★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK54 > 561.html
 ★阿修羅♪
日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報
http://www.asyura2.com/08/senkyo54/msg/561.html
投稿者 TORA 日時 2008 年 10 月 10 日 14:30:03: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu177.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
--------------------------------------------------------------------------------
日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、
私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報

2008年10月10日 金曜日

◆日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき  10月9日 韓国日報
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1223507539/-100

■自国語で学問する

今年のノーベル物理学賞受賞者は日本人一色だ。高エネルギー加速器研究所の小林名誉教授、京都大の益川名誉教授と日系アメリカ人の南部シカゴ大名誉教授だ。日本は1949年に湯川秀樹が物理学賞で初のノーベル賞を受賞して以来、物理学賞受賞者だけで7人になる。今年も受賞者をまた輩出した化学賞に医学生理学賞を加えれば受賞者は13人になり、この分野の国家別順位でも世界7位だ。

日本の物理学賞受賞者たちは専ら日本で大学を終えたが、特に今回の受賞者3人はいずれも最終学位まで日本で終えた。80代の南部教授は1952年にプリンストン大招聘を契機にアメリカに定着したものの東京大学で勉強したし、60代の小林・益川教授は名古屋大で博士課程まで終えた。今回の受賞対象となった「小林・益川理論」自体、2人が大学院生と研究員として出会った名古屋大で誕生した。

日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。基礎科学、特に物理学のような分野は物質界の作動原理を研究するものであるから、どの分野よりも深みがあり独創的な思考が重要だ。深みがあり独創的な思考をするためには、たくさん思考せねばならない。そのためには基本的な概念を早くからきちんと身に付けねばならない。南部教授は小学校のときに理科の時間に感じた興味が彼を科学者に導いたという。基本概念はどうすればきちんと身につくか。理解しやすい言語で科学を説明することから始まるはずだ。

日本は初等・中等過程はもちろん、大学でも日本語で科学を教える。そのため、西洋で発達した科学を日本語に訳すのを当然の基礎過程だと考えている。漢字文化圏である東洋4国があまねく使っている「科学」「化学」「物理学」などの用語自体が、アルファベット圏言語を自国語で把握しようとした日本の知識人たちによる翻訳の所産だ。「素粒子」「陽子」「電子」などの用語も、すべて日本人が作ったものだ。

そのおかげで、日本人にとって世界的水準で思考するということは世界で一番深く思考するということであり、英語で思考するということではなくなった。これは外国語が苦手といわれる日本人たちが基礎科学分野でノーベル賞を多く取っていることや、益川と小林の研究が日本の大学から誕生したことにもよく現われている。

一方我が国は、小学校・中学高校過程では科学の基本概念をきちんと把握する教育をしないで、大学に入ると突然英語で科学を教える。名門大学であればあるほど、理学部・工学部・医学部の物理・化学・生理学などの基礎分野に英語教材が使われる。内容理解だけでも不足な時間に外国語の負担まで重なっては、韓国語で学ぶ場合に比べると半分も学べない。韓国の基礎科学は外国に留学に行くことを初めから想定して教えているわけだ。

教授たちは、基礎科学分野の名著がまともに翻訳されていないからだと言うが、このように原書で教えていては翻訳する意味がなくなる。韓国語なら10冊読めるであろう専攻書籍を、1冊把握することも手に負えないから、基本の面で韓国の大学生たちが日本の大学生たちより遅れるのは当然だ。大学を出ても学んだものが無いという現象も、ここから生じているのだ。

大学の基礎科学教育を世界的な水準へ高めるために外国の碩学たちを連れてくるのに国はお金を惜しまないという。ちょっと聞くと素晴らしいことだ。ところが、果たして全国の小学校と中学・高校で科学の実験は思う存分できるか。初等・中等過程と大学過程で科学を正しく理解する基礎は用意されているか。世界的な水準で思考するということは、英語で思考するということではなくて世界で一番深く思考するということだが、それ実践する土台は用意されているか。ハングルの日だから言っているのではない。


◆『英語を学べばバカになる―グローバル思考という妄想』 薬師院仁志
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4334033083.html

◆アメリカ時代の絡わりと英語時代の終わり

われわれは、ヨーロッパの教訓を無視すべきではない。何もアメリカだげが親分や模範ではないし、ましてやアメリカだけが世界ではないのである。交通手段や通信技術の飛躍的な発達によって、今や、世界中のあらゆる国が日本の隣国となっている。隣国と足の引っ張り合いをしていたのでは、自国の発展などありえない。たしかに、グローバルな経済競争の中で、効率性を追求する必要を訴える者は多い。だが、それに積極的に加担し、それに自ら進んで巻き込まれることが、本当に日本および日本国民の発展につながるのかどうか、もう一度考え直してみる必要がある。そもそも、世界はアメリカだけではない。実際、EUのGDP(国内総生産)は、すでにアメリカを超えているのだ。

あらゆるものは、近くで見るほど大きく見える。英語に関してもアメリカに関しても、それは同じことだ。われわれは、英語やアメリカの影響力を、いささか過大に見積もっているようなのである。特に、アメリカに関してはそうだ。だが、アメリカは、世界標準でもなけれぱ、世界の中心でもない。日本人は、よく欧米という言葉を使い、ヨーロッパとアメリカを同一視する傾向があるが、これほど大きな勘違いもない。むしろ、ヨーロッパ人から見るとアメリカは特殊な国であり、その影響力も低下する一方なのである。

船橋洋一氏によると、「英語が二一世紀に向げて、事実上の世界語へとのし上がってきたのは、英語を母語とする米国が世界の超大国」となったことに負っているという。つまり、英語による一言語支配は、アメリカによる世界支配の一側面に他ならないというわけである。つまるところ、英語の公用語化は、超大国アメリカの威を籍るという戦略に他ならないのだ。

裏返せぱ、そもそもアメリカに威がなければ、英語に乗っかろうとする戦略自体が成り立たないことになる。アメリカによる世界支配が終わると、英語による言語支配も終わることになってしまうからである。

アメリカによる世界支配は、終わりつつある。ある面では、もう終わっているのかもしれない。おそらく、問題は、いつ、どの時点で、人々がそれに気がつくのかということでしかないだろう。そして、アメリカの時代の終わりは、英語の時代の終わりでもあるのだ。

すでに二〇〇二年、エマニュエル・トッド氏は、その著書『帝国以後』の中で、「二〇五〇年頃には、アメリカ帝国は存在していないということを間違いなく予言することができる」と予言している。今となっては、これが特に大胆な予想であるとも思われない。私は、同じような予想を、アメリカの研究者から聞いたことさえある。アメリカ人のチャルマーズ・ジョンソン氏が、アジアにおけるアメリカの帝国主義的政策が近い将来必ず報復を受けると警告したこともまた記憶に新しいところであろう。

なぜアメリカの時代が終わるのか。極めて単純にまとめると、ソ連の脅威がなくなれぱ、世界はもはやアメリカを必要としないということである。東西冷戦時代、日本や西ヨーロッパをはじめとする多くの旧西側同盟国は、ソ連の脅威(それ自体の実在性も怪しいものだが)に対する守護者として、アメリカの軍事力を必要としていた。だからこそ、多くの国々がアメリカに追随し、その自已中心的な横暴さにも目をつぶってきたのだ。逆に、アメリカは、同盟諸国の自発的服従があったからこそ、世界の超大国として君臨し続けることができたのである。

◆英語ができなければ、この先生きてゆけないのか

ただ、私の場合、英会話は苦痛だが、フランス語会話なら何とかなる。フランス語は大学の授業ではじめて習った言葉だし、私が長期の海外生活を体験したのは四〇歳をすぎてからなので、下手であることはたしかである。それでも、フランス語なら、テレビやラジオのニュースくらいは理解できるし、対面コミュニケーションにおいても大した不自由は感じない。要するに、会話力に関しても、必要性と使用機会のある言語ならぱ、何とか身につくのだ。逆に言えぱ、必要性も使用機会もない言語は、身につかない可能性が非常に高いと考えた方がよいと思われる。

と言うのは、特段の語学的才能も経済的余裕もない者にとって、知的業務で役立つレベルの外国語力を身につけるには、並々ならぬ努力の積み重ねを要するからである。たしかに、語学的才能に恵まれた人は実在する。だが、それは、語学の専門家となるようなごく一部の人たちであろう。普通の者は、よほど強い動機づけと必要性がない限り、まともな外国語能力を身につけるだけの努力は続かないものなのである。

文通を楽しんだり気軽なお喋りをしたりする程度の語学力であれぱ、大した努力をしなくても身によくつくのかもしれない。だが、それは趣味や遊びのレベルだ。国際的な契約交渉をしたり、外国文献で専門知識を得たりするためには、そんな程度の語学力では全く役に立たない。日本で普通に暮らす普通の人間が、それだけの語学力を身につけるだけの努力をするには、よほどの理由が必要なのである。だからと言って、自分は勉強せず、その努力を我が子に押しつけてみても仕方あるまい。もちろん、趣味や楽しみで英語を学ぶのも悪くはない。その場合は、金銭的にも時間的にも無理のない範囲でやればよいのである。

結局、英語を本当に必要としない者が、世間の風潮にあおられたり強制されたりして、英会話学校に通い、英語教材を買い集めても、挫折を繰り返す可能性が高いのだ。この挫折は、豊かさの反映でもある。英会話に何度挫折しても、それでも英会話学習費を払い続けられるということは、豊かさの証拠であると同時に、その人にとって英語が不要だという事実の裏返しでもあるのだ。英語ができなけれぱ本当に生きてゆけないというのなら、今日の日本のような状況が生まれることもない。

◆英語が苦手でも発展を遂げてきた

では、日本で生きてゆくのに英語を必要とする人間はどのくらいいるのか。藤田悟氏によると、仕事の上で英語を必要とする人の割合は、「職業人の一%程度」だとのことである。逆に言えぱ、九九%の人には不要だということになる。冷静に考えると、まあそんなくらいだろう。私の身の回りでも、会社や役所に勤めている友人や親類を見た場合、実際に仕事で英語を使っている者など一人もいない。英語が苦手なことが原因で失業したり生活苦に陥ったりした知人もいない。

実際、大多数の国民が英語を苦手とする日本は、他の多くの国々以上の発展を遂げてきた。国の豊かさという面だけで見るならば、まだまだ世界には貧しい国が多い中、今の日本以上の状態を望むのは賛沢というものであろう。日本は、労働力や生産力の全般的レベルが高いからこそ、今日の生活水準を築きえたのである。この事実は、大部分の職業人が、たとえ英語は苦手でも、自らの仕事を立派に果たすことができたということの証拠であろう。考えてもみよう。世界には英語を「公用語」とする国が六〇か国ほどあるらしいが、主要国首脳会議(G8)の仲間入りを果たしたのは、そのうちの三か国でしかないのである。

藤田悟氏も正しく認めているように、外国語の支配を受けず、外国語に依存せずとも生きてゆけるという日本の状況は、喜ぶべきことなのだ。さらに言えば、英語に支配された国々がアメリカ化への防御壁を失っている一方、母語が安定している国は、自分たちの杜会を自分たちで考える可能性を持っているとさえ言える。われわれは、莫大なカネと時間と努力とを要する英語公用語化を考えるよりも、日本語で成り立つ社会を維持し発展させることを考えた方が得策なのである。自ら好んで苦痛を求めることもあるまい。

なぜ外資系企業の日本支社長でなければならないのか。日本語を母語とし、日本に暮らす人間ならば、日本の会社で出世して高給取りになることを考えた方が、ずっと実現の可能性が高いに違いないのである。

さらに、英語と外資系企業を直結させることもまた、非常に短絡的である。外資系企業であれ日本企業であれ、証券会杜は証券会杜だし、製薬会杜は製薬会杜であって、それぞれ専門分野の仕事をしているのだ。就職や転職にとって、外資系か否かよりも、そちらの方がずっと重要な要素である。しかも、藤田悟氏の言うように、「外資系企業でも英語で仕事をこなしている社員は限られている」し、「海外との仕事であっても英語をペラペラしゃべる必要はない」というのが実情なのである。

たしかに、高い志をもつことは素晴らしい。現状を超えてゆこうという努力は大切である。だが、作家やスポーツ選手や芸術家にはなれそうもない、学者や研究者になるのも難しそうだ、事業を起こすだけのカネもない、独立起業は危険が大きい、でも英語ならできるかもしれない、英語さえできれば、きっと国際的に活躍できるだろう、といった発想は、非常に安易なのだ。はっきり言って、幻想である。

日本語を母語とする人間は、何か知りたいことがあると、まず日本語を母語とする人間に聞く。それで間に合えば、間題は解決である。そのようなことは、どこの国の人間にとっても同じであろう。何か知りたいことができれぱ、まず第一に、母語を共有する身近な人に尋ねるに違いないし、自国語で書かれた文献を見るに違いない。わざわざ言葉の壁のある人間に尋ねるのは、よほど特殊な情報や、よほど専門的な知識に関してだけである。アメリカの企業にしても、アメリカの人間だけで間に合う仕事に、わざわざ日本から人を雇う必要もないのである。

だから、現状を超えてゆくためには、英語以前の間題として、何らかの技能や高度な知識が必要なのだ。大リーグ入りした日本のプロ野球選手にしても、英語を武器に活躍しているわけではない。アメリカで働くのだから英語ができるに越したことはないだろうが、まず必要とされるのは野球の技量である。問題が言葉だけであれぱ、専門の通訳や翻訳者を雇えばよいのだ。それでたいていのことは解決するだろう。だが、知識や技能を欠いている場合は、たとえ何語ができようとも、どうしようもないのである。

◆英語を勉強するのば効率が悪い

では、知識や技能を身につけるには英語ができる方が有利かというと、そうでもない。日本語は、一億人以上の使用者を持つ言語である。日本語の出版物は、専門書や教養書も合め、非常に多量である。また、さまざまな言語で書かれた著作が日本語に翻訳されている。実際、これほど多様かつ多量の著作が自国語に訳されている国も珍しい。このような恵まれた状況にあれば、よほどの専門家でもない限り、知識や文化を身につげるために外国語など不要なのである。

とりわけ、英語の文献は実にたくさん邦訳されている。アメリカで少しでも話題になった本は、すぐさま日本語に翻訳されると言っても過言ではない。ニュースにしても、アメリカ発のものはすぐに日本のメディアで紹介される。となると、一般人が原書を読んだり英語放送を聞いたりする必要性もないわけである。

第一、特に専門的な知識や技能を持たない人間は、英語を学んでみたところで、どのみち日本語で読めるようなレベルの本や雑誌しか読めない。しかも、言葉さえできれぱ、言われたり書かれたりしている内容が理解できるわけではない。たとえば、国際貿易に関する基礎知識のない人間は、たとえ何語で言われようが何語で書かれていようが、高度な貿易問題について理解することなどできないのである。そんな人間が外資系企業の支社長になることもない。英語だけできても、大した武器にはならないのだ。

また、発信といったところで、発信するに値する内容を持たなければ、何の意味もない。たしかに、一般人でも外国語で発信する値打ちのある体験をすることがある。たとえば、自分が実際に体験した災害や事件の状況を世界に伝えたいなどという場合である。だが、それならば、必要なときだけ専門の通訳や翻訳者の力を借りればよいのだ。その方が高い費用と長い時間をかけて英語を習うよりずっと合理的であろう。そもそも、世界の人々に何かを伝えるというのであれぱ、英語一つだけできても仕方がないわけで、どのみち語学の専門家の力が必要なのである。

いずれにせよ、個人の成功や出世の手段として考えた場合でも、まず英語を学ぶというのは、非常に効率が悪いと言わざるをえない。それ以前に必要なものがたくさんあるのだ。それに、他の知識をさしおいて、英語力だけが向上するということはない。

たとえ何語であれ、自分の知識の範囲内でしか語彙は増えないし、自分の思考力以上の言語表現はできないのである。たとえぱ、日本で生まれ育った日本の中学生は、日本語に不自由している自覚はないだろうが、複式簿記という単語を知っている者はほとんどいないだろうし、西田幾多郎の著作を理解できる者もまずいないだろう。自分の母語能力以上に外国語が上達することもまた、ありえない話だ。


(私のコメント)
今年のノーベル賞の発表において、日本人および日系人が4人も受賞したという事は特別な意図があるようだ。ノーベル賞といえばアメリカ人によるアメリカ人の為のアメリカ人の賞でもあるのですが、グローバルな意味合いを持たせるために、外国人にも賞を与えてきた。受賞者の国籍の内訳を見ればアメリカが232人であり、2位がイギリスの75人で、米英だけで300人を越えるのに、3位ドイツ4位フランスを含めた米英以外の国は100人にもならない。

それにも拘らず学界の最高権威の賞として報道されていますが、それほど学界の重要な研究が米英に偏ってきたのだろうか? ノーベル賞の元になったノーベルはスエーデン人ですが、ノーベルの遺言によって国籍は考慮しないとされてきたのですが、結果としてアメリカ人イギリス人に集中して多い。これは選考が英語による論文で評価されるからだろう。

しかし科学研究が非常に金のかかるものであり、世界一の経済力を持つアメリカにノーベル賞受賞者が多いのは当然の事でもある。しかし英語の壁があるのも事実であり、ドイツやフランスやロシアやイタリアなどは異常に少ないのは不可解だ。日本もノーベル賞級の科学的な実績はあるのでしょうが、選考などは英語で書かれた論文などが対象となっている。

戦前に関してはドイツ人のノーベル賞受賞者が一番多く36人なのにアメリカ人は18人で、アメリカ偏重は少なかったのですが、戦後は米英の為のノーベル賞になってしまっている。私自身は自然科学のことは詳しくないのですが、本当に科学的業績がアメリカに集中しているのだろうか? 論文の数自体はアメリカと日本とは同じくらいなのですが、日本語の論文は対象外なのだろう。それとも日本語の論文のレベルが低いのか?

このようになってしまった背景としてはアメリカが世界帝国であり、英語文化が世界のグローバルスタンダードだというプロパガンダがあるからだろう。戦前はヨーロッパが世界の政治経済文化の中心でもあったのですが、戦後はアメリカにそれが移ってしまった。経済力でも軍事力でもアメリカに敵う国はなく、現在でも覇権国家である事は間違いない。

しかしアメリカが覇権国家になったのは戦後の事でありわずか60年余りの事だ。軍事的に対抗していたソ連は崩壊して共産主義のイデオロギーも否定された。戦後経済力で頭角を現して来た日本も最近は影が薄くなり、90年代以降はアメリカの一国覇権主義の時代と言われるようになった。

アメリカがこれほど強大になった理由と衰退する理由は同じであり、それは国内から産出された石油の富によるものだ。石油があったからこそアメリカは世界大戦で勝者となり、世界経済の中心ともなった。だから学術研究の分野でも資金力の豊富なアメリカに科学的業績が集中したのは当然なのだろう。

石油以外にもアメリカを強大にした力の源は、ヨーロッパからの豊富な労働力の供給があったからともいえる。ヨーロッパの高度な文化がアメリカに移植されて、豊かな地が資源と共に結びついて世界一の超大国となった。

しかしこのような認識と、英語による世界公用語化は認識が別である。日本の教育界には英語が世界のデェフェクトスタンダードだとして、小学校からの英語教育が行なわれるようになりました。しかし本当に英語が世界のデフェクトスタンダードなのだろうか? 

それに疑問を投げかけているのが薬師院仁志氏の『英語を学べばバカになる』という本ですが、題名が誤解を招きやすいのですが、英語グローバリズムに対する批判だ。この本によれば世界の英語人口は多くなく、思い浮かぶ英語国はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージ−ランド、南アフリカぐらいで、インドやパキスタンは英語は通ずるが母国語ではない。つまり英語を母国語とする人口は4億人くらいで、後は英語を外国語として学んでいる人が多いということなのだろう。

つまりアメリカが国家として衰退すれば英語も使われなくなり、新たなる覇権国家の言葉が使われだすのだろう。つまり英語を学べば先進国になれるというわけでもなく、なれるものならインドやフィリピンなどはとっくに先進国になっているはずだ。むしろ英語教育を普及促進しようとすればするほど、その国の国力が落ちている。

そのいい例が、破綻しつつある韓国ですが、韓国ほど英語教育に力を入れている国は無いだろう。アメリカに留学する韓国人学生の数は異常なものであるし、国内教育においても英語教育に費やされる時間と費用は異常なものだ。これは高度な教育は英語が前提とした教育体制となっており、大学レベルになると英語で授業ができる事が大学教授の条件になっている。

当然使われる教材も全部英語で、英語が分からないと科学も理解できない。自国語の本なら10冊読める時間で、英語の本を読むのに1冊がやっとというのでは科学のレベルも落ちるのが当然だ。なぜ日本のような翻訳して母国語での教育が行なわれないのだろうかという疑問が出ますが、日本では理工系の教育も医学系の教育も日本語で行なわれていますが、日本のような例は希なのだろう。

つまり英語の文献を母国語に翻訳しようとしても該当する言葉が無くて翻訳が出来ない事が問題であり、津波のように押し寄せる英語の新語に対して翻訳する事が出来る文化レベルがないと翻訳できない。科学用語も日本では翻訳されていますが、海外の場合は英語を先に学んで科学用語を理解したほうが早い。しかしそれでは英語をマスターできないと最先端の科学が理解できない。

韓国日報の記事はこのような韓国の現実を指摘していますが、日本は韓国のような過ちは犯してはならない。確かに英語がマスターできて最先端の科学も理解できればいいがそれは理想論だ。だから英語教育に力を入れれば入れるほど科学技術のレベルは落ちて韓国やフィリピンやインドのように科学後進国になってしまう。

むしろ問題にしなければならないのは、日本人の日本語力が落ちてきて、外国語を日本語に翻訳できる能力が落ちてきている事だ。映画の題名にしても昔は名訳が多かったが最近では英語のカタカナ読みをそのまま使っている。科学用語もカタカナのままが多いのですが意味が掴みづらい。今回のノーベル物理学賞にしても「素粒子」「陽子」「電子」などの日本語で意味を掴んで思考されたのでしょうが、インターフェロンといわれても何のことか分からない。しいて言えば抗体蛋白質と訳せるのでしょうが、マスコミもカタカナ用語をそのまま使っている。

つまり日本語力が落ちればカタカナ用語が増えてきて意味が掴みづらくなって思考に影響が出てくることだろう。だから日本語力を高める事が翻訳能力を高めていく事が大切ですが、文部省は英語教育に時間を割くことで対応しようとしている。これは即ち日本も韓国と同じ過ちを犯すことであり、英語教育に時間をとられる結果、日本の科学技術は確実に後れて行くことになる。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 政治・選挙・NHK54掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。