『武力で平和はつくれない』(合同出版)より 「竹島」問題は日本帝国主義の朝鮮植民地支配と切り離せない解 説 学校教育と国益主義 「固有の領土」論をふりかざした挑発 七月十四日、文部科学省は中学校新学習指導要領の解説書を公表した。その社会編で「竹島」(独島)の領土問題に初めて触れ、「我が国と韓国との間に竹島をめぐって主張に相違があることにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」と書かれている。この記述は、文科省の当初の方針だった「竹島は我が国の固有の領土」という記述から見れば、韓国側の批判に一定程度の妥協を示したものと報じられている。しかし同時に同解説で「我が国が正当に主張している立場に基づいて、当面する領土問題や経済水域の問題などにに着目させたりすることも大切である」との記述が加えられていることを見れば、あらためて「領土問題」を通じた国家主義を植えつける意図も明確になっている。 すでに韓国政府と民衆からの反発も高まっており、予定されていた日韓の外相会談の中止、「スポーツ交流」や「青少年交流団派遣」の中止などの事態が相次いでいる。 われわれは「竹島」は「日本固有の領土」という主張に反対する。まして「固有の領土」論を振りかざして、国家意識を煽り立てようとする政府・支配階級の意図を厳しく批判する。それは右派言論が増殖させている「嫌韓」排外主義意識をさらに拡大し、日本の朝鮮植民地支配の歴史を正当化する役割を果たすことになる。 以下に掲載するのは、市民意見広告運動編『武力で平和はつくれない 私たちが改憲に反対する14の理由』(合同出版 07年4月刊)に筆者が執筆した「領土問題」に関する文章(「領土は最大の国益問題だ。ロシア・中国・韓国の横暴を制裁すべきではないか?」という主張への批判)の冒頭部分と「竹島」問題に関する記述の転載である。参考にしていただきたい。 (国富建治)「領土問題」は、排外主義を形成していく最大の要因 「国境・領土」問題は、現在でも国家間の深刻な紛争のタネになっています。国境・領土問題の多くが、欧米の植民地支配者がそれぞれの支配領域を取り引きで決めるために、住民の意向とは無関係に恣意的に引かれた国境線によって作りだされたものであることは、よく知られた歴史的事実です。つまり「国境紛争」「領土争い」は、とりわけ19世紀以後の植民地主義の「悪しき遺産」の結果です。「国境・領土」問題は、住民の中に排他的国家意識や排外主義を形成していく最大の要因です。 近代国家が成立する以前、人びとは人為的に作られた「境」を越えて自由に往来し、経済的・文化的な交流を続けてきました。いわゆる「領土」問題は、そこで生活している人びととは本来無縁なもので、人びとを「国家」という支配領域に組み込む過程で発生し、その後も国家意識を強化していくためにに利用されてきたものなのです。現在の日本にも「領土問題」が存在することになっています。「存在する」と主張しているのは政府であり、国民への受けがよいからでしょうか、マスメディアもさかんに取り上げます。 「領土問題」は「最大の国益」であって、すべての国民が立場の違いを超えて一致団結すべきだ、という主張は正しいのでしょうか。正当な「日本固有の領土」という言い分に歴史的。実証的な検討をする必要はないのでしょうか。……韓国が日本を警戒する十分すぎる理由がある……韓国との間で争われている「竹島」(独島)問題を検討しましょう。竹島をめぐって江戸幕府と朝鮮王朝の間で領有問題が起こったのは、江戸時代初期にまでさかのぼります。それは鬱陵島をめぐる領有権に付随してのことでした。 鬱陵島は古代朝鮮の時代には新羅に帰属し、高麗を経て朝鮮王朝の領土とされていました。1417年、朝鮮は鬱陵島が「倭寇」の出撃拠点であることを主要な理由にして、島民を島から疎開させた上で、この島への渡航を禁止してしまいました。これは「空島政策」と呼ばれています。 1617年には、米子の大谷、村川両家が、当時「竹島」と呼ばれていた鬱陵島への渡航を鳥取藩に願い出て、翌年、幕府はそれを許可しています。当時「松島」と呼ばれていた現在の竹島(独島)は、鬱陵島に至る航路の目印として認識されていました。 1696年、鬱陵島の帰属問題をめぐる江戸幕府と朝鮮の交渉の中で、江戸幕府は鬱陵島が朝鮮領であることを承認し、同島への日本人の渡航を禁止しています。この結果、絶海の無人島であった竹島(独島)は、その存在がわすれさられ、明治政府にとっも、現在の竹島の存在はきわめてあいまいな認識に止まっていました。 1904年、日露戦争の最中、アシカ猟に従事していた隠岐島の中井養三郎が、竹島(その時にはリャンコ島と呼ばれていた)の「領土編入」を嘆願したことを契機に、翌年1月の閣議決定で「リャンコ島」を「竹島」と改名して、「他国においてこれを占領したりと認むべき形跡なく」という理由で、島根県に編入する閣議決定を行ったのです。 この日本による竹島の編入については、当時、韓国側にも「竹島」についてのはっきりした認識はなく、韓国領土を奪って日本が併合したわけではないから、侵略ではないという説もあります(注)。しかし、竹島(独島)の島根県への編入が朝鮮半島の支配権をめぐる日露戦争の中で行なわれた事実は、それが「日韓併合」にいたる侵略・植民地支配の1コマであったことを物語っています。 1904年8月には、日本と韓国との間で「第1次日韓協約」が結ばれています。この協約で、財務に関する事項はすべて日本人側の財政顧問の意見に従うこと、外交に関する事項はすべて日本政府の推薦する外国人顧問の意見に従うこと、重要な外交案件はあらかじめ日本政府と協議することを韓国政府は強制されました。 1905年11月の「第2次日韓協約」では韓国統監府の設置が決められ、外交・内政全般にわたり日本の支配権が確立されて、韓国は日本の「保護国」となりました。そして1907年の「第3次日韓協約」を経て、1910年の日韓併合へと一瀉千里に突き進み、韓国は日本の植民地になります。このような状況で行われた日本の竹島領有に対して、当時の韓国が抵抗する手段を奪われていたことは明らかです。 日本の敗戦後、1946年1月29日のGHQの訓令677号で、竹島は「日本から除外される地域」に指定されました。また、最初の「対日講和条約」の草案の中でも、竹島は朝鮮領に含められていました。これは竹島が日本の侵略によって不法に奪取されたという認識を当時の連合国がもっていたことを示しています。 しかし、1951年に調印された「サンフランシスコ講和条約」では竹島は「日本領」とされました。これに対して同条約が発効する1952年4月28日を前に、韓国の李承晩政権は「李ライン」の設置を宣言し、竹島が韓国領であることを主張しています。それ以後、竹島は韓国が「実効支配」する地域となっています。 2004年、島根県議会が竹島が同県に編入された1905年2月22日を「記念」して、この日を「竹島の日」とする島根県条例を制定したことを契機に、「竹島」問題は日韓両国政府の大きな緊張要因となっています。日本政府はあくまで竹島(独島)に対する日本政府の領有権を主張し、韓国の独島「実効支配」を「不法占拠」と主張しています。しかし竹島の「日本領有」の年である1905年が、日本の朝鮮半島に対する植民地的併合への重大なステップであったという歴史的経過と切り離して「日本の正当な領有権」を語ることなどできないのではないでしょうか。 韓国政府が日本の側からする「竹島」問題の領土キャンペーンを、新たな軍国主義化への動きとして警戒を強めることには十分すぎる理由があると言わなければなりません。「領土」は私たちの要求にはない ここまで、「北方諸島」「尖閣列島」「竹島」の三つの問題で、日本政府が現在主張している「領土」問題が、いずれも日本の歴史的な侵略・植民地支配の過去と密接な関係があることを紹介してきました。 いま、こうした「領土」問題が政府によって持ち出されてきている背景には、排他的国家主義や「愛国心」を人びとの間に浸透させ、「日本人」としての意識を「涵養」させようとする狙いがあることは明らかです。それは人びとの間に対外的な緊張と危機感を拡大することを通じて憲法や教育基本法を改悪し、「戦争をする国家」を作りだそうとする攻撃と軌を一にしたものです。また石油やガスなどの天然資源、漁業資源の支配権をめぐる経済的利益にからめて問題を拡大して、「日本の領土が不当に他国によって脅かされている。日本の主権が侵害されている。こんなことでいいのか!」というわけです。 私たちは、日本の「領土要求」に反対です。「紛争案件」とされている「領土」問題を振りかざすことは、民衆間の連帯によって地域の平和を達成しようとする私たちの願いを遠ざけるものになるでしょう。それは侵略戦争と植民地支配を真に反省し、克服するために繰り返し肝に銘じなければならない歴史的教訓なのです。(注)下条正男『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)。同書は「一九〇〇年十二月十五日、鬱陵島を鬱島郡とし、その行政区域を『鬱陵島全島と竹島、石島』と定めたが、その中には竹島の前身であるリャンコ島は含まれていない」から、現在の竹島(独島)の日本領土への編入は韓国領土の侵略にはあたらない、としている。だが歴史的文脈に沿って捉えた時、竹島(独島)の島根県への編入が、日本の韓国併合と植民地支配の中に位置づけられる領土拡張行為であることは明らかである。
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