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(回答先: 10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 10 月 22 日 15:38:00)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/genkou.html
66.「高麗襲来」 ─ 元寇に隠された側面 (2000.2.7)
文永11(1274)年10月5日、突如として元(モンゴル)の艦隊が対馬に軍事侵攻してきました。いわゆる「文永の役」の始まりです。そして20日には、元軍は筑前国(現・福岡県)に上陸し、集団戦法や回々砲(大砲)・震天雷(ロケット砲)等の新型兵器を駆使して、鎌倉武士を翻弄しました。しかし、夜来に襲った「神風」(暴風雨)によって元の艦隊は壊滅。日本は辛くも危機を脱したのです。その後、元軍は、弘安4(1281)年5月21日、再び対馬へ侵攻、志賀島(筑前国)・長門国(現・山口県)にも来襲しました(弘安の役)。この二度目の侵攻も、前回同様、「神風」による元軍の壊滅によって終結し、さしもの「大帝国」モンゴル(以下、「蒙古」と略)も、日本征服を断念せざるを得ませんでした。(もっとも、フビライ自身は、第三次・第四次侵攻を考えていた) この二度に及んだ「元寇」(「蒙古襲来」とも言い、「文永の役」と「弘安の役」の総称)は、通常、蒙古による軍事侵攻 ── 「日本征服」作戦と解されていますが、実は、その計画・実行には高麗(コリア)が深く関与していたのです。と言う訳で、今回は、「高麗襲来」共言える「元寇」について書いてみたいと思います。
「高麗襲来」。私は「元寇」の事をこう書きました。それは、何故か? 実は、元の大汗(ハーン)フビライ(以下、「忽必烈」と略)に、壮大な「日本征服」計画を吹き込み、その気にさせた一人の高麗人がいたのです。彼の名は趙彝(チョー・イ)。朝鮮半島南部出身のインテリである彼は、蒙古の高麗侵攻の際に祖国を裏切り、蒙古の首都・燕京(後に中都、更に大都と改称。現在の北京)に赴き、進士試験(科挙)に合格、遂にはあの忽必烈の知遇を得る迄にのし上がったのです。その彼が、忽必烈に吹き込んだ事、それが、「黄金の国・ジパング」の征服計画だったのです。この「日本征服」計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって、招諭使(使節)を日本へ派遣して来ました。招諭使 ── 彼らの目的は、忽必烈の国書を鎌倉幕府へ渡す事、そして、その国書には、「蒙古の冊封を受ける」事、つまり高麗同様、蒙古の属国となる様にと言った内容が書かれていたのです。勿論、鎌倉幕府が拒絶したのは言う迄もありません。しかし、鎌倉幕府の対応(招諭使を問答無用に斬首し、国交拒絶の返書も送らない、つまり全くの「無視」)のまずさが災いし、遂には「大帝国の皇帝」の面子(メンツ)を賭けて、忽必烈に「武力解決」の道を選ばせてしまったのです。もし、ここで、鎌倉幕府が蒙古の正式使節である招諭使を斬り捨てる事無く、曲がりなりにも国交拒絶、あるいは対等での貿易関係締結の返書を送り、事態を穏便に済ませる方向に持っていったなら、ひょっとしたら二度に及ぶ元寇も無かったのかも知れません。何故なら、蒙古は生粋(きっすい)の「陸軍国」であり、それ迄、渡海作戦の経験は無かったからです。つまり、「日本征服」作戦は蒙古にとっても、かつて経験した事の無い「未知の戦争」だったと言えるのです。
さて、話を元寇に戻しましょう。高麗人官吏・趙彝の提案が発端となった「日本征服」作戦は忽必烈の命令によって、戦費全額を高麗が負担、軍船900余隻の建造をしたのです。更に、艦隊の発進基地(港)・兵士約6000人・水夫(軍艦の漕ぎ手)約6700人・兵糧(食糧)を提供しました(文永の役)。つまり、元の「征日本国軍」の主力は、事実上、高麗だったと言う事なのです。又、第二次日本侵攻(弘安の役)の際にも、軍船900隻・兵士1万人・水夫1万5千人・兵糧を提供し、高麗人・金方慶を将とする「東路軍」4万の兵を編成、元によって征服された南宋の残存艦隊によって編成された「江南軍」10万の兵と共に、再び日本へと軍事侵攻しました。これは裏を返せば、高麗人官吏・趙彝が忽必烈に「日本征服」を吹き込まず、高麗が陰に日向に元軍を支援しなかったとしたら、ひょっとしたら、元寇は起こらなかったかも知れない訳です。そう言う意味では、「蒙古襲来」(元寇)とは、正に「高麗襲来」とでも呼べる事件だったとは言えないでしょうか。
余談(つれづれ)
コリア人は日本による「コリア侵略」に、「日帝三十六年」(朝鮮総督府統治時代)と共に、太閤・豊臣秀吉の「朝鮮征伐」(前回のコラム参照)をよく引き合いに出します。しかし、当時、豊臣家を滅ぼし江戸幕府を開いた将軍・徳川家康に対して、李氏朝鮮は「朝鮮征伐」における何らの戦時賠償や謝罪要求もしていません。それどころか、江戸時代を通じて、「朝鮮通信使」なる使節を日本に派遣し、新将軍就任の際には慶賀している程なのです。当時、何らの賠償・謝罪を要求しなかったコリアが、四百年も経ってから蒸し返している訳です。それならば、元寇の際に、事実上の主力軍として日本に侵攻した高麗の事を、彼らコリア人は一体どう考えているのでしょうか? 日本人は、そんな昔の事で、蒙古やコリアに対して「恨」(ハン:怨恨)等抱いてはいません。それを考える時、コリア人も、いつ迄も、やれ「日帝」だの、「壬申倭乱」・「丁酉倭乱」(「朝鮮征伐」のコリア側呼称)だのと言っていずに、本当の意味での、「未来志向の日韓(日朝)関係」を模索すべきではないでしょうか?
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[新世紀人コメント]
元とその手下のコリアンの侵略的行動であればうなずける。元そのものがそもそも問題だ。
現在の米国と日本の有様、また、米国と朝鮮半島の二国の有様に似ていると言える。
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