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麻生首相は、九月二十九日に衆参両院本会議で所信表明演説を行った。この演説は、総選挙をにらんで野党・民主党への逆質問を繰り返す一方で、デマに満ちた挑発と暴言の挙げ句に自ら閣僚辞任の道を選んだ中山成彬・前国土交通相の「任命責任」については一片の弁明もしないフザけきったものだった。しかしその中でどうしても看過できないのは、「就任にあたって」という天皇主義者丸出しの冒頭の言葉だ。 麻生は言う。「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第九十二代内閣総理大臣に就任いたしました」。 「かしこくも御名御璽をいただき」だって? この発言は、「かしこくも」天皇の任命によって首相の地位に就けていただいた、という「臣民」としての言辞以外のなにものでもない。この言葉は「国家統治の大権は朕が祖宗に承(う)けて之を子孫に伝ふるところなり」(憲法発布勅語)、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(大日本帝国憲法第一条)という天皇主権による「大命降下」によって首相の任についた、という思想の表現なのである。 麻生のこうした明治憲法的天皇主義者の思想は、この冒頭発言に続く以下の言葉によっても示されている。 「わたしの前に、五十八人の総理が列しておいでです。百十八年になんなんとする、憲政の大河があります。新総理の任命を、憲法上の手続きにのっとって続けてきた、統治の伝統があり、日本人の苦難と幸福、哀しみと喜び、あたかもあざなえる縄の如き、連綿たる集積があるのであります。/その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるをえません」。 麻生の言う「憲政の大河」とは、まさに「大日本帝国憲法」の伝統に立脚したものであって「主権が国民に存する」ことを確認した現憲法は、「大日本帝国憲法」の直接的な延長上にある。麻生にとって「厳粛」たらざるをえない「責任の重さ」とは、主権者としての「国民」に対するものではなくて、「御名御璽」をいただいた天皇に対するものにほかならない。 言うまでもなく「日本国憲法」は、天皇を「日本国の象徴」とし、「憲法改正」や法律の交付、国会の召集、衆議院の解散、国務大臣の任命を「国事行為」として定めることで「象徴」としての天皇制を温存している。そしてこの点において、「国政に関する権能を有しない」天皇の権威が不断に再生産され、「主権在民」原理の浸食が発生していくのである。麻生は意識的にこの「国事行為」を明治憲法の「天皇大権」に限りなく同一のものであると読み替えた上で、「かしこくも」、「御名御璽」によって任命された首相の地位であることを宣言したのである。 極右国家主義で天皇主義者だった安倍でさえも、こうした発言を「所信表明演説」では行わなかった。そして注意しなければならないのは、明示されているわけではないにしても自民党「新憲法」草案の天皇観もまた、こうした思想を背後に隠しているということなのだ。「天皇即位二十年」の祝賀式典が準備されている。今日の政府危機・社会経済危機の中で麻生が持ち出した天皇観との意識的対決は、重要な課題である。(純) |
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