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http://www.amakiblog.com/archives/2008/09/13/#001132
2008年09月13日
講和条約締結を前にしてなぜ吉田茂は不機嫌だったのか
読売新聞が毎週土曜日に連載している堤清二(辻井喬)の回顧録には、時として興味深い歴史の断片が語られることがある。
そのことを私はこのブログたびたび紹介してきた。
9月13日のそれにも、つぎのような興味あるくだりがあった。
・・・吉田茂は講和条約締結の一週間ほど前からひどく不機嫌になったということなど、いつも興味のつきない話が、主に吉田健一(吉田茂の長男、英文学者)から出されるのであった・・・
これを読んだ時、私はすぐに、豊下楢彦著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)を思い出した。
いわゆるサンフランシスコ講和条約は日本にとって極めて寛大な条約だった。
その条約を吉田茂は高く評価していたはずだ。それなのになぜ吉田茂は首席全権代表を強く拒んだのか。
この疑問に豊下教授はその著書で見事な推論をしてみせる。
講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ、と。
そして、豊下教授は、少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を重ねた吉田茂に対し、天皇の戦争責任をせまるロシアの影響を恐れた昭和天皇が、日米安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田茂に、はやく出席し、署名するように、と迫ったからだ、と推論する。
だからこそ吉田茂は、日本国民や国会はもとより、全権代表団にさえ安保条約の実態を知らせることなく、責任をみずから一人に負わせる形で、サンフランシスコ郊外の米軍兵舎に一人赴いて署名したのである。
今日に至る戦後63年の日本を既定する日米安全保障体制は、昭和天皇と米国の利害が一致して作られたのだ。
安保条約締結から57年がたった今、吉田茂の孫、麻生太郎が日本の総理を目指している。
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