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[机上の空論]“「触知型崇高美」への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本国民の不幸”の反照
<注記1>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080819
<注記2>右上の画像はハイデルベルクの精霊教会(2007年4月、撮影)
●下記記事◆へのコメント・TB&レスを関連記事[007-08-01付toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象[ハイデルベルク編]/副題:「原発の未来」に必須の「環境リスク・コミュニケーション」の視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801]の再掲とともに転載します。
◆2008-08-13付toxandoriaの日記/「触知型崇高美」への無理解で「擬装右翼の暴政」に凌辱される日本国民の不幸、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080813
●改めて、ここで見えてきたのはポストモダンの究極的な目的と見なすべき「環境存在論」(科学と哲学の融和=mezzoscopic(中間規模)で、かつmetascopicな(メタ次元を自由に往還する)世界認識)への第一歩である「環境リスク・コミュニケーション」の視点を全ての国民が共有することの重要性です。
●なお、転載した関連記事にはドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の都市、ハイデルベルクの画像(2007年4月・撮影)があります。ハイデルベルクは、「現代アメリカの崇高(American-Sublime)」(参照、表記http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080813のグロテスク2)の典型たる「モダニズム以降の「米国型ゾーニング都市計画」に漂うグロテスク」の対極ともいえる美しい古都です。
●なお、転載した記事は約1年前のものなので、当然ながら、部分的には現在の日本の政治・社会状況と些かのズレを感じさせます。が、敢えて殆どそのままで転載しました。却って、その方が、現代日本の政治・経済事情の根本は1年前と何も変わらず、ただ「内閣の擬装看板」が架け換わっただけであることが見えると思われるからです。
・・・以下は、[http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080813へのコメント・TB&レス]の転載・・・
イオン 『こんにちは。イオンです。
今回も勉強させて頂きました。人工的な「仰視型崇高美」の美学と自然の内奥を見つめ、それを芸術に再構築せんとする「ミメーシス」の美学の対比が鮮やかでした。
この二つの美学を考えるのに重要なキーとなる歴史的事件は御指摘のとおり、やはりナチズムと広義のファシズムの問題でしょう。ナチズムは前に小生のコメント でも指摘しておきましたが、やや時代遅れとなった俗流ロマン主義を賞揚しましたが、一方で当時の最高のテクノロジーを駆使し、電撃戦や、ロケット兵器開 発、さらにはあのホロコーストを現出するに至りました。さてナチスが利用したドイツ・ロマン主義も、面白い事に、御紹介のエドマンド・バークの時代に啓蒙主義への批判をばねとして生まれました。個性・感情・実存の尊重などが一方にあり、また一方に自然、伝統への回帰、近代に侵されぬ東洋など非西欧地域とその文化への憧憬などがありました。(そういえばアメリカもロマン主義者たちの憧憬のまとの一つでした。)つまりロマン主義もすぐれてミメーシス的な美的感 覚を持っていた訳です。
このロマン主義(の俗化した形態)とテクノロジー信仰の両面を持っていた、否、最悪の綜合体でもあったのがナチズムであ り、これはミメーシスもある種の現実感覚と他者へのまなざし、配慮、交わりを失えば、それは観念化・理想化し自然のものと思い込んだ自画像をミメーシスするにすぎなくなってしまう例を示しているように思います。例の安倍晋三氏の「美しい国」の一見ロマン主義的な装いは、それが理想化した自画像のミメーシス であることを示しています。いわく「美しい日本の自然」、「日本の美しい伝統」などの像を発案者とそのブレーンが作り上げ、それを再生産するだけになります。そこから仰視型美学の壮麗な社会工学、政治工学、地政学まではあと二、三歩ほどの距離に過ぎません(例えば「美しい国を目指し、健全な青少年育成を目 指す社会をつくろう」などというスローガンはすぐにでっち上げられます。)
さてアメリカの場合ですが、今でもその文化のバックボーンの重要な部分 をなすミメーシス的美学(例えばホイットマン、エマーソン、ソロー、ワイエスなどが体現者か、また建築家のライトも?)と仰視型美学はどのように結びついているのか、あるいは全く今日に至るまで無関係なのか、toxandria様は如何にお考えになるでしょうか。「自由の国」などの理想化された自画像のさらなる神聖化、それを振りかざす政治家が無謬性のイメージさえ持つ事などはここ8年間(長い8年でした…)の政治、文化状況を見れば確認できますが。しかしオバマ現象などを見ると、理想化された自画像も、現状批判のために有効に機能している面もあり、興味深いものがあります。
今度も長くなり、失礼しました。今後も一層の御健筆、期待しております。』(2008/08/15 23:56)
toxandoria 『イオンさま、コメントありがとうございます。
今や、存在論の世界 (ontology)の見直しが必要という観点から、私たち生命体が知覚し行動する環境のすべては、科学還元主義でとらえられるような世界ではなく、それは“mezzoscopic(中間規模)で、かつmetascopicな(メタ次元を自由に往還する)”世界ではないか、という認識が深まりつつあるよう です。例えば、J.ギブソンのアフォーダンス理論は、まさに“そのような環境世界の実相”への入り口となることが想像されて、大変に興味深いことだと思っています。
それは、例えば心理学のフィールドでも、科学還元主義に基づく「内観法の心理学」の限界が指摘されており、意識内容の完全な言 語化が不可能であることが(映像のみならずテキストとしての言語にも表象不可能性の限界があること)が意識されつつあるようです。同じく、「行動科学」におけるコンピュータによる心理モデルの分析(情報処理アプローチ)にも限界が見 えているようです。その訳は、いかに無限回に近く“「刺激」→「感覚器官」→「反応」→「行動」のプロセス・サンプル”を収集して高性能コンピュータで分析しても「人間の意識内容」を掴むことはできないことが分かってきたからです。
もし、『生物は自らが棲む環境の「意味内容」(“不変項=変換対象性(数学用語))”を直接的に知覚している』と仮設するなら(これもJ.,ギブソンのアフォーダンス理論が示唆することですが・・・)ば、そもそ も、 その科学還元主義を否定しながらも、いわゆる「科学的な伝統心理学の仮設に沿いつつ、個々の心理的プロセスが個々の脳内に閉じ込められた神秘」と看做してきた「ロマン主義的発想」には初めから限界があったと思われます。
しかし、このアフォーダンス理論が言う「“不変項=変換対象性(数学用語)”の環境内での存在」の仮設を考えると、「個々の人々の心理的プロセス」が、そもそもは複数の個体(複数の人々)へ開かれているという可能性があるよ うです。つまり、 そこには「科学還元主義」と「啓蒙主義(思想)」が根本的に見逃してきた「公共への入り口」が存在する可能性があるのではないか、ということです。ただ、 この「公共への入り口」は、従来型の科学還元主義または啓蒙主義のいずれか一方の眼鏡だけでは見えないのかも知れません。
無論、“ミメーシスも、ロマン主義も、科学還元主義も、啓蒙主義”も民主主義のための「公共空間」を創出するプロセスとして一定の役割を果たしてきた(今も果たして いる)と考えられますが、同時に、 これらは「政治権力のファスケスの刃」と「民主主義の基盤たる国民主権」にとって“非常に壊れやすい(フラジャイルな)両義的な存在”という意味での脆弱性 (例えば、ナチスによるロマン主義の悪用など)を帯びていることから、この弱点を補強する役割が、改めて、存在論としての「人文科学(言語、語り、文学、 詩、哲学、歴史など)の復活」に大いに期待できるのではないかと思います。
それ故に(これは記事でも書きましたが)、この観点から見ても今の日本がアメリカの「グローバル市場原理主義」の猿マネをして「大学カリキュラムから人文科学を殆ど放逐してしまったこと」は愚の骨頂だと思います。また、このような為政者らの低劣な信条(その典型が、「中国冷凍ギョーザvs消費者・やかましい事件」あるいは「ス−パーフリー暴言事件」の主人公たる大田農水相の発言)が、今の日本社会の殺伐たる空気を作っている可能性があります。
従って、「演劇的トリック」(=俳優の語りの効果)に「“グロテスク2”の表象不可能性」のブレークスルーを期待した桑島秀樹氏の著書『崇高の美学』の炯眼に は、 非常に奥深い意義が感じられます。しかし、まことに残念なことながら、日本の民主主義の現実は、この立場からすれば非常にお粗末な次元を徘徊しており、未だに 「グロテスク1」(=視野狭窄な正義のための戦争、美しい国と靖国ナショナリズムのための戦争賛美)を乗り越えるべき意味をすら、政治権力者らも、大方のメディアも、過半の日本国民も十分には理解していないようです。
例えば、現在の「グルジアをめぐる紛争」で、主に日米のメディアが「米 露・冷戦構造の復活」(≒再び、善と悪 の対決!)の論調へと傾きつつある一方で、欧州系メディアが比較的冷静かつ公平であるのは、この辺りの事情(“靖国崇拝、正義の戦争の賛美などグロテスク1”の愚かさと”科学技術傾斜のアメリカ的崇高(American-Sublime)(仰視型崇高美)”の限界を大方の国民一般とメディアが理解しているか否かの違い)が影響しているのではないか、と思っています。』(2008/08/17 18:30)
toxandoria 『イオンさま、追伸です。
・・・アメリカ文化のバックボーンたる「ホイットマン、エマーソン、ソロー、ワイエス、ライト」などについて・・・
これらの役割については、まだ十分に理解しておりません。が、当然のことながらアメリカ文化の基層には古い伝統が、言い換えれば現在の欧州に勝るとも劣らぬ“古いヨーロッパ”が原理的な姿のままで(それ故に少数派ですが・・・)遺っているようです。
[f:id:toxandoria:20080819092801j:image]例えば、以前に記事にしたことがある『バーナム博物館』の著者スティーヴン・ミルハウザーなどはその事例ではないかと思います。またフィールドは異なります が、J.ギブソンのアフォーダンス理論などはヨーロッパ伝統の「存在論」(ontology)の復権と看做すことも可能だと思います。』(2008/08 /18 11:28)
toxandoria 『kaisetsuさま、コメント付TBありがとうございます。 → http://blog.kaisetsu.org/?eid=675326
「原爆の父」と呼ばれることがあるオッペンハイマー(ロスアラモス国立研究所の初代所長)のような大天才でも、自らが開発した原爆(=American- Sublimeの典型)の本当の恐ろしさが「広島・長崎の原爆投下による地獄図」(という現実)を見るまで理解できなかったようです。
一方、純粋に哲学的な思索を深めつつナチス・ドイツが行った侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元(刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪)に分けて考えることを着想したヤスパースのような天才の存在もあります。
このヤスパースの功績によって、戦後のドイツ国民の殆どが「自分たち、ドイツ人の一人ひとりが、それぞれ自らが負うべき罪について、各々が身の丈に合わせて主体的に考え反省すべきだ」ということを理解できたとされています。
この二人の僅かな立ち位置の違いは、後者が「初めから“存在論的な観点”で人間について思索していたこと」にあると思われます。従って、これからの時代は、ますます存在論の復権(=科学と哲学の融和についての模索)こそが重要であるように思われます。』(2008/08/18 21:44)
・・・・・
・・・・・以下は、[007-08-01付toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象[ハイデルベルク編]/副題:「原発の未来」に必須の「環境リスク・コミュニケーション」の視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801 ]の再掲・・・・・
[ 副 題 ] 「原発の未来」に必須の「環境リスク・コミュニケーション」の視点
・・・・・・この[ 副 題 ]の内容は(プロローグ)の部分に書いてあります。
ドイツの諸都市(http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/world/hotel/p042_hotel_germany.htm)より
[f:id:toxandoria:20070801131111g:image]
ハイデルベルクの俯瞰図(Google Mapより)
[f:id:toxandoria:20070801131200j:image]
ハイデルベルクの略図
[f:id:toxandoria:20070801131246g:image](ニコラス・ジャパンHP、http://www.nicolas.co.jp/company/index.html)より
・・・ニコラス・ジャパンは、1990年に高級ワイン造りで創業し葡萄作りから販売・輸出までを一貫して営む会社で、Heidelberg、Rudesheim、Rothenburgそして横浜に店舗を持ちオンラインショップ(http://www.nicolas.co.jp/shop/index.html)もあります。
<参考>仙台市(川内地区、片平地区)のクローズアップ(Google Earthより)
[f:id:toxandoria:20070801131338j:image]
南北の位置関係はハイデルベルクとほぼ逆になるが、市内を流れる川(広瀬川)を挟み「城跡を中心とする自然・歴史地区(川内・青葉山)」と「旧学生街区(片平)」が対面する杜の都・仙台(旧市街地の一区画である、広瀬川を挟む青葉山・川内・片平あたり)の俯瞰的イメージがハイデルベルクに似ています。
上の俯瞰図で、「城跡を中心とする自然・歴史地区(川内・青葉山)」は蛇行して流れる広瀬川の右岸一帯(この俯瞰図では左の端)にあり、「旧学生街区」は広瀬川の左岸(この俯瞰図では北に向かい大きく蛇行する川の直ぐ右側一帯の市街地)辺りです。
しかし、東北大学・片平キャンパスの研究・教育機能が青葉山(この俯瞰図では左端上辺りを占める丘陵地帯)へ殆ど移ったため、片平地区を中心とする「旧学生街区」には、今のハイデルベルクのように伝統ある学生街として賑わう雰囲気は残されていません。
・・・・・
(プロローグ)「原発の未来」に必須の「環境リスク・コミュニケーション」の視点
参院選の騒擾にかき消された感がありますが、秋田県上小阿仁村の小林宏晨・村長が、検討していた放射性廃棄物最終処分場の誘致断念を村議会全員協議会で28日に表明したことを各メディアが報じていました。これは、固定資産税の増収や国からの補助金20億円が見込まれるというメリットは魅力的ながらも、同村民のみならず県レベル及び周辺市町村住民などの十分な同意を得られる見込みがないことなど様々な要因を慮ったためと思われます。
ところで、原発・放射性廃棄物最終処分場及び核燃料再処理工場などが豊かな自然環境に恵まれた、風光明媚で、かつ歴史的に重要な場所に所在(または隣接)するのは日本だけのことではなく、例えばハイデルベルクへ向かう車窓から遠望したフィリップスブルク(Philippsburg、http://philippsburg.inmeco.de/)の原子力発電所(1、2号機/共に旧型原発なので段階的廃止計画に従い、1号機→2号機の順で間もなく停止する予定)は下図のとおり、ハイデルブルクから38km、シュパイヤー(Speyer/古代ローマ時代いらいの歴史的古都)から24km、カールスルーエ(Karlsruhe/ドイツにおける自由主義的改革の先進地で、連邦憲法裁判所と連邦裁判所が立地する)から36kmの距離にあります。
フィリップスブルクの原発
[f:id:toxandoria:20070801131456j:image]http://www.nuclear-free.com/thomas/phillipsburg.htmより
フィリップスブルク(Philippsburg)の位置(ウイキメディアより)
[f:id:toxandoria:20070801131550j:image][f:id:toxandoria:20070801131640j:image]
[f:id:toxandoria:20080819092800j:image]フランスでも事情は同じで、例えば1994年の閉鎖後も周辺の環境汚染問題が懸念されている「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(La Manche CSM)」は、イギリス海峡に面したノルマンディー地方のコタンタン半島(Cotentin Pen.)の北側の内陸に近い部分にあるカン(Caen/ノルマン・コンクエスト(1066)で名高いウイリアム征服王に始まる古都)の郊外にありますが、そこから50km圏内(直線距離)には同じく百年戦争(1338-1453)の事跡で歴史的な価値が大きいバイユー(Bayeux/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050306)、ルアーブル(Le Havre/セーヌ川の河口にある大貿易港/画家モネが活躍した場所)などの都市が点在します。また、コタンタン半島の先端にはカトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画『シェルブールの雨傘』で知られる美しい港町・シェルブール(Cherbourg)があります(画像はhttp://item.rakuten.co.jp/book/4483586/より)。
また、仏原子力省・カダラッシュ(Cadarache)研究センターとMOX燃料工場(AREVA社、http://www.us.areva-nc.com/Profile/profile.html/使用済核燃料から猛毒のウラン・プルトニウム混合酸化物(=原発用燃料、Mixed Oxide)を製造する工場)は南フランスのラ・アーグ(La Hague)にあり、その約50〜100km圏にはエクサン・プロバンス(Aix-en Province/画家セザンヌの連作・画題、石灰質の岩山サント・ビクトアール山などに因む美しい古都)、マルセイユ(Marsille/地中海に臨み、フランス革命で重要な働きをしたフランス第二の都市/古代ローマ時代いらの歴史・港湾都市)、風光明媚なリゾート海岸・コートダジュール(Cote d'Azur)などがあります。
これら各国の事情は、本源的なリスクが指摘される原発・核燃料施設を我われの貴重な歴史と自然環境から全く隔絶した場所に設置することができないことを意味しており、逆に言えば、もはや我われ一般国民はこれら原子力関連の施設設置・立地の問題を他人事として見過ごすことができないということです。それは、恰も、グローバル市場経済時代(=地球環境・地球資源危機の時代)に生きる我われが民主主義社会の持続的な発展のために「中間層没落のリスク」という現実を直視しなければならないことに重なります(この問題の重要性については、下記記事★を参照)。
★『中間層の確保=民主主義の根本』を自覚できない日本政治と市民意識の貧困(ポスト参院選にも引き続く日本の危機)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070715
★同上、Appendix、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070720
ドイツは、国内発電量の3割弱を原子力発電に頼っていますが、1998年に成立した「社会民主党(SPD)」と「緑の党」の連立政権は、その公約に従って脱原子力政策(原発の段階的廃止)に取り組んできました。その背景には、当時の世論調査では原発を危険と見做すドイツ国民の割合が約8割に達したという現実があります。しかし、2005年9月の総選挙の結果を受け、「キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)」と「社会民主党(SPD)」の大連立で成立した新政権は、ドイツ初の女性首相(メルケル/CDU)の下で、経済政策ではSPDが大きな影響力を持つ体制で出発しながらも原子力ルネサンス(原子力政策の見直し)の可能性が出てきたとされています。が、ことはそう単純に進みそうもありません。それは、連立相手である「社会民主党(SPD)」及び「緑の党」などが原子力ルネサンスに反対しているからです。
一方、電力の約8割を原発に依存するフランスの事情は第二次世界大戦後の敗戦国ドイツとは異なります。フランスの電力事情が原発利用へ極端に傾斜するようになった契機は、1970年代のエネルギー危機です。しかし、それだけではなく、第二次世界大戦後のフランスが国家戦略として核戦力を保持しつつ米ソの二大国に次ぐ第三勢力となることを目指してきた点にこそ、現実的な契機があります。そして、ウラン濃縮及びプルトニウム関連の技術が核戦力の保持能力と通底していることは周知のとおりです。つまり、世界第一級の原子力利用国になることは、核戦力も保持するフランスの原子力大国としての国家威信がかかってきたという現実がある訳です。
それはともかくとして、そのフランスが今や最も腐心しているのが「高レベル放射性廃棄物の最終処分場の確保」と「次世代型の原子力発電技術の開発」ということです。なぜならば、この二点のリスクの大きさについてフランス国民の議論が今や二分されつつあるからです。つまり、今までどおり国家の威信をかけた原子力政策について国民の信任を確保するには、多くのフランス国民からこの二点について十分な理解を得る必要がある訳です。しかも、そこには表記のとおりの「ドイツにおける特殊事情」(原発の段階的廃止か、原子力利用ルネサンスかについての国民的議論)が、EU(欧州連合)の結束とグローバリズム市場経済という共通フレーム(=一心同体化しつつある市場経済の枠組み)を介して徐々に影響を与えてくるはずです。
このため、フランスでは、より広い観点から、これからの原子力利用の問題を「環境リスク・コミュニケーション」という概念によって政府・行政・研究者・企業・一般国民が関連する情報を共有し、スムースに相互理解できるようにするための制度化についての議論が進められています(参照、http://e-public.nttdata.co.jp/f/repo/402_e0608/e0608.aspx)。また、以前から、フランスでも「緑の党」や中立的な評価機関の役割が重視され、それが政府によって公認されてきています。例えば、原子力利用についての中立的な評価機関(NGO)であるACRO(Association pour le Controle de la Radioactivite de l'Ouest 、http://www.acro.eu.org/accueil.html)は、1994年に閉鎖された「ラマンシュ核廃棄物貯蔵センター(CSM)」の調査のためにフランス政府が組織したCSM調査委員のメンバーに任命され、その調査結果を情報開示しています。
残念ながら、このような独・仏の現況とわが国の原子力を巡る事情は、本質的なあり方そのものの次元への理解がかなり異なるようです。例えば、日米英仏などが2001年に結成した「第4世代国際フォーラム」(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2001/siryo55/siryo2_2.htm)は、「第4世代原子炉(GEN-4)」として超臨海圧軽水冷却炉、ナトリウム冷却高速炉、トリウム溶融塩炉など6つの概念(今回の地震で大きな被害を受けた東電柏崎刈羽原発は第3世代の改良型軽水炉)を選定していますが、今になって、これらの中でかなり有望視されているトリウム溶融塩炉(この関連の研究業績を積み重ねてきたのが日本の古川和男・博士/参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060720)の積極推進論への提言(1980年代において、同実験炉等による基礎データ・実証研究について関係科学者・財界人などが出した要望)が、一種の政治的・権力的バイアスで殆ど一般国民の知るよしもないまま雲散霧消させられた(闇に葬られた?)という現実があるようです。
周知のとおり、1940年代におけるアメリカの「マンハッタン計画」(枢軸国の原爆開発に焦ったアメリカが原爆開発・製造のためオッペンハイマーら亡命ユダヤ人らを中心とする科学者、技術者を総動員した国家計画)は、一般的な意味で科学者の立場を政府の下請機関と化すことになる歴史的契機であったと見做されています。ズバリ言えば、この時から大方の従順な科学者たちは“国家(政府)の下請け機関”と化してしまった訳です。特に日本の場合は、旧・日米原子力利用協定(1968〜 )及び新・日米原子力協定(1982〜 )の下での強い縛りということがあるようです。しかし、これからの日本で大切なことは、例えばフランスの「環境リスク・コミュニケーション」のように“一般国民の立場(基本的人権と法の下の平等)へ十分に配慮”して、風通しがよい「コミュニケーション環境」を創ることが大切です。無論、それを支えるのは中立的で科学的な評価、情報公開などの公正原則であり、ゆめゆめ政治的バイアスなど権力的立場や偏向・屈折した観点によって科学的真理と客観データが捻じ曲げられるようなことがあってはなりません。
もし、仮に今のグローバリズム時代を肯定的に見做すとするならば、それは、地球上の人類は否応なく限られた地球の環境・資源の中で生きざるを得ない運命共同体の一員であることが、漸く、世界中の人々によってリアルに認識される時代に入ったということです。これは恰も、「ワイマール憲法」(1919)で書かれた先鋭的な民主主義の理念が30年の時間と多くの悲惨な犠牲を費やして「ドイツ連邦共和国基本法」(1949)としてやっとのことで結実し、更に、それから約70年の歳月を経て、それが今まさに「EU改憲条約」の形で、民主主義を支える「中間層の没落と格差拡大」を防ぐべきだという意思(=グローバル市場原理主義の負の側面である右翼ポピュリズムの台頭を抑制すべきだという知見)が全ヨーロッパで共有されつつあるという歴史の流れに重なります。つまり、「ワイマールの理想」は、人命等の膨大な犠牲と100年の時間を費やして、今や世界の人々に漸く認識されようとしている訳です。
見方を変えれば、これは、今の時代になって漸く「劣等処遇の原則」の誤謬が多くの人々によってリアルに共通認識されつつあるのだということでもあります。まことに皮肉なことですが、グローバル市場原理主義の深化がもたらした<極端な格差拡大>によって、我われは漸く「劣等処遇の原則」の誤謬がリアルに認識できるようになったということです。因みに、「劣等処遇の原則」とは、1834年の英国「救貧法」(及び1848年の同「改正・救貧法」)で定められた“福祉サービス利用者の生活レベルは自活可能な勤労者の平均的生活水準よりも絶対的に低くなければはならない”という、18〜19世紀における救貧事業上の原則を再確認したものです。これは、よく考えてみれば<驚くべきほど単純で明快な差別概念>であることが分かるはずです。このような誤謬への否定的理念(=基本的人権、法の下の平等/日本国憲法では第11条、第14条)が、形だけにせよ漸く実現したのがワイマール憲法においてです。
しかしながら、実は原子力利用についての情報を隠蔽したり、政治的バイアスで関連する科学的真理を捻じ曲げたりすることは、国民の中における特定の利益享受者と不特定多数の被害者(または不利益者)の存在という<人為的な格差発生>の現実を無視し続けることに他なりません。つまり、それは<立場の違いによる、原子力利用の利益享受に関する深刻な格差拡大(=極端な意図的差別の発生)>を無視するということです。また、特に忘れるべきでないのは、今さら言うまでもないことですが原子力利用には絶えず大きなリスク(地震・事故等による放射線及び毒性拡散の被害、同じく地球環境汚染の拡散、ゲリラやテロのターゲット化、核兵器拡散など)が付き纏うということです。
そして、リスク管理の問題については、十分に実証科学的・合理技術的な立場から様々な優れた知見が提起されつつあるようですが、最も肝心なことは素朴な「ヒューマン・エラー」を回避するために政府・行政・研究者・企業・一般国民が情報を共有し、コミュニケーションを深めつつ相互の信頼感を高める工夫を永続的に進めることです。このような意味で、わが国は、本格的にグローバリズムが深化する時代を見据えた「EUにおける原子力利用の動向」と「フランスの環境リスク・コミュニケーション」の事例を真剣に学ぶ必要があると思われます。なぜならば、『<果てしない危機の海の航海>で忘れてならないのは人的なリスク恒常性の問題』、つまりヒューマン・エラーの問題であるからです。しかも、ヒューマン・エラーを最も有効に回避する究極の方法は<双方向コミュニケーション>以外に見当たらないからです。
これらの観点からすると、今回の参院選で多くの国民からノー(過剰な陰謀史観にも通ずるところがある右翼ポピュリズムの本心を隠した安部総理に対する国民からの厳しい審判の意志)を突きつけられたにもかかわらず、7月30日の総理記者会見で、“反省すべき点は反省するが・・・”と一般論で逃げ、しかも、<今回の参院選で国民へ政権選択を強く迫った自らの誤謬>を棚上げにした上で、先ず“自らの“美しい国”への理解と信任を、つまり<国民のアベ・ノーの民意に真っ向から逆らう形で自らの続投意志への理解>を国民の側へ一方的に要求した安部総理大臣は、このような「環境リスク・コミュニケーション能力」(国民の前で、“自らの誤謬の根本に潜む劣等処遇の原則”の撤回を堂々と宣言し、多くの国民の意志を民主的に巻き込みつつ目前の国家危機を早急に回避するガバナンス・パワー)の重要性についての理解が決定的に欠けています。
比喩的に言うならば、これは、まるで「破れかぶれで冷静なバランス感覚を見失った安部内閣が、自らの根本的誤りと欠点を厳しく指弾した日本国民をムリヤリ巻き込んで抱き合い心中を図る」ような、あるいは「歴史的巨大地震のダメージで、例えばフィリップスブルク仕様の旧型原発がメルトダウン(最悪の炉心溶融事故)を起こしたような恐るべき構図」です。ドイツ・フランスにおける民主主義政治の成熟度の現実に比べると、これは、まことに恐るべき前時代的な政治感覚(“美しい国”のアナクロニズム → 喩えれば、第二次世界大戦以前の恤救規則(ジュツキュウ規則/明治7年〜)で65歳以上の高齢者を“老衰者”と呼んでいたようなアナクロ感覚)であり、安部自民党政治の決定的なリスク管理意識の欠落ぶりを曝け出しています(参照/下記の関連記事★)。序ながら、安部自民惨敗で、うろたえつつ首相擁護を繰り返すばかりの日本経団連等、財界幹部の姿にも、基本的なバランス感覚を欠く一方で“美しい国”のアナクロに溺れるという、本格的なグローバリズム時代の経営者らしからぬ、余りにも近視眼的で、さもしいだけの虚弱な経営者の本性が滲み出ています。
★赤城・安部らアホ寄生虫の大ウソで世界に150年遅れる「美しい日本」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070710
ネッカー川 辺りの風景(Neckar)
[f:id:toxandoria:20070801132458j:image]
[f:id:toxandoria:20070801132540j:image:right]ほか
ネッカー川(全長367km)は、ライン川の支流で、主ににバーデン・ヴュルテンベルク州(Land Baden・Wuerttemberg)内を流れ、下流域では同州とヘッセン州(Land Hessen)との州境となっています。ヘッセン州の中心都市は州南部に位置するフランクフルト(Frankfurt am Main)です。
ハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)
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[f:id:toxandoria:20070801133612j:image:right]ほか
ハイデルベルク城は旧市街を見下ろす小高い丘の上(上掲した俯瞰図の右端、略図では右端の下)にありますが、その本格的な始まりは13世紀に建てられたプファルツ(Pfalz)選帝侯(ヴィッテルスバハ家/Wittelsbach)の居城です。しかし、その後の時代に歴代の城主たちが改築を繰り返したため、バロック、ルネサンスなど様々な様式の建築物の集合体となっています。
ヴィッテルスバハ家のライン宮中伯としての支配は、1214年にバイエルン公オットー2世(Otto 2/位1231 - 1253)がライン宮中伯となってから1777年まで約560年続くことになります。なお、フランク王国時代から各地に置かれた宮中伯(公、伯、軍事指揮官に次ぐ位階)は、13世紀半ば頃にはライン宮中伯を除き、他の諸侯に併呑されて姿を消します。
この城は、1622年に三十年戦争(1618-48)で、カトリック側の軍隊によって破壊され、1689年にはプファルツ継承戦争(1688ー1697)でフランス軍の砲撃と火薬庫の爆破などで破壊さ れており、今も残る破壊の跡はこの時のものです。その後に改修工事が行われましたが、1764年の落雷で工事が中断されてしまいます。しかし、第二次世界大戦では 戦火を免れたため、工事が中断されたそのままの姿が残されています。このハイデルベルク城はバーデン・ヴュルテンベルク州州政府が管理しています。
ハイデルベルク城「フリードリヒ館」、「ワインの大樽」
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[f:id:toxandoria:20070801135320j:image:right]ほか
一枚目は、ハイデルベルク城の中庭正面にあるフリードリヒ5世(Friedrich 5/1610-1623)が17世紀初めに建てたルネサンス様式のフリードリヒ館ですが、この地下には「ワインの大樽」(Grosses Fass)があります。これは、18世紀末に城兵たちのために造られた、ワイン20万リットルが入る大樽(直径7メートル)で、ここではワインの試飲もできます。
ハイデルベルクの歴史(概観)
ハイデルベルクは、シュトウトガルト( Stuttgart )、マンハイム(Mannheim)、カールスルーエ(Karlsruhe)、フライブルク(Freiburg)に次ぐ、バーデン・ヴュルテンベルク州で五番目の人口規模(約14万人/このうち約3万人が学生人口)の都市ですが、その歴史は、BC1のケルト人の“聖なる場所”(ローマ人の礼拝所へ引き継がれる)が「ハイリゲンベルクの丘」(ネッカー川の右岸/ネッカー川を挟みハイデルベルク城の反対側にある場所で「哲学者の道」がある/上掲の俯瞰図で右端上部)にあった頃から姿を現します。
しかし、ハイデルベルクの名が文献で見られる最初は1196年です。その記録によれば、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王/Friedrich I. Barbarossa/位1152-1190)の異母弟であるプファルツ伯コンラート(Konrad ? -1200 )が、丘の上の城砦(Burg)と周辺の小さな集落をヴォルムス(Worms)司教領から手に入れたとされています。
それ以降、この城砦は、その下に人口が更に集積して成立する都市ハイデルベルクとともにプファルツ伯領の中に組み込まれます。やがて、その城館は「プファルツ伯の城」と名づけられるようになり、現在の城の基盤となる区画は、既述のとおり、13世紀に建てられたプファルツ選帝侯の居城の建設に始まります。現在のハイデルベルク城は、バロック、ルネサンスなど様々な様式の建築物の集合体ですが、ルネサンス建築の印象が最も強く残るようです。
このような流れから、ハイデルベルクは長くヴィッテルスバハ家のライン宮中伯(後に選帝侯)に属してきたため、その宮廷所在地としての歴史を積み重ねてきました。1386年には、プファルツ選帝侯ルプレヒト1世(Ruprecht 1/1352-1410)によってドイツ最古のハイデルベルク大学(Ruprecht-Karls-Universitaet Heidelberg)が創設されており、その初代学長はパリ大学で教えていた唯名論者マルシリウス・フォン・インヘンMarsilius von Inghen(ca1330‐96)です。これによって、ハイデルベルクは大学都市・文化都市としての性格を強めます。
また、ハイデルベルクはドイツの中で早くから宗教改革の影響を受けた所であり、プファルツ選帝侯は1556年にプロテスタントに改宗しています。17世紀には、三十年戦争やプファルツ継承戦争の戦火で、ハイデルベルクは経済的活力を失い、宮廷のマンハイム移転(1720)によって政治的な中枢としての機能も喪失してしまいます。そして、1803年には新設のバーデン大公国(Grossherzogtum Baden /1803-1918)に帰属することになります。
なお、ゲーテ、ヴィクトル・ユーゴー、サマセット・モーム、マーク・トゥエーンなど著名な作家や画家ウィリアム・ターナーなどがこの町を訪れ、その足跡を残し ています。作曲家ではウェーバー、シューマン、ブラームスなどがこの街の美しさを唄っています。また、麗しくロマンに満ちたハイデルベルクの名が世界に知られるのは、マイアー・フェルスター(Wilhelm Meyer-Forster/1862-1934 /ドイツの作家)の戯曲「アルト・ハイデルベルク」(Alt-Heidelberg)」が世界的な人気を博してからです。この戯曲は、1901年にベルリンで初演され、それ以降は世界各国で上演さ れるようになり、「学生王子」という題名で映画やミュージカルにもなっています。
ハイデルベルク大学・図書館(Universitaetsbibliothek Heidelberg)
[f:id:toxandoria:20070801135737j:image]http://www.ii-niku.com/travel/06euro04_1.htmlより
既述のとおり、ハイデルベルク大学(創設、1386)はドイツで最古の大学で、神聖ローマ帝国の圏内ではプラハ大学(1348)、ウイーン大学(1365)に次ぐ三番目に古い大学です。古い時代からの建物は旧市街中央部の大学広場辺り(上掲俯瞰図の中央部)に集中していますが、今のハイデルベルクは、美しい自然環境に恵まれた大学都市として落ち着いた風格のある雰囲気を持ち、ゆっくり楽しみながら散策できる小さな道が繋がりつつ広がっています。
ネッカー川を挟むハイデルブルク城の対岸は閑静な高級住宅地で、その北側には一本の細い道、「哲学者の道」(Philosophenweg)があり、ゲーテ、マックス・ウエーバー(ハイデルベルク大学で6年間の教鞭を取った)、あるいは九鬼周造(1888-1941/実存哲学者)、吉野作造(1878-1933/政治学者、民本主義(Democracy/天皇主権が法理学上の建前であったため民主主義という訳語を避けた)を唱えた大正デモクラシーの立役者)ら多くの哲学者・詩人・学者たちが好んで散策したことが知られています。
因みに、第二次世界大戦でハイデルベルクは殆ど空爆の被害を免れており、連合軍(米軍主体)の総司令部がハイデルブルクに置かれました。それは、アメリカ人の多くが、ハイデルベルクがドイツ人の精神と文化の拠り所であることを知っていたからだとされているようです。また、このこととの関連性の検証はありませんが、第二次世界大戦以前も今も、ハイデルベルク大学へはアメリカを始め世界中から多くの留学生たちが集まっており、その研究レベルは世界で第一級と評価されています。それは、ハイデルベルク大学の卒業生を少し当たるだけでも、次のような世界的に著名な学者の名が浮かび上がることからも分かります。
カール・ヤスパース(Karl Theodor Jaspers/1883-1969/精神医学・哲学者)
ユルゲン・ハバーマス(Juergen Habermas/1929− /フランクフルト学派・第二世代の社会学・哲学者)
ハンス・ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer/1900-2002/言語テクストについての歴史哲学的アプローチで名高い哲学者)
ハンナ・アーレント(Hannah Arendt/1906-1975/ハイデガー、ヤスパースに師事し、その後はアメリカで活躍した政治・哲学者)
また、これはハイデルベルク大学だけのことではありませんが、軍国主義・外形的立憲君主制の国家としての後進性が目立つドイツ帝国の時代ですら、ドイツは世界でトップクラスの「学問の国」でもあったという下のようなデータがあります(出典:坂井栄八郎著『ドイツ史10講』(岩波新書))。
●19世紀最後の25年間になされた物理学分野(熱・光・電気・磁気)の分野での新発見・・・ドイツ(1886件)、イギリス(751件)、フランス(797件)
●同時期における、生理学分野の全世界における独創的研究の60%はドイツが占めている
●19世紀のアメリカからドイツへの留学生数は約1万人・・・その半数がアメリカへ帰国後に大学の教職に就き、アメリカにおけるアカデミズムの発展に貢献している
ところで、第二次世界大戦後のドイツが日本と根本的に違うのは「人道に対する罪の意識」を戦後のドイツ国民が共有することに成功し、今もその状態が持続している点だと思います。もちろん、これはドイツでの国際軍事裁判のために連合国側が規定した「平和に対する罪」、「戦争に対する罪」、「人道に対する罪」のなかの一つです。しかし、ドイツの場合にはこれが単に消極的な受身の意識に終わらず、この三つの罪についての反省的な思索を深めドイツ国民へ大きな影響を与えた、既述のカール・ヤスパース(ハイデルベルク学派の中心人物)の存在があります。ヤスパースは、妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したというエピソードがあります。
<注>ハイデルベルク学派(Heidelberger Schule)
・・・1910年から1920年代にかけ、ハイデルベルク大学における精神病理学の分野で活発に活動した研究者集団のことを指す。ウィルマンス(K. Wilmanns/1873‐1945)、H.W.グルーレ(H.W.Gruhle/1929- )、ヤスパース、マイヤー・グロース(W. Mayer Gross/1889‐1961)、ベーリンガー(K. Beringer/1893‐1949)らが主要メンバー。その精神的中心はヤスパースであり、ヤスパースが『精神病理学総論』(1913)で展開した現象学や了解心理学の方法は、外部からの客観記述にとどまっていた精神分裂病・躁鬱病など内因性精神病の研究を内的体験の角度から解明する方向へと推し進めた。しかし、彼らの活動は、1930年代に入るとナチスによって弾圧されるようになり、ハイデルベルク学派のメンバーは四散することとなり、ハイデルベルク学派は壊滅的打撃を蒙る。やがて、この学派が再建されるのは第2次大戦後で、ヤスパースを師と仰ぐK. シュナイダー(Kurt Schneider/ 1887 - 1967)、バイヤー (W. R. von Baeyer/1904‐ )らが中心となって人間学的方向を開拓したため、彼らは「新ハイデルベルク学派」と呼ばれる。
このようなエピソードを持つヤスパースの偉大な功績は「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせて主体的・積極的に考えるべきだ」という前提を明快に示したことです。そして、ヤスパースはナチス・ドイツが行った侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元に分けて考えます。それは、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪の四つです。つまり、これで「政治的・法的な責任」(前者二つ)と「内面的な責任」(後者二つ)を区別して考えることが可能となったのです[出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』(光文社新書)]。
これによって、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合った自覚レベルに応じて「人道に対する罪の意識」を具体的に表わすことが可能となり、是非とも自分は そうすべきだという人道に関する実践的な心と意志を一般のドイツ国民が共有できるようになったのです。このように見ると、ドイツの人道に関する戦後の責任意識が 日本とは比較にならぬほど高い地点に到達していたことが理解できます。このことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり、現在に至っています。ともかくも、「日本の国会議員の品性の低劣さ」と「ドイツの国会議員のモラルの高さ」はあまりにも対照的です(参照/下記の関連記事★)。
★2007-05-03付toxandoriaの日記/妄想&迷想、ドイツの青(Azur)と日本の青(青藍=Blue)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070503
ハイデルベルク大学の学生牢(Studentenkarzer)
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[f:id:toxandoria:20070801140441j:image:right]ほか
ごく大雑把な見方となりますが、中世から近世半ば頃までの法制の特徴は適用される個別の法も裁判所も人々の身分に応じて異なっていることであり、学生に対する裁判権は教会に属していました。従って、学生がハイデルベルクの市中で犯したトラブルに一般市民を取り締まる官憲や市民などが介入することはできませんでした。
そこで、大学当局が学生の犯罪やトラブル対策として整備したのが学生牢です。羽目をはずし規則違反を犯した学生は最長30日迄のあいだ水とパンのみで学生牢の中で過ごすことになっていました。しかし、授業に出ることは許されていたため、不埒な彼らは、その機会にワインや食料を調達して学生牢での生活を謳歌した時もあったようです。これらの落書きは、そのようにして青春を謳歌した彼らの痕跡でしょうか? この学生牢は1778年から第一次世界大戦が勃発する頃まで使われていたようです。
精霊教会(Heiliggeistkirche)
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[f:id:toxandoria:20070801140824j:image:right]二枚目の画像はhttp://www.heiliggeistkirche.de/より
騎士の家(Haus zum Ritter)
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市庁舎(Rathaus)
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ハイデルべルクの旧市街は、ネッカー川と南の丘陵にはさまれた東西に細長い地域ですが、 17世紀の戦禍を免れた唯一の建物である1592年建造のルネサンス式の「騎士の家」(Haus zum Ritter)以外はバロック建築が多いようです。 ゴシック式の「精霊教会」(Heiliggeistkirche)は1544年に完成したものですが、 今の建物はプファルツ継承戦争(1688ー1697)後に再建されたものです。
最初の精霊教会はカトリック修道請願(a monastic order/清貧・純潔・従順)に取り組むハイデルベルクの修道士たちによって、精霊へ捧げる名目で1228年に建てられました。その当時の彼らは病院活動を行っていたため、精霊教会は病院教会(Spitalkirche)とも呼ばれていました。
しかし、その病院教会は1726年に取り壊され、現在のバロック様式のプロテスタント教会が1729年に建築家ニクラウス・シルトネヒト(Niklaus Schiltknecht)によって建てられました。ただ、最初の教会の内陣部分と鐘は新しい教会へ引き継がれたため、これらについては今も古い時代のままの姿を見ることができます。
なお、「騎士の家」の呼称はルネサンス様式で作られた正面玄関に掲げられている騎士像に因むもので、16世紀末にこの家を建てたのはフランス出身の絹織物商人であり、今、この建物はホテルとして利用されています。
聖霊教会の周りに広がる広場が、ハイデルベルクのマルクト広場(上掲略図の右上、ネッカー河畔)です。このマルクト広場には1701年に作られたヘラクレス噴水(Herkulesbrunnen)があります。この噴水を挟み聖霊教会と反対側の建物が1701年に建てられた市庁舎(Rathaus)です。
ハイデルベルクの風景ア・ラ・カルト
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[f:id:toxandoria:20070801142451j:image:right]ほか
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