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2008年07月29日
昭和天皇とマッカーサー
あなたは昭和天皇とマッカーサーが、二人だけで11回も会見した歴史的事実を知っていたか。
しかも、1947年に新憲法が施行され、天皇が象徴天皇となり、一切の政治に関与しないとされた後も、何度もマッカーサーと会って日本の戦後を規定する安保体制をマッカーサーに頼み込んでいた事を。
私は知らなかった。
少なくとも豊下楢彦氏の「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」(岩波新書、1996年12月発刊)を読むまでは。
その著書は、部分的にしか公表されていない昭和天皇とマッカーサーの会見記録を丹念に読み解いて、一つの仮説を立てている。
すなわち、当時の吉田首相と外務官僚たちが必死になって安保条約を「五分五分の論理」で対等のものにしようと粘り強く交渉していた時に、その一方で昭和天皇がマッカーサーと二人だけで会談し、日本をソ連共産主義の脅威から守って欲しいと直訴する二重外交が行なわれていたのではないか、という推論を、当時京都大学の助教授であった国際政治学者の豊下楢彦はその著書で展開したのだ。
昭和天皇の戦争責任を語る時、我々はマッカーサー回顧録で明かされている昭和天皇のお言葉を通説として信じてきた。
「すべての責任は私にある、私の一身はどうなってもいい・・・」と言う例のお言葉である。
そしてそれに感動したマッカーサーが、天皇の免責を信じたと言う事になっている。
しかし、豊下の仮説は、それを根本的に覆すものである。
だからこそ世の中に受け入れられる事はない。
それどころか、作為的に目立たないものにされてきた。
その豊下が、この7月に岩波現代文庫から「昭和天皇・マッカーサー会見」と題する著書を出した。
私はそれを早速読了した。
そして唸ってしまった。豊下の推論がさらに精緻に組み立てられていたのだ。
豊下が前掲の「安保条約の成立」を世に発表した96年から12年の年月が経った。
その間に、彼の研究は更に深められた。
しかもその間に富田宮内庁長官の日記の公表などという新たな資料も出てきた。
そして何よりも安保体制そのものが、いまや日本をソ連共産主義から守る事から離れ、米国の戦争に追従する足かせのごとくなりつつある時代の変遷がある。
米軍駐留に基づいた安保体制の構築は、なによりもまず天皇制の防衛のためであった、その意味で安保体制こそ戦後日本のあたらな「国体」であった、と、豊下はその「はしがき」で言う。
この「昭和天皇・マッカーサー会見」という本は、おそらく豊下の覚悟を固めたライフワークに違いない。
日本国民必読の書である。
しかし私がそう言ってみたところで、何の影響力もない。それどころか、この本の価値をかえって下げるだろう。
そう思ってこのブログで書評を書くつもりはなかった。
ところが、今発売中の週刊文春(7月31日号)の書評欄で評論家の坪内祐三が絶賛している事を知った。
自分は知らなかった。昭和天皇とマッカーサーが11回も会って日本の将来を決めていたなんて・・・と。
坪内のような気鋭で保守派の論壇が、豊下のこの本を書評で取り上げて評価しているのだ。
その事をこのブログで紹介したかった。ただそれだけである。
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