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長崎原爆の日:63回目 戦争に勝ちも負けもない、あるのは滅びだけ(毎日新聞)
◇米露は核削減努力を
被爆地・長崎は9日、63回目の原爆の日を迎えた。爆心地近くの平和公園(長崎市松山町)で、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典があった。今年は、被爆者救護に尽くした被爆医師、永井隆博士(1908〜51年)の生誕100年にあたる。田上富久・長崎市長は平和宣言に博士の言葉「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」を引用し、「核兵器の廃絶なくして人類の未来はない」と呼び掛けた。日本政府には昨年に続き、核兵器廃絶へのリーダーシップと非核三原則の法制化を求めた。
◇5650人参列
式典は午前10時40分に始まり、被爆者ら約5650人が参列。福田康夫首相、河野洋平衆院議長、舛添要一厚生労働相らのほか8カ国の代表が出席。昨年は15カ国だったが、北京五輪開催の影響とみられ、ほぼ半減した。核保有国からは唯一ロシアが出席。原子力潜水艦「ヒューストン」の放射能漏れ問題が明らかになった米国は今年も出席しなかった。
式典冒頭、この1年間に死亡が確認された3058人分の名簿3冊が平和祈念像前の祭壇に奉安された。これで原爆死没者名簿は計147冊、死没者は14万5984人となった。原爆投下時刻の午前11時2分から1分間、参加者全員で黙とうをささげた。
田上市長は宣言で、米国のキッシンジャー、シュルツ両元国務長官らが昨年以降、米紙に論文を寄せ、米国に核実験全面禁止条約(CTBT)の批准を促し、すべての核保有国に向けて核兵器廃絶を提言していることを指摘。特に米露両国に「世界の核弾頭の95%を保有しており、核兵器の大幅削減に努力すべきだ」と求めた。
来年8月に長崎市で開催される平和市長会議(世界2368都市加盟)の総会にも言及し、「2010年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けて核兵器廃絶のアピール活動を展開する」と決意を述べた。
今年初めて平均年齢が75歳を超えた被爆者についても、日本政府に「実態に即した援護を急ぐよう重ねて要求する」と訴えた。
福田首相はあいさつで「非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立つ」と表明。原爆症認定問題では「新たな認定方針に従い、できる限り多くの方を認定する」と、4月に導入した新基準を続けていく考えを改めて示した。
被爆者代表として、森重子さん(72)が被爆死した兄の話を通して、「悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器」と核兵器の残酷さを訴え、「平和への誓い」を読み上げた。【錦織祐一】
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長崎平和宣言・平和への誓いの全文は10日朝刊に掲載します。
毎日新聞 2008年8月9日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080809dde001040002000c.html
長崎原爆の日:長崎平和宣言(全文)
あの日、この空にたちのぼった原子雲を私たちは忘れません。
1945年8月9日午前11時2分、アメリカ軍機が投下した一発の原子爆弾が、巨大な火の玉となって長崎のまちをのみこみました。想像を絶する熱線と爆風、放射線。崩れ落ちる壮麗な天主堂。廃虚に転がる黒焦げの亡骸(なきがら)。無数のガラスの破片が突き刺さり、皮膚がたれさがった人々が群れをなし、原子野には死臭がたちこめました。
7万4000人の人々が息絶え、7万5000人が傷つき、かろうじて生き残った人々も貧困や差別に苦しみ、今なお放射線による障害に心もからだもおびやかされています。
今年は、長崎市最初の名誉市民、永井隆博士の生誕100周年にあたります。博士は長崎医科大学で被爆して重傷を負いながらも、医師として被災者の救護に奔走し、「原子病」に苦しみつつ「長崎の鐘」などの著書を通じて、原子爆弾の恐ろしさを広く伝えました。「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである」という博士の言葉は、時を超えて平和の尊さを世界に訴え、今も人類に警鐘を鳴らし続けています。
「核兵器のない世界に向けて」と題するアピールが、世界に反響を広げています。執筆者はアメリカの歴代大統領のもとで、核政策を推進してきた、キッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人です。
4人は自国のアメリカに包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を促し、核不拡散条約(NPT)再検討会議で合意された約束を守るよう求め、すべての核保有国の指導者たちに、核兵器のない世界を共同の目的として、核兵器削減に集中して取り組むことを呼びかけています。
これらは被爆地から私たちが繰り返してきた訴えと重なります。
私たちはさらに強く核保有国に求めます。まず、アメリカがロシアとともに、核兵器廃絶の努力を率先して始めなければなりません。世界の核弾頭の95%を保有しているといわれる両国は、ヨーロッパへのミサイル防衛システムの導入などを巡って対立を深めるのではなく、核兵器の大幅な削減に着手すべきです。英国、フランス、中国も、核軍縮の責務を真摯(しんし)に果たしていくべきです。
国連と国際社会には、北朝鮮、パキスタン、イスラエルの核兵器を放置せず、イランの核疑惑にも厳正な対処を求めます。また、アメリカとの原子力協力が懸念されるインドにも、NPT及びCTBTへの加盟を強く促すべきです。
我が国には、被爆国として核兵器廃絶のリーダーシップをとる使命と責務があります。日本政府は朝鮮半島の非核化のために、国際社会と協力して北朝鮮の核兵器の完全な廃棄を強く求めていくべきです。また、日本国憲法の不戦と平和の理念にもとづき、非核三原則の法制化を実現し、「北東アジア非核兵器地帯」創設を真剣に検討すべきです。
長崎では、高齢の被爆者が心とからだの痛みにたえながら自らの体験を語り、若い世代は「微力だけど無力じゃない」を合言葉に、核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動を続け、市民は平和案内人として被爆の跡地に立ち、その実相を伝えています。医療関係者は、生涯続く被爆者の健康問題に真摯に対応しています。
来年、私たちは広島市と協力して、世界の2300を超える都市が加盟している平和市長会議の総会を長崎で開催します。世界の都市と結束して、2010年のNPT再検討会議に向けて核兵器廃絶のアピール活動を展開していきます。国内の非核宣言自治体にも、長崎市が強く呼びかけて活動の輪を広げていきます。
核兵器の使用と戦争は、地球全体の環境をも破壊します。核兵器の廃絶なくして人類の未来はありません。世界のみなさん、若い世代やNGOのみなさん、核兵器に「NO!」の意志を明確に示そうではありませんか。
被爆から63年が流れ、被爆者は高齢化しています。日本政府には国内外の被爆者の実態に即した援護を急ぐよう重ねて要求します。
ここに原子爆弾で亡くなられた方々の御霊(みたま)の平安を心から祈り、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。
2008年(平成20年)8月9日
長崎市長 田上富久
毎日新聞 2008年8月10日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080810ddm007040074000c.html
長崎原爆の日:平和への誓い(全文)
あの日、私は9歳でした。当時、長崎市南部の南山手町に祖父母、両親、兄1人、5人の姉妹の大所帯で生活していました。
8月9日、朝からの空襲警報が解除になったので防空壕(ごう)から出て空を見上げていると、友だちが防空壕に忘れ物をしたと言うので一緒に中に入りました。
その時です。突然強い風が吹いて持っていたロウソクの灯が消え、暗闇の中に火の塊のようなものが飛んできました。やがて近所の人たちが次々に駆け込んできて、皆口々に「大変な爆弾が落ちた」と叫んでいました。
私を捜しに来てくれた母はガラスの破片で背中に傷を負っていました。末の妹にお乳を飲ませていたとき、爆風で割れた窓ガラスが背中に刺さったのです。家族の無事を確認しましたが、浦上地区の中学校に登校した3歳年上の兄だけは夜になっても帰ってきません。その日の朝、兄はどういうわけか「頭が痛かけん、学校に行きたくなか」と渋ったのを、父が「なんか男が、頭の痛かくらいで学校ば休むな」としかったのです。
無理に送り出した父の悔やみようは大変なものでした。翌日から毎日毎日、父と母は浦上一帯を捜し、黒焦げの死体や、「水が欲しい」と足をつかむ〓死(ひんし)の人たちの顔を一人ひとり見て回ったと聞きました。結局、兄を見つけることはできず、中学校で焼いたたくさんの死体から骨を一本だけもらい葬式を済ませました。私は今でも、兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないかと思っています。
両親は、ものすごい放射線を浴びていたのです。母は翌年の10月に亡くなりました。33歳、妊娠5カ月でした。父もその4カ月後に亡くなりました。残された私たち姉妹は別々の親戚(しんせき)に引き取られ、ばらばらの生活を強いられました。その後、姉と妹の2人は原爆症とおぼしき病気で亡くなりました。
悪魔の原子爆弾は一瞬ですべてを焼き尽くし、何十万人もの尊い命を奪い、生き残っても後遺症で人を一生苦しめる凶器です。核兵器の廃絶と平和を求める世界の人々の願いとは裏腹に、今なおアメリカなど大国のエゴで大量に保有され、拡散されつつあります。東西の冷戦が終わっても、民族や宗教の違いや貧富の差からくる戦争は現在も世界中で絶え間なく続き、多くの人々が苦しんでいます。
しかし、わが国は戦後63年間一度も戦争をすることなく、一人の日本人も戦争で殺されたり、他国の人を殺したりしていません。これは、多くの人々の犠牲の上に定められた平和憲法のおかげです。私は、この平和憲法と非核三原則を日本のみならず世界中に広げていくことこそが、戦争をなくし、核兵器の増大と拡散をとめる有効な手段であると考えます。
地球上のすべての人々が、
いつまでも平和で豊かに暮らしていくことを願ってやみません。
2008年8月9日
被爆者代表 森重子
毎日新聞 2008年8月10日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080810ddm007040080000c.html
長崎原爆の日:「平和に向かって、微力は無力ではない」/祈念式典出席のダナパラ・パグウォッシュ会議会長
長崎原爆の日の9日、長崎市の平和祈念式典会場に、核兵器廃絶を目指す国際会議「パグウォッシュ会議」会長のジャヤンタ・ダナパラさん(69)=スリランカ=の姿があった。元・国連軍縮担当事務次長。母国は長引く内戦で人命が次々に失われている。ダナパラさんは平和を祈りつつ、長崎の高校生平和大使との出会いを思う。
ダナパラさんは、98〜03年には国連事務次長を務め、98年に初めて国連本部(ニューヨーク)を訪れた高校生平和大使を受け入れた。さらに99年にも、核兵器廃絶を求める署名を受け取った。
その際、ダナパラさんは「軍縮会議の舞台でもある国連欧州本部(ジュネーブ)の方が有効」と助言。高校生たちは翌年からスイスに行くようになった。それが功を奏し、02年にはローマ法王にお会いするなどして、活動をアピールできた。
ダナパラさんの長崎訪問は、98年の国連軍縮長崎会議以来10年ぶり。今月8日には、高校生が平和活動を語り継ぐ集会にも参加した。会場には高校生平和大使OBの姿もあり、ダナパラさんは長崎の平和大使との“再会”を喜んだ。
集会では、昨年の平和大使を務めた男子高校生から「核廃絶の達成に大切なことは?」と質問を受けた。「核兵器廃絶も大事だが、それだけで平和は達成できない。人々の意識を変えることが大切」。ダナパラさんはそう答えながら、脳裏に母国を浮かべた。
反政府組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」との内戦が20年以上続いている。ダナパラさんは国連を辞してから、大統領の特別顧問などとして、LTTEとの直接交渉に当たっている。しかし、05年には共に交渉に取り組んだ外相が暗殺され、LTTE側も和平担当者が次々と粛清された。
集会後、ダナパラさんは「本当に多くの友人を亡くしました」と視線を落とした。
だが、すぐに言葉を継いだ。
「いつか平和は実現する。『微力だけど無力ではない』と高校生に教わりましたから」【錦織祐一】
2008年8月10日
http://mainichi.jp/seibu/photo/news/20080810sog00m040005000c.html
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