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思想的(実は心理的)反米と行動的対米追随の矛盾は、その本体が 『トラウマ』 である事を表わしている。
http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/617.html
投稿者 新世紀人 日時 2008 年 11 月 04 日 14:42:08: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: もう一度だけ書く。田母神暴言は更迭だけではすまない深刻な問題である(天木直人のブログ) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 11 月 04 日 12:23:09)

トラウマとは…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%9E
(前略)
心的外傷(しんてきがいしょう)とは、外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す。外傷体験(traumatic experience)ともいう。これが精神に異常な状態を引き起こすと心的外傷後ストレス障害となる。 心的外傷は脳神経系への非可逆的ダメージであるので、強姦など心的外傷を伴う犯罪は、一般の傷害罪よりも重罪であるという考えが特に海外では増えてきている。

目次 [非表示]
1 用語
2 概念
3 関連項目
3.1 心的外傷による代表的症候

[編集] 用語
身体的外傷との混同のおそれがない場合には、単に外傷と呼ぶことがある。また、ジークムント・フロイトの著作の用語独: Traumaからトラウマと呼称される。但し、英語の"trauma"は"wounds"と同じ意味で身体的外傷を意味する言葉として用いられることも多いため注意が必要である。


[編集] 概念
典型的な心的外傷の原因は、幼児虐待や児童虐待を含む虐待、強姦、戦争、犯罪や事故を含む悲惨な出来事、実の親によるDV、大規模な自然災害などである。

重度の心的外傷(トラウマ)によりPTSDなどの精神疾患が生じた場合は、精神療法(心理療法)や薬物療法などの治療が有効である。

症例の目安としては(成人であっても)幼児還り現象が見られる事がある。これは保護を求めるSOS信号として罹患者から発せられるが、時に夜驚症の反応を交える為、対応には慎重さが要求される。軽度の場合はヒステリー状態が短発的に継続発生(間を置いて寄せ返す波の様に)するのが平均の状態ではあるが、社会生活を営む上で若干の弊害がある為、専門的治療が必要な場合も有りうる。

全く治療せずに罹患者を放置した場合、自傷行動を含む危険行為を行う場合もある。仮に放置状況が継続しうる環境に患者が居ても、本人自身による回復迄の時間と費用は対数規模になる為、治療優先の判断が必要と思われる。

(後略)

[新世紀人コメント]

思想的場面において余りにもしばしば我々が遭遇する処の矛盾しつつ進歩しない画一的表明は、右・左に限らず、それは本体は、
『トラウマ』である。
天木氏の指摘されるとおり田母神氏の思想は東京裁判の否定に繋がる。
それは当然のことながら戦後の米国による日本支配の拒否に繋がるのである。
ところが、これ等の右的論者は自らの対米追随に無自覚である。
これは思想的怠惰の故ではなく、
実は、その本体は、
思想ではなく『トラウマ』の表明であることによる。
であるから、
進歩する事無く何時までも時代の変化を意識する事無く、ワン・パターンのスローガン絶叫に終わるのである。
これは日本国民の一定の部分が抱いているトラウマなのだ。

イデオロギーと宗教もそのかなりの心理的構成部分をトラウマが占めている。

この反米と親米の同居する矛盾は、我が国近代において類例が存在する。
それは、西南戦争に於ける「抜刀隊」の一部に見られた現象である。
戊辰戦争においての無念を西郷軍に向けて晴らそうとした心の動きである。
徳川宗家の慶喜公の恭順の心中を理解できた忠心を持つことが出来た旧幕臣ならば、無念を晴らそうとはしなかったであろう。それは仇討ちに似た行動であった。
慶喜公は喜ばれる事は無かったであろう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9C%E5%88%80%E9%9A%8A

(前略)

概要

抜刀隊田原坂の戦いにおいて、薩摩軍側(西郷軍)による抜刀切込み攻撃により、政府軍兵士の死傷者が続出した。当時の政府軍兵士が徴兵制による農民・商人出身兵士を中心に構成されており、士族を中心とした薩摩軍側の抜刀攻撃には対応出来なかった為である。こうした状況下による事態を打開すべく、士族出身者が多かった警視庁の警視隊から特に剣術に秀でた者を選抜し、薩摩軍の抜刀攻撃に対抗すべく臨時編成された特別部隊が抜刀隊である。

小説やドラマ等では、警視隊に属して従軍していた旧会津藩士や、新選組の斎藤一ら旧幕府側出身者や関係者を抜刀隊員として描くことが多いが、それらの全員が抜刀隊に選抜されたのではない。また、それらの旧幕府側出身者が抜刀隊の主力であったと思われることが多いが、実際には薩摩藩郷士(外城士)出身者が主力を形成していた[1]。元会津藩家老・佐川官兵衛も抜刀隊に属していたとよく誤解されているが、佐川は豊後口第二号警視隊に属して西南戦争に参加しているが、抜刀隊編成以前に戦死しており、抜刀隊には属していない。

士族だけあり刀の扱いに関してはひけをとらず、3月13日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げた。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した隊も少なくなかった。抜刀隊員の中に、賊軍の汚名を晴らすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった者がいたと郵便報知新聞記者・犬養毅(後の第29代内閣総理大臣)が記録しているが、公式記録に無く、犬養自身も伝聞情報であり、直接聞いたわけではない(ただし山川浩や立見尚文など旧幕府側出身の将校や兵士達には、この戦いを含めた西南戦争自体を戊辰戦争の復讐と考えていた者も居た事は事実である。)

抜刀隊の奮戦と活躍は田原坂攻略の要となり、その戦いぶりは「抜刀隊」という軍歌になって、のちのちまで歌い継がれることとなった。この軍歌を元として作られた「陸軍分列行進曲」は、現在でも陸上自衛隊と警察が行進曲として使用している。また、いったん廃れた剣術が見直されるきっかけともなった。

(後略)


http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/batto.html

抜刀隊
作詞:外山 正一
作曲:ルルー
著作権:消滅(詞・曲)


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