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2008年07月18日
国家権力を甘く見てはいけない
埼玉県で95年に起きた保険金殺人事件の被告である八木茂の死刑が確定した。
最高裁が「巧妙で悪質な犯行」であり、「まったく反省の態度が見られない」として、被告の上告を棄却したからだ。
私は凶悪犯に対する限定的な死刑執行についてはこれを是認する立場である。しかしこの事についてここで議論するつもりはない。
私は世の中には冤罪事件が多く存在するという事を知っている。しかし八木被告の判決に関して、それが冤罪かどうかを論じるつもりはない。
私がここで言いたいのは、国家権力の大きさ、強さ、怖さである。
私は国家権力の誤りを厳しく批判してきた。それは権力そのものが、内在的に巨悪を伴っているものであるという一つの考えを持っているからだ。
それが言い過ぎであれば、権力は濫用におぼれる、腐敗する、そういう特徴を持っている、といい換えてもよい。
だからといって国家権力の全てを否定すると社会は成り立たない。無秩序、無政府状態となる。
そうである以上、国家権力は認めなければならない。
実際のところ国家権力はおおむね正しく使われているに違いない。
八木被告の過去のビデオがテレビで流されていた。犯罪を否定し、警察を侮って悪態をついていた。
しかし、彼がどのようにわめこうが、暴れようが、強がりを言おうが、国家権力はびくともしない。
そして一瞬にして、国家権力は彼の命を奪い取ってしまう。
麻原彰晃にしても、その他のいかなる凶悪犯罪人にしても、彼らがどのような抵抗を続けようとも、国家権力の前にはなすすべはない。
権力の頂点にあった田中角栄でさえも、一瞬にして犯罪人となってすべてを失ってしまうのだ。
それほど国家権力は巨大である。
国家権力を決して甘く見てはいけない。
問題は、国家権力が巨大、強大であるからこそ、国家権力の行使にあたっては、細心の注意が払われなければならない、ということだ。
国家権力の濫用や、恣意的、不公正な適用は、何よりも残酷、非道な犯罪である、と思って、国家権力は国民から監視されなければならない、ということである。
人類の歴史の中で、つい最近までは、個人と権力が一体となって思いのままの政治が行なわれてきた時代があった。
今日の世の中でも、いまだに多くの国において、そのような非民主的な体制にある国が多い。独裁者が跋扈している国が多い。
しかし、問題は、民主主義のチャンピオンとみなされる米国においてさえ、国家権力の不正、濫用、人権抑圧が行なわれているという現実である。
そして、その米国を最良の同盟国と仰ぎ、「自由主義、民主主義」という普遍的価値観を最もよく共有している、と主張する日本において、権力の犯罪、不正、冤罪、隠蔽が後を絶たないことである。
国家権力のすべてが悪いわけではない。むしろ悪は例外的、限定的と思いたい。
しかし、たとえそれが例外的、限定的であるとしても、国家権力の犯罪は、その国民に与える悪が絶対的、暴力的であるがゆえに、決して見過ごされてはならないのだ。
国家犯罪を裁く事が出来るのは、国民であり、その結集としての世論である。
だからこそ国家権力は、その権力を使って、権力に楯突く個人を弾圧し、世論を誘導、情報操作するのである。
我々は、国家権力の不正を許してはいけない。屈してはいけない。
そのためには、国家権力を決して見くびってはいけない。
なんでもかんでも国家権力に楯突いてエネルギーを空費してはいけない。
本当に戦わなければならない時にそなえ、慎重に事を運ばなければならない。
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