや出版ジャーナリズムでは「田母神論文」に類する、あるいはこれを擁護する国粋主義的な言論活動が活発に行われていること、あるいは今回の<アパグループ第一回「真の近現代史観」懸賞論文>について「田母神俊雄・前航空幕僚長」以外に50人を超える自衛官が応募していたことが判明したと報じられたことなどが、そのような懸念を裏付けています。(参照、下記★)


★NHKニュース『論文応募の自衛官 50人超か』、http://www.nhk.or.jp/news/t10015138281000.html#


(フランスの事例に見る、現代の知識人が重視すべきミニマリズム価値の視点) 


ところで、知識人が国家主義(国粋主義)の空気を煽って一般国民へ大きな影響を与えた事例の典型をフランス現代史の「ドレフュス事件」を巡る動きの中でリアルに見ることができます。19世紀末〜20世紀初頭にかけて、フランスの世論を二分した「スパイ冤罪事件」が「ドレフュス事件」です。


この事件は、1894年12月に軍法会議が参謀本部付砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus/1859‐1935)に対し軍事機密漏洩罪で位階の剥奪と流刑を宣告したことに始まります。パリ駐在ドイツ武官が入手した機密文書売渡し明細書の筆跡がドレフュスのものと判定されたため彼が有罪とされましたが、それが冤罪である疑いを示す証拠が見つかったことから波紋が広がり、ドレフュス派と反ドレフュス派にフランス国民の立場を二つに割る大事件に発展しました(なお、ドレフュス事件の経緯についての詳細は下記★を参照乞う)。


★ドレフュス事件、http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761560347/content.html


そのうえ、ドレフュスがユダヤ人であったため、ドレフュス派は少数にとどまり少なくとも初めは反ドレフュス派が優勢でした。そして、反ドレフュス派には反ユダヤ主義者、愛国主義的右翼、普仏戦争(1870-1871)への恨みから対独先制攻撃を叫ぶ軍国主義者ら第三共和体制(1871-1940)に不満をもつ雑多な潮流が流れ込みます。ついには、真犯人の証拠が出るなど冤罪の可能性が高くなり、再審論を展開していたゾラが「われ弾劾す」と題する大統領あての公開状を急進派の日刊紙「オーロール(Aurore)」に発表(1898年1月13日)したため大反響となり、人権擁護同盟など再審派知識人の活動が活気づきます。


が、この時点でドレフュス事件は既に政治問題となっており、左派と共和派の一部は人権同盟を組織してドレフュス救援への取り組みを開始し、極右の一部はクーデタを狙うようになります。やがて、有罪の根拠にされた文書が偽造であることが明らかとなり、その偽造を自白したアンリ大佐が謎の獄死をしたため一層新聞と世論が沸騰します。あくまでも軍の権威を死守するため、軍は、1899年8月末からレンヌで開かれた再審軍法会議で再びドレフュスの有罪を宣告します。このため、大統領ルーベ(Emile Francois Loubet/位1899-1906)は恩赦を与えるという政治決着の道を選びました。


しかし、無罪が確定してドレフュスが完全に冤罪を晴らし名誉を回復できたのは、1906年の破棄院(Cour de cassation/最高裁に相当)によるレンヌ軍法会議判決の破棄が決定してからですが、一方、これは現代社会で「ジャーナリズムと世論」の力が大きな役割を持ち得ることを示した出来事であったと見なすことができます。また、反ドレフュス派に与したモーリス・バレス(Maurice Barres/1862-1923)、シャルル・モーラス(Charles Maurrus/1868-1952)、ジュリアン・バンダ(Julian Benda/1867-1956)という三人の極右知識人(国粋主義者)の存在が「自国文化のアイデンティティ再構築」という重い課題を第三共和制フランスに突きつけたことも事実です。


作家であり政治家でもあったモーリス・バレスは、フランス人の自我を脅かす異民族を「蛮人」と呼び、その自我を支えるのは「フランスの国土と先祖」だと考える国家・国粋主義者でした。彼の国粋主義は「民族と国土から離れた人間は価値を失う」という極端な考え方が特徴です。その優れた文学作品は高い評価を得ていますが、一方、ユダヤ人の民族的絆の強さに脅威を覚えたバレスは「私は、人種からドレフュスを有罪と見なした」とも発言しており、極右・国粋主義者の面目躍如たるものがあります(出典:山 登志浩『フランスにおける歴史の記憶とその克服』、http://www5a.biglobe.ne.jp/~sdpkitaq/yama_0502.htm)。


モーリス・バレスを受け継ぐのが、古代ギリシアに普遍的で完全な理想美を見たシャルル・モーラスです。彼は、守銭奴と化したブルジョワ社会への嫌悪感から近代の思想と文学を否定して、ユートピアと見立てた王政復古を主張し、1899年には王党派の極右・国粋主義団体(反共和主義運動と人種差別運動の巣窟)である「アクション・フランセーズ(Action Francaise)」の結成にジャーナリストらと共に参画します。モーラスは、1900年〜1930年頃の若者たちに大きな影響を与えたフランス右翼精神の支柱であり、フランスにおける反近代主義の代表的存在です。


なお、フランス極右の歴史ではモーリス・ブランショ(Maurice Blanchot/1907-2003)も忘れることができません。ブランショは、アクション・フランセーズの影響を受けた激烈な精神革命を主張する極右思想家から出発しますが、第二次世界大戦中に左翼活動家らと交友するようになり、やがて左派へ転向した人物です。しかしながら、ブランショは21世紀初頭まで第一級の学者・知識人であり続け、マラルメ、カフカ、バタイユらを支持しつつ自我が到達する絶対的価値へ挑むという高踏文学を探求し、その作品はフーコーら現代フランスの文学と思想界へ大きな影響を与えています。なお、96歳まで生きた長命のブランショは、ブッシュ政権の対イラク戦争に反対する市民活動「Not in our name」のアピールに署名しています(情報源:西山 雄二『モーリス・ブランショの死後に対する私の証言』、http://getsuyosha.jp/kikan/blanchot/yn200334.htm)。


これらフランスの極右知識人について想起されるのが、冒頭で触れたシセラ・ボクが同じ著書の中で述べているジュリアン・バンダの著書『知識人の裏切り』(宇京頼三・訳、未来社)についてのバンダへの批判です。ジュリアン・バンダも、そもそもはドレフェス派の論客として頭角を現した知識人(思想家)ですが、彼は“理性・知性を体現すべき知識人の立場を聖職者と同等のものと見なし、知識人の現実問題への容喙(ようかい/口出しをすること)を厳しく戒めています。しかし、シセラ・ボクは、このようにして知識人が「生身の人間の問題」へ距離を置くことこそが、現代世界における様々な格差や悲惨をもたらすことに繋がる、謂わば知識人(アカデミズム)のエゴイスティックで過剰な懐疑主義だと批判します。


シセラ・ボクは、ポスト「9.11」の時代を生きる我われが直面するのは「諸文化・諸文明・諸民族・諸国家・諸宗教はいかにすれば共存できるか」という難問だと言います。そのために必要なのが「共通価値」としての「ミニマリズム価値」だと主張します。また、ボクはこれに対置して「マキシマリズム的価値」(≒知識人が専門性のフィールドで求めるべき価値)を想定します。「マキシマリズム的価値」とは、各集団が緻密に体系化しつつ理想として、あるいは専門性を高めつつ追い求めてゆく最大限の価値のことであり、当然ながら、そこには文化または専門領域の違いによる「文化の多様性・多元性」が反映されることになります。


そして、このようなシセラ・ボクの主張の背景には、近年になって急に注目され始めた「人権批判の問題」への対応があるようです。近代啓蒙思想に始まる人権の概念には自由権・参政権・社会権・プライバシー権・環境権などが次々と付け加わり、その概念自体が曖昧化して万人の合意が得にくいものとなりつつあります。また、「絶対普遍主義」の価値観の下でWASP(アングロサクソン白人)社会に馴染んだ「ウオールストリート型の市場原理主義経済」を押し付けることは、渦中の米国発「大金融パニック」を例に挙げるまでもなく、もはや、その根本的な誤謬が手厳しく告発される始末となっています。


そこで、シセラ・ボクは最低基盤の「共通価値」(=人間が共有する最低基盤たる価値)として以下の三つの方向性を提示します。このような観点からすれば、アルカイダや新自由主義思想と同じ唯我独尊的に天空高く舞い上がった思考回路に嵌っているという意味で、一種の原理主義的思考の亜種と見なすことが可能であることから、既に過去の歴史となりつつある「フランスの極右思想」や「田母神論文」に代表されるような「日本の軍事国粋主義」(=日本の軍事皇道派型・極右思想)が、甚だしく現代世界の潮流から取り残された「極めて特異な価値観」であることが分かります。


今の世界で、これら極右思想に類する、しかも、そうでありながらポストモダーンを擬装するという意味で類似した「異常な思考パターン」を強いて探すならば、それは「ウオールストリート型の市場原理主義経済」を支え、かつ新自由主義思想の信者たるアラン・グリーンスパン元FRB議長が深く染まったとされる「超利己主義の客観哲学(アインランド哲学)」(若き日のグリーンスパン氏はアインランド女史(アイランド哲学の創始者)の愛人時代(ランディアン・カルト)を経験しているはず・・・/詳細、下記◆参照)位かも知れません。


◆2005-03-26付toxandoriaの日記/作家アイン・ランド、米国ユニラテラリズムのもう一つの『源流』、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050326


(1)相互支援・信頼(忠誠)・報恩を命ずる義務


(2)暴力・欺瞞・裏切りの抑制を命ずる義務


(3)係争を公平に解決するための手続き的義務


これら近現代の日仏における「極右・国粋主義思想」と「アインランド哲学」に共通することを敢えて言ってしまうならば、それは身勝手に自分の思い込みで天空高く舞い上がった観念空間のお遊びにすぎないのではないか、ということです。また、メルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty/1908-1961/現象学の発展に貢献したフランスの哲学者)の言葉を借りれば、それはいくら高度で精緻なレトリックで飾ろうが“人間の理性は時間性を深めることはできても、時間性を超出することはできない”ということであり、別に言えば“われわれは同時的現象となって現れた精神を通じてしか他の精神を本当に理解することはできない”ということでもあります(出典:メルロ=ポンティ著『眼と精神』みすず書房)。従って、当然のことながら、敢えてこの不可能性を自らの思い込みだけで他人へ強制しようとするところが、極右にせよ極左にせよ、そのカルト的な恐ろしさの所以でもある訳です。


時あたかも、建国以来の長きにわたって「WASP普遍主義」で進んできたアメリカでは、本日(11/4、日本時間11/5)、キャッチ・フレーズ「CHANGE」(変革)を掲げたオバマ候補が次期アメリカ合衆国大統領(黒人初の大統領)に選ばれました。恐らく、このシセラ・ボクが示した三つの義務は、これからの「世界共通の尺度」として、今までのブッシュ政権の強引な「ユニラテラリズム」に代わる重要な「ミニマリズム価値基準」になると思われます。従って、21世紀に生きる我われは、「田母神論文」の如き時代遅れのアナクロ・ジャーゴン(国粋主義カルト)を偏愛したり、もはや世界遺産のような「フランスの極右カルト」にかまける余裕(ゆとり)などはない筈です。

 

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