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小沢が発表した、日本における新自由主義綱領「日本改造計画」とは
http://blogs.yahoo.co.jp/valuejapan36/25719099.html
1991年2月、小沢幹事長のもとで衆院選がおこなわれた。89年の参院選で過半数を失っていた自民党は死に物狂いで衆院選をたたかうことになった。その選挙資金をねん出するため小沢は経団連を恫喝。そこで得た250億円を使って選挙戦に突入。さら全国のゼネコンをはじめ各業界団体に号令をかけ集票作戦を展開。そのおかげで、小沢自民党は再び安定多数を得ることになった。
衆院選を乗り越えた小沢は、小選挙区制の導入と第二自民党をつくるべき策動を開始していった。
政界一の親米派である小沢はアメリカ式の「大統領内閣」を想定していた。彼の脳裏に去来するものは、
以下のものだった。
「旧態以前の自民・社会による国対政治を維持していたら、日本は国際社会の孤児になってしまうだけだ。そのためには今の中選挙区制を変えて小選挙区制にすることによって政界再編を誘発させ、二つの保守政党による政権交代システムを確立することと、官邸の権限強化を図り、スピード感ある政策決定システムをつくる必要がある」
これは当時としては、かなり野心的な戦略展望であることは間違いなかった。
そうこうしている時、1991年「湾岸戦争」が勃発した。
このとき、アメリカは日本政府に対し人的貢献を要求してきた。小沢、渡辺らは自衛隊にPKO(平和維持活動組織)任務を託し、湾岸派遣を要求したが結局自民党内の合意を得ることができず自衛隊派遣は立ち消えとなっていった。
小沢はこのときを総括して、以後彼の主張である「普通の国」論を全面展開していくのであった。
1992年12月自民党最大最強のマンモス派閥「経世会」は小沢派と反小沢派とに分裂。この分裂劇が全党内に波及しこの6カ月後、自民党は分裂するにいたる。しかし、それにしてもすごいエネルギーの発散であった。派内抗争が党内抗争へと発展していく過程はまさにドラスティックな展開を作っていったと云える。(つづく)
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