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「日本の危険」  絶版
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投稿者 新世紀人 日時 2008 年 7 月 08 日 13:19:14: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡 日本」と同様に衝撃的な著作は今までにも出されてはいます。 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 7 月 08 日 13:15:40)

http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/nihonnokiken.html

日本の危険

1986年6月30日初版発行本体価格1200円+税

絶版

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序にかえて

馬野周二
 その人の専門が何であれ、いささか一事に携わって甲羅を経ると、何だか方事に通じる「感」のようなものが育ってくるもののようだ。本書の共著者の藤原氏も私も、以下を読み進まれればおわかりのように、科学技術者である。外国で活動してきたという点も同じだ。
 ところが八○年代末から今世紀末にかけて、日本も含めて世界的な社会的、経済的危機の様相が迫ってくるであろうという「感」も共有するようになった。そこで、われわれの前歴からくる世間一般の人士とは異なった、その危機構造の科学的分析、言うなれぱわれわれなりの「鑑」を開陳して成ったのが本書である。
 わが国では対談は出版社から歓迎されない。つまり読者からあまり要求されないから、販売部数が伸びないせいである。本書も両者が別々の本を書いた方が、おそらく部数は伸びるであろうが、あえて対談を本にするのは、対談という形式が待つ特別のメリットがあるからだ。
 何もわれわれを古代ギリシャの先哲に比する不遜を冒すつもりはないが、彼らの遣した書物は多く対談形式をとっている。それが論理の展闘を示す最善の形式と思ったのだろうし、実際にその対話のあるものは現実に行なわれたものなのかも知れない。文章を書くとなると、どうしてもいろいろの願慮が働き、頭の中にあることを十分に表現することにはなりにくい。対談であれば、多くの「失言」が出るわけで、はなはだ自然な成り行きとなる。本書でも髄所に、少なくとも私の場合は、裃を脱いだ放談が顔を出す。
 しかも対談には、それでなければならぬ一つの垂大なメリットがある。対談は1ブラス1イコール2ではなく、丁丁発止のやりとりの中から、三にも四にもなる結果が現われる。対話の面白さと意義はそこにあるのだが、残念ながら本書ではその佳境にはまだ遠かったようだ。それにしても、普通の書物には見られない卒直な発言を、読者は聞かれるであろう。
 本書を題して「日本の危機」とする。丁度けさの新聞に一雑詰の広告が出ていて、高名な一評論家が「日本のマネーブームと世界恐慌前夜----一見華やかな現在の日本の状況は、世界大恐慌直前のアメリカに酷似している」というのを書いているようだ。どうも私はこんな子供向けの雑談は読む気もしないので、彼が何を言わんとしているのか知る由もないが、かつての「油断」騒ぎにくらべれぱ、この方がまだしもまともなのかも知れぬ。
 『石油危機の幻影』(昭和五十五年二月刊)以来の私の著書を丹念に読んで来られた読者がいれば、私が今日の成り行きを早くから警告していたことを、身に泌みて感じておられよう。
 本書は言いたいことを言う趣旨だから、はっきりと告げておくのだが、現在の日本のマスコミの表面で泡沫のように漂っている人士の言説には、取るに足るものはほとんどない。百害あって一利なきものが大部分と言ってよかろう。
 大方の読者が携っていられる事業なり企業活動は、真剣勝負である。ヤワな袍沫評論家達の書きなぐり、言いつのる愚かな言説を聞いていてはならぬ。あなた方をとり巻く日本と世界の状況は、きわめて厳しいものになっていく。いいかげんで目を覚さなければひどいことになろう。
 今時のわが国には「先生」と言う不思議な人種がいる。いるどころか蔓延していると言ってよい。この人種がいろいろな誤ったことを喋り散らす。一般の人達はこの現象を当り前と思って、空気のように呼吸して有難がっているのだが、これは正真正銘の毒気である。目には見えないが、こんな毒気を常日ごろ吸っていると、頭がおかしくなってきて、いずれブッ倒れることになろう。要心してもらわねぱならない。
 日曜日の朝には、テレビに老人と中年男の対談が掛かる。社会勉強と思って私も時析りは見るのだが、これでいつも思い出すのは戦時中の漫才である。そのころの統制官僚たちは、高級な演劇は精神総動員と称して止めさせてしまい、代りにやくたいもない政府宣伝の慢才を全国に打って回らせた。四人組時代の共産中国と同し手口である。
 現代日本の先生方がやっている日曜朝のテレビ対談は、これらと変わるところは何もない。漫才や江青演出劇も、もっともらしい時事論説も、そのほか大方の先生方の言いつのり、書きなぐる排泄物は、いかなる外衣をまとっていようともしょせんは子供だましである。
 彼らが無心であればまだしも救いはあるが、自ら時の権力----米国CIA、ソ連KGBを含めて----の幇問に成り下っている者も決して少なくない。彼らがそれでも良い生活が出来るという責任は、読者、聴視者であるあなた方自身にある。テレピ番組や新聞雑誌が、どれだけの無用な金銭を消費し、世俗に毒気を撒いていることか。はっきり言えば、あなた方はコケにされ、先生方に時間、すなわち金銭を盗られているのだ。本書はこの現代日本社会の毒気を、いささかでも中和しようという、われわれの切ないあがきでもあろうか。
 数万年の歴史的、地球的環境から、日本人は他国人に比してまったく異なったメンタリティーを持っている。異なっていると言うのは、別に特殊なのではない。逆にわれわれは、人類としてもっとも普遍的で、始源的な性格を、今日でも濃厚に保っているのだ。ところが日本人以外は、大小深浅の差はあれ、他人種、他民族、他国家と膚接して育ったために、その性格に陰影と屈折が生じている。
 両者の是非、善悪を論じることは意味がない。それは自然、必然の地球的な時空のプロセスとてそうなっているのであり、今日のわれわれはそれを与件、あるいは初期条件として甘受し、そこから出発するより外の立場はありえないのだ。
 二十世紀後半の今日の技術的発展は、悠遠の過去から続いてきたこの日本人の孤立的自然、社環境を急激に突き崩しつつある。情報地理的環境は速やかに変わってゆくが、日本人の社会心は急には変わらない。陰影と屈折というのは、下世語に言えば、海千山干と言うことである。たとえぱ現在の日米関係は、譬えてみれば、強姦男と、それに引き回され貢がされているおぼこ娘と言ったところか。
 無残なのは、この娘はひどい目に合わされていることがわからず、男の心を露疑わず、無駄使い首が回らなくなったこの男に入れあげていれば、いずれ誠意に感じて十分期待に応えてくれるのと信じ込んでいることだ。日本政府の代表者中曽根首相などは、このおぼこ娘の代表者であ。この人物は政治的野心に捉われているために盲目となり、見るも無惨な情況に陥っている。
 中曽根首相の有体は、米英支配層の買弁であり、米英の対日政略のために、日本に送り込まれいるトロイの木馬に外ならない。
 こう言ったからといって、何も私が異心を抱いて中曽根氏をむやみに貶しめているのではない。すでに欧米の識者がそう見ているのだ。たとえば東京サミット前の外国記者座談会で、イギリスBBC放送の記者ウィリアム・ホーレー氏は次のように発言している。

(英米は)自分たちの要求を通すため「中曽根さん、あなたは立派だ。頑張って」と押すわけです。中曽根さんは日本に送り込まれたトロイの木馬だ。(朝日新聞、昭和六十一年四月二十六日夕刊)

米英の記者としては、これは不用意な発言だったろうが、東京サミット前にカナダに行ったり、レーガンにキャンプ・デービッドで破格の取り扱いを受けたりして、サミットの切り回しは自分一人で背負い、米国に男を売るつもりであったろう中曽根氏は、蓋を開けて見てびっくり、お膳立てはすべて米英両国の間で出来ており、自分の出番は何もないどころか、ひどい円高を飲まされ、おまけに「相互監視制度」という、事前に何の相談も受けていなかった重大条件を飲まされるハメに陥った。
 レーガンはウスラ笑いで、日本国首相を突き飛ばす役はサッチャーに振り当てられていた。中曽根氏はコケにされ、その後に予定されていた各党首会談にも「中曽根首相はうちひしがれていてとても会談に出席できる状態にない」(日経、四月十五日)という有様である。キャンプ・デービッドでの扱いは、殴る前にちょっとでも頭を撫でておいてやろうという、いずれ退陣を予期しているレーガンの、せめてもの思いやりと見るべきか。
 米国支配層の精神的特徴は、人を騙すとなると、じつに水も洩らさぬ周到な事前準備をすることだ。サミット前、「東京サミットでは何らかの円高の歯止めがされる」という情報が流されている。ホワイトハウスは中曽根訪米に、キャンプ・デービッドでの大統領接待をした。これらはサミットでの中曽根甘っちゃりの根回しであった。彼らは中曽根首相が円高に抵抗して、会議でゴネ出すかも知れぬことを恐れていたのだ。彼にそんな背骨があれば見上げたものだが。
 可愛想な中曽根サン。
 サミット後、間髪を入れず英国のチャールズ皇太子、ダイアナ姫が来日した。これも水際立った騙しの術である。悪役を買って出たサッチャー英国首相への悪感や、円高ショックを日本国民の目からそらし、新聞紙面をサミットの記事から遮蔽するために、チャールズ、ダイアナは使われている。英国王室の存在価値はそこにあるのだから。
 チャールズ皇太子はそのことを十分知っている。彼はいやいやながら来日して演技したのだ。日本に来た彼の表情は堅かった。大阪空港からの車に浩宮が同乗しないのかと彼は心細そうに訊ねている。サミット不満、サッチャー憎しで暗殺の危険があるために、日本政府は皇孫の同乗を止めたのだろうと、彼は考えたはずだ。それが欧米人の常識である。
 レーガンと対等で、シュルツなどよりは上座になったと思い上っていた中曽根氏は、思っても見ないサミットでのシゴキに、非常に落ち込んだ。英国皇太子夫妻の歓迎宮中晩餐会にも欠席している。急に腹でも痛くなったのかも知れないが、目立ちたがり屋のこの人が出席でさない腹痛は、非常な神経ショック症であろう。
 中曽根氏はこれからどうするのか。
 米国支配層はいま中曽根首相の行動、日本政界の動きを、ジッと窺っている。騙し、蹴り上げた中曽根が、腹を立てて自ら辞職するか。首相の位置に恥も外聞もなくかじり付くか。日本の政治家が中曽根を袖にするか。そのまま凹んでしまうか。日本の政治家と国民の資質がいま問われているのだ。
 これから衆参両院のダブル選挙が行なわれる。表紙カバーの写真はそれをもじった帽子を被った首相だが、自民党は円高不況風が吹き込んで、議員数が減少するのを恐れて衆院解散に踏み切ったわけだろう。それは良いとしても、中曽根三選はよしたほうがよい。
 中曽根氏は町人である。日本国民もまた、通産省高官の「町人国家論」といった聞くに耐えない妄言を、マスコミが担ぎ回っても平然としている。似たもの同士で、なるほど中曽根首相の支持率が高いわけだ。
 今日の米国を動かしているのは、貧弱な日本国首相の頭で渡り合える手合ではない。戦前の、それなりに今日よりははるかに立派だった大日本帝国を、手玉に取って大平洋戦争に誘い込み、原爆を二発食らわした悪者どもの後裔である。生やさしい連中ではないのだ。
 中曽根氏には日本人としての性根が欠けている。靖国参拝とか自衛力増強をいくら力んでみても、それは関係がない。上州の材木商の息子、秀才の東大出高文合格の内務官僚は、本当の胆玉と教義を持っていない。そこでレーガンに阿諛してみたり、英語を使ってカッコを付けてみたり、外国人と立ち交わって得意になっている風が醜い。
 日本の首相であれば、少なくとも英語は自由であってほしい。そのうえ、独仏語のいずれかが読めるくらいの語学力は必要だ。だが、公式の席で外国語を使ってはならぬ。フランス人もソ連一人もドイツ人も、公式の席で外国語は使わぬ。中曽根氏は六十半ばをすぎて、いまだに軽薄才子ではないのか。
 服装、態度は隙なくととのえる。だがこの人物は全くの田舎者だ。西洋文明は優れている、西洋人は偉い、彼らと対等に立混りたい、この辺がその心事であろう。
 私はむやみに人を批判するものではない。この中曽根式西洋崇拝、アメリカイカレが日本に及ぼしている惨害に、心が痛むからである。今の日本の物心両面の軽薄なアメリカ化は、中曽根首相登場以来急速である。日本人はてい順にエライ人を見習うのだ。いろいろの面で、これは日本を心の内面から打ち壊しつつある。
 日本の文化と社会は、アメリカなどとは比較にならない、本源的に高度なものである。どうしでそれが、この学校秀才にわからないのか。
 以前に首相であった鈴木さんも、大平さんも、私は好きである。池田首相は偉かったと思っている。田中首相さえも私は弁護してきた。だが東条と中曽根首相だけは、彼らが出現した途端、私の心に突きささるものを感じた。一昨年暮から、私は中曽根首相に、なるべく早くおやめなさいと言ってきている。東条と中曽根両人の像が、私の眼底に二垂写しになるからだ。
 中曽根首相は早く退陣する方が日本のためにも、本人のためにもよい。もし彼が手練手管で延命を計ってゆけぱ、大変な事態が起こりかねない。彼の歴史評価は東条をはるかに下回ることになる。
 本を書く冥利と言えようか、私のところには読者からいろいろ手紙が来る。たいていは返事を出すが、その中には居所不明で返ってくるものもある。それらはきまって、米国はこういう陰謀を日本に仕かけている。これをあなたの筆で日本国民に知らせてもらいたい、とする趣旨のものだ。そんな方々の純真な気持ちを私は尊重するのだが、最近来たものの一つを次に掲げておこう。

 馬野先生にお便りをするのはこれが二度目なのですが、前回の手紙が届いたかどうか自信がありません。(注・この手紙は出版社経由だったので心配をしたのだろう。その手紙は頂載している)前回の手紙の趣旨をまず繰り返させていただきます。
 『アメリカ本自由通信』松浦南司著・同友館刊
 『ウオッカーコーラ]チャールスーレビソン著・日本工業新聞刊
 『ロックフェラー帝国の陰謀』G‐アレン著・自由国民社刊
 等々の本を是非御一読下さい。これらの本には、アメリカ支配屈の総司令部、外交問題評議会(注・第四部のThe Council for Foreign Affairsのこと、ただしこれは現在ではすでに公然機関になっていて、伏魔殿は別にある)とロックフュラー財閥の実体が描かれています。
 馬野さんや藤原氏がお気付きのように、アメリカエスタブリッシュメントは、日本をそっくりそのまま乗っ取って、アメリカ資本の支配下に置いてしまう戦略を開始しています。TOBよる日本乗っ取りこそ、アメリカ対日戦略の本番です。
 アメリカはすでに日本国内のCIAエ−ジェントや、ロックフェラーが主宰する}二極委員全を使って、日本国内でも日本乗っ取りの布石を着々と打っているのです。
 行革の目的は日本の景気を悪くするというよりも、米国が日本に「再進駐」しやすいような環境作りにあります。NTTを民営化してIBMのネットに取り込む。反米勢力である国鉄、三公社の官公労労組の力を弱める。農地を自由化して穀物メジャーによって日本の生命線を押さえる。官僚組織を攻撃して米国のような企業支配型社会に日本を変えていく。
 その後に来るのがTOBです。
 ロックフェラーと外交問題評議会は、日本を単に叩くのではなく、米国の体制の中にそっくり吸収しようと考えているのです。つまり米国の産業ソフトによって、日本産業のハードをそっくり支配下に置こうというわけです。
 レーガン大統領は外交問題評議会ではなく、それに反対するニューライト・グループの首領です。しかしブッシュ、シュルツ、ベーカーといった連中はすぺてロックフェラー直属の部下てすので、レーガン政権も内部はこの外交問題評議会に蚕食されていることになります。レーガンが権力の座を退ぞいて、ブッシュが大統領になり、ロックフェラーの大番頭であるキッシンジャーがふたたび権力の内部に復帰する峙が、米国の日本吸収策が発動される時です
 米国の支配層が夢見る日本とは、米国と統合され、事実上そのマスコミと主要産業が、ロックフェラー財閥の支配下に入った国なのです。そしてその移行は日本国民がほとんど気付かないうちに行われるかも知れません。
 ある著名な出版社、新聞社、通信社はCIAコネクションに通じるメディアで安全であると日本人に信じこませようとしています。これが彼らの手なのです。
 日本は早くあの中曽根という売国奴を叩き出して、ロックフェラー財閥との戦いに備えないと、えらいことになります。今は目醒めた人間が全力で警鐘を打ち鳴らさねばなりません。
 馬野さんは教祖的影響力と大局を透視しうる能力を待っておられます。小学館、光文社等のCIAの手が入っていないメディアを舞台にして、日本人に警告して下さい。(以上昭和六十一年五月九日受取分)

 馬野周二先生に再三お便り申し上げますのは、私の抱いている危惧を本当に理解していただけるのは馬野先生以外にないと考えるからです。
 米国の支配者はロックフェラーと外交問題評議会は、空洞化した米国の生き残りを計るために、日本を吸収し、属州化する計画を進めているのです
 現在米国に横行している日本アンフェア論は、日本に政治的圧力をかけるために外交問題評議会が煽動したものです。
 彼らはまず、日本に対して市場開放の圧力をかけて、TOBと穀物メジャーによって日本の情報と食料を押さえることを狙っています。行革と「第二のマッカーサー改革」と言われる日本改造計画がそれで、これは日本国内の日米欧三極委員会のメンバーとCIAエ−ジェントが、米国からの外圧と呼応して日本を米国支配下に組み込もうと策動しているのです。ゲーリ−・アレンによれぱ、外交問題評議会は日本と極東の産業を乗っ取るために、第二の恐慌を準備しているらしいということです。
 最終的に彼らが考えているのは、日本に対して経済政策、金融政策で主権を放棄させ、日米の通貨を一つの単位に統一することだと思われます。これが米国の産業ソフトで日本の産業ハードを支配する、外交問題評議会の目標です。
 そのために彼らは日本を米国にさらに強く結び付け、アジアと切り難す政略をとってくるものと思われます。この戦略が完了すれば、日米韓がひとつの経済圏として、米国資本の下で統一されることになりますが、これは日本が民主主義的主体性を失って、米国なみの暗黒国家になることを意味します。
 私の考えでは、これを防ぐ方法は二つあると思います。一つは日本がみすみす全をドブに捨てるような米国への投資を止めて、日本国内での投資を増やすことです。そのためにはCIA政権である中曽根政権を早く叩き潰さねばなりません。
 第二には円を決済通貨とする「日経済圏」を西太平洋に作ることでしょう。必要ならば中ソを入れても良いと思われます。日本が米国の日本吸収戦略を打ち破るには、これしか方法はないと思います。馬野先生はどうお考えでしょうか。
 いずれにせよ激動と日本の危機は追っています。その以前に再びお考えを世に問われるようお願いします。 (以上 昭和六十一年五月二十一日受取分)

 この手紙の主は比較的若い、純真な人と思う。民間企業に勤めている人ではないようだ。なにぷん住所姓名がわからないので返事を上げられないが、内容は本書の読者に打って付けと思われるので、ここにそのまま掲げて、次に返事の形で、私の見るところを述ぺよう。

 四度もお手紙を載いて誠に有難く存します。ただ手紙には必ず自分の姓名、居所を明らかにするのが礼儀であることを忘れないように。さもないと、世に憚る特定の集団に属している人が何かの意図を持って書いたものではないかと思われて、かえってあなたの目的に合わなくなります。
 さてお知らせの三書はよく読んでいます。Gアレンの著書をすいせんした反ロックフェラーのローレンス・マクドナルド下院議員は、大韓機事件で亡くなりましたね。この機にはニクソン元大統鎖も予約していたのですが、直前になって他の便に変更したという話もあります。大韓機事件が、やらせであった可能性が高いことを、私は『アメリカは信頼できるか』で主張しています。新しいところでは、チェルノブィリ原発事故は西側機関の仕掛けた爆発物によるものという説も巷間にあるようです。逆のケースは、ソ連・ブルガリア系統のアリ・アガによるローマ法王暗殺もあります。ケネディー暗殺の黒幕は誰れだったのか。
 いざという時に、日本の原発がCIAなりKGBの手先によって内部から爆破されたらどうなりますか。あるいは東京湾に入ってくるLNG船の場合も同様でしょう。
 石油危機、原子力エネルギー、石油暴騰落、円ドル交換率の急変動、すぺては、その時々の状況を巧妙に利用した米国支配層の拵らえものでしょう。私は『石油危機の幻影』以来十数冊の本で、それを指摘して来ているのですが、正直な日本人は、そんなことを聞くのさえ嫌なのてす。日本人と言うのは、そういったことに対する感受力がありません。与えられたものを一途に信じ込んで、正確に守り伝えようとするのです。いじらしいものですね。
 一つ真に驚愕すぺきことをお話ししましょう。
 古事記、日本書紀と言えば「日本人と日本国家の根本聖典です。ところがこれらは完全な帰化人(あるいは当時の百済CIA KGB)の造作物と断定してよろしい。以来千数百年、誰れ一人これらを根本的に疑った学者が出ていないのです。日本の伝統を護持すぺき神職が、今日でさえも記・紀の神聖をその存在の依りどころとして墨守している有様です。
 記・紀の約百年前に、「先代旧事本紀」というものが作られたのですが、これは漢文で書かれた史書としては、もっとも浩瀚なものです。ところがこれがすでに完全に造作史です。ではなぜこんな恐るべきことが行なわれたのか。
 理由は簡単です。時の権力者、旧事記の場合は蘇我馬子とその甥、聖徳太子の命令によるのです。もちろん当時は事実を知る人は多かったでしょう。しかし彼らは力で沈黙させられた。当時の排仏、崇仏の裏面には、この問題が潜んでいます。日本最古の歴史文書を保待して来たのは皇室と物部氏です。馬子と太子は外来のシナおよび仏教思想、そしておそらく三韓貿易による経済力を背景にして、外戚政策によって皇室を、武力によって物部氏を征圧し、日本国家を横領しようとした。
 日本の本当の歴史書の存在は彼らの野心にとって邪魔なのです。そして物部守屋の滅亡を眼前に見た他の家の人達は、目を閉じてしまい、記・紀が金科玉条となって今日に至っている。旧、記、紀に書かれた古代日本は、まったくお伽ばなしの世界に作りかえられ、低劣、蒙昧な神話の世界に塗り込められてしまいました。よくもこんな出鱈目をイケシャーシャーと書けたものだと、変に感心させられるくらいです。当時の百済人は詐騙の天才を持っていた。
 そのことは以来干数百年、民間に匿され埋もれてきた、皇室系統と物部系統の古代史書が、戦後になって明るみに出て来たことで、古代の実態が明らかになってきました。たとえば女神にされてしまっている天照大神は、じつは十三人の后姫を持つ天皇でした。晩年は長く伊勢に居住しています。今日の伊勢宮はその住居跡です。
 この七世紀の事態を今日に引き写すとどうなるか。外来の思想に心酔し、外国との経済関係深入りして物心とも虜にされ、おおみたからとして大事にされてきた民衆は奴隷化される。私の『日米最終戦争』の表紙の絵をとくと御覧下さい。この日本人も、昔の百済人や今日の米英支配層のような本心からの悪党ではありません。日本の社会で育てば、悪党にはなれないのです。しかし権勢欲という魔物が心中に巣食い、事物を的確に透視しうる能力がない人は、知らずに悪党の走狗になる。
 米国支配層の考えは、いくら勘ぐっても過ぎることはありません。牛肉を買え。しからばその中に含まれている女性ホルモンの量を監視すべきです。米国下層階級の青少年は近年無気力になってきたといわれています。現在の米国では体のよい給食所に変わりつつあるハンバーガー店で食べる牛肉の、飼料に入っている女性ホルモンのせいであるというのです。これは米国で問題になっています。
 コーラ類のガブ飲みが、下層米人をむやみに太らせている。だが日本の食料品検査当局が、その中の徴量成分をチェックしているか。
 あなたのいうソフトな手段による米国資本の日本企業乗っとりは、もちろん彼らの主要な作戦です。そして実際に発動してくるでしょう。だが私はそれは結局無理と考えます。経済は複雑な生きものですし、本書の第四部に見る太平洋戦争の時のように一刀両断にはゆきません。彼らの作戦は、どうしても途中で馬脚を表わして来ますし、日本人の集合的頭脳には、彼らの傲慢な少数者の力では結局勝てないでしょう。
 もちろん倣慢は姦智を生むものです。決して油断すべきものではありません。しかし最も大きい問題は、アメリカ思想、すなわち拝金主義、物質主義の濔漫による日本人の精神的墜落です。これこそが、本当のトロイの木馬であり、獅子身中の虫でしょう。
 最後に一つお手紙で気になるのは、あなたが国鉄三公社の労組に言及されていることです。日本の最終的な力は、いま言った日本人の精神的純粋さをあくまでも保持することと、他の一つは産業の健全性、生産性を常に上昇していくことです。国鉄にせよ三公社にせよ、今まで政府、国民に甘えた、きわめてルーズで非能率な組織でした。現在の状態は、この弱点を米国に衝かれているのです。自らを改革し得ないものは、他力によって潰されるし、その弱点に楔が打ち込まれます。黒船の時の徳川幕府のようにね。
 太平洋戦争でも、重臣、軍の無能と思い上がりが、ルーズベルトの罠にかかる原因を作ったのです。では御気嫌よう。

 右の手紙の中で、私は“日米最終戦争”における最終的楽観論を述べた。読者の大部分は、米国の善意、その社会の健全性、そしてその産業力の強大について、疑いを持ったことはないであろう。それが大きな錯覚であることを出来るだけ早く気付くことが、あなた方にとって大いに大切である。
 一般の日本人は、アメリカとアメリカ人を根本から取り違えている。「敗戦と占領軍の恩恵によって、今目の平和で繁栄した日本の社会がある。あなたはなぜその立派なアメリカの悪口を言い、レーガンと協力してうまくやっている中曽根さんを非難するのか。何かアメリカに個人的な怨みでもあるのではないか」と考える人もあるかも知れない。
 私は善良な一般のアメリカ人に対して、親愛の情を持ちこそすれ、何のわだかまりもないし、米国に対して何の意趣があるわけではない。それどころか、多少の金銭的基礎を与えてくれたことに、非常に感謝しているのだ。
 私の米国に対する厳しい見方は、彼らの中に巣食っている一握りの支配屈の思想と行動が、世界人道に反しているところに由来する。それは、図らずも第四部で紹介するドール大佐のそれと同じである。彼らの目指すところは、自国民と世界を奴隷化することであり、米国の第二ローマ帝国化である。私は一個の日本国民として、また世界市民として、これを座視することはできない。
 米国支配層はその利己的哲学によっつてアメリカを腐敗させた。(『アメリカ帝国の大謀略』)その毒手はいまや日本に及ぼうとしているのだ。
 私に森山秀雄さんという、未見の読者がいる。手紙での自己紹介によれば、この方は東京外国語大学を出て、青雲の志を抱いて南米に移住された。以来二十年、今日では南米全域で手広く商売をする商社を経営されるようになった。南米雄飛の夢は、そのまま正夢として成就したわけである。
 この森山氏が最近本を出された。その一部を左に引用しよう。なるほど事業は考えどおり成功された。しかし二十年前と今日では、南米と日本の関係はまさに逆転してしまった。これは同氏の力の範囲外のことであり、不可抗力である。貧弱であった日本を飛び出して、機会も資源も豊な南米で思い切り腕を振るおう。そして成功者として十分の資産を手にして、ゆっくりとした老後を故郷の山河で送りたい、これが森山さんの人生設計ではなかったろうか。
 その人生設計はこの二十年のうちにどう変ったか。

 実体をありのままに見つめるのは、非常に勇気の要ることです。見つめるべき実体が自分の願望に反している場合には、よりいっそう大きな勇気が必要です。事実を正確に見つめることが恐ろしいが故に、人はとかくそれから目をそむけたり、成いは無理に反対材料を見つけて、自分で自分を納得させてみたり、或いは希望的観測を拡大させて、自分を安心させてみたりしがちです。
 しかしいくら事実、実体を見まいと努力しても、或いは自分で自分を納得させてみても、それによって現実が変るわけではなく、成るようにしかなっていかないから、ハッと気が付いた時には時すでに遅く、否応なく現実に呑み込まれて大きな悲劇を生来する、ということにもなりがちです。
 私の学生時代、昭和三○年代は、アメリカが世界の技術を独占して、政冶、経済、文化、軍事等、あらゆる面において圧倒的なスーパー・パワーでした。そして、広大な国土と、天然資源、食料に恵まれる南米は、アメリカの裏庭として未来の大国を約束されているかに見えました
 当時の日本は、高度経済成長の真最中でしたが、技術的には欧米の模倣で、資源と資料に乏しいアジアの貧乏国にすぎませんでした。
 私が南米に移住した一九六六年当時、大卒の初任給は二万五千円程度でしたから、当時の為替レート三百六十円で米ドルに換算すると、僅か七十ドル足らずでした。こういう状況でしたから、私がブラジルへ移住する際に寄港して初めて見た外国、ホノルルとロスアンゼルスの豊かさには、ただただ圧倒されるばかりでした。私といっしょに移住した数十人の中には、技術系大卒の青年達も何人かいましたが、ブラジルの会社と就職の契約をしたこうした青年達の給与は、米ドル換算五百ドルに達していました。五百ドル、すなわち十八万円の給料とは、当時の日本では大会社の部長でも得られなかったのではないかと思います。
 当時のブラジルはコーヒー生産に依存した完全な農業国で、工業製品はほとんど輸入に頼る典型的な後進国でしたが、それでも、衣食住に関する限り、非常に豊かでした。ブラジルに住む先輩移住者が、「ここに居ると毎日の食事が正月みたいだ」といっていたのを覚えています。
 五年間ブラジルに滞在して、一九七一年四月、初めて訪日した時、日本はまだ物の安い国でした。帝国ホテルに泊まっても一泊三千円、ルームサービスの朝食でも四百五十円で、千ドル三十六万円は非常に使い手のあるお金でした。そして羽田空港から都心に向う車の中では、自分の国に帰ってきたという感激よりも、「日本はなんとまァ、ゴミゴミした所なんだろう」という実感の方が強かったくらいです。
 しがしながら、一ケ月余り日本に滞在してブラジルに戻った時「そのうち南米に住む日本人の移住者達は、移住したことを後悔するようになるだろう」と考えるに至りました。それはどうしてかというと、南米は衣食住に関しては大変豊かではあっても、貧富の差は非常に激しい上、今日の金待ちも明日は乞食、明日の乞食もあさっては金持ち、といった具合で、富の移動が激しい所です。私が目にした五年振りの日本は、それほど豊かではありませんでしたが、高度経済成長の結果、社会全体、国民すべてが、一様に、上げ底式に高度化している様子を観察できたからです。
 一九七三年一月、第二回目の訪日をした時、私はブエノス・アイレスに住んで一年半たっていました。南米のパリといわれたブエノス・アイレスに住み慣れた私の目には、東京でさえ野暮な田舎町としか映りませんでした。
 あれから十三年経ちました。南米諸国は、年問一千%を超えるインフレで、お札にはゼロがどんどん増えるため、数年おきにこれを四つ削ったり、三つ削ったり、あるいは呼称を変えてみたりのいたちごっこです。ボリビアでは札束を目方で測る始末です。道路に穴があいても、信号機が故障しても、電話やテレックスが通じなくても放りっぱなしです。新しいビル建設もないため、南米のパリ、ブエノス・アイレスは荒ぶに任せるといった状況です。
 ブラジルでもアルゼンチンでも高等教育を受けても職がないため、わざわざ大学で勉強しようとする青年達も少なくなっています。たとえ運よく職にありついても、月給五十、六十ドルです。私といっしょに移住した大卒の技術者達は、もう四十代半ばを過ぎていますが、二十年前、五百ドル相当の給料をもらっていたのに、現在の給料は四百ドル程度にしかなりません。職を求めてオーストラリアや欧米にもぐり込む育年達も増えています。
 アメリカは自国の裏庭、南米人に対するビザの発給はたとえ観光目的でも、厳しくチェックしています。がそれでも、米国のビザを入手するためにできる領事館の前の行列は、長くなるばかりです。職がなく、たとえあっても収入が十分でなけれぱ、治安が悪くなるのは当然です。昼間でさえ安心して歩ける町は少なくなりました。
 将来に希望の持てない時、人の心は屈折しますが、多感な青年達にはこれが強く現われます。青年達が左翼思想に安逸を見い出し、あるいは付和雷同的にこれに加わって、破壊活動に走ったとしても、その心情は理解できるように思われます。
 一方、日本は、今や押しも押されぬ経済・技術大国。大企業の部長クラスでは年収一千方円超は普通です。ブラジルやボリビア、ペルー等、日本人移住者の多い国々からは、日本に逆移住したり、出かせぎに行ったりする現象が生じています。一九七一年、私が初めて日本に行った時感じた事が、僅か十年余りで現実となってしまったのです。
 一九七三年一月以後、私は、年に一〜二度は訪日したほか、東南アジア、ヨーロッパ、米国にも何度も出かける機会がありました。日本を中心に世界中を断片的に観察しながら考えたのは、一九七三年秋の石油ショックが、世界を根底から変える引き金になった、ということで−す。東京の街を行きかうビジネスマンの態度や車の走行に、おちつきとゆとりが表われ、女性のファッションや服装に余裕がただよい、東京の街全体とたたずまいが、何となく潤いのある“本物”になりつつあるナァ、と感しられるようになったのは、一九七五年以降のことです。日本が、安っぽく薄ぺらなニセ物の国から本物の国に転換を始めたのです。その後は加速度的にこうした傾向に拍車がかかり、日本の本物化が進行しています。
 一方、陽気で快楽指向の強い中南米に、米銀を中心に世界中の銀行が先を争って金貸し競走を演じたのは、一九七六〜一九八一年のことでした。中南米にどれだけ多く貸し込むかが、バンカーの腕の見せ所だったのです。長年南米に住む私はいったい先進国の銀行は、どうしてこんなに気安く貸し出せるのかと、不思議に思っていたものです。中南米の累積債務は今や五千億ドル。ちょっと冷静に考えれば、必ずしも統治能力があるとはいえない中南米の末熟な国々に、このような大金を貸し込んだということは、合埋的に説明のつく事態ではありません。産油国も米銀も瞬時のうちに、それまでに経験したこともない巨額の資金を手にしたため、短期間にこれをうまく運用する冷静な判断に欠けていた、としか考えようがありません。
 しかしながら、今となっては覆水盆に返らず。輸入を徹底的に抑制して生活レベルを下げて、辛うじ゛て生みだした貿易の黒字をもってしても、毎年の利払いすら満足にできない状態です。元本など返済できるわけはないのです。そして今以上の緊縮政策は、社会不安を増崇させるだけでしょう。経済的手没をもっては、累積債務問題は絶対に解決しない、と断言してよさそうです。全世界的な、何らかの政治的手投によって解決する方法は、残されているとは思われますが、しかしこれが成功したところで、現在の状況に根本的な変化が生ずるわけではなく、したがって南米が未来の大国であることはもうないでしょう。少なくとも我々の世代、子供達、いな孫達の世代においてすら、南米が浮上してくることはないと思われます。
 世界のビジネスと発展の中心は、今やニューヨークからカリフォルニアヘ、さらに東京および日本周辺のアジアの国々ヘと、移動してしまったのです。多分、南米は今後、世界でも最も地盤沈下の激しい不安定な地域となり、国際的なお荷物となることでしょう。南米に半生をかけた私としては淋しくも思いますが、現実は正しく認識しなければなりません。

 この文章を読まれて、読者は森山さんが非常に聡明な方であることは直ちに理解されようし、南米の実情についても正しく会得されるであろう。が、この明敏な森山さんが、なぜ目算ちがいの人生を歩まれるに至ったのか。彼の聡明をもってしても、どうして今日の事態が、二十年前に読めなかったのか。
 森山さんよりも五、六年早く私も米国に渡った。ただし私の場合は長期にそこに住む気はなく、ただ海外経験を得ること、そして有体を自状すれば、金を貯めるためであった。しかも私には当時すでに、この国に対する強い違和感があり、米国とその社会を深い批判の目で見ていた。したがってこの国のアラには人一倍注意していたわけである。当時の日本人は、完全なアメリカ心酔の状態にあり、私のような者はおそらく希であったろう。
 私が一般の日本人とちがっていた理由は、別に特殊なものではない。それは私の家系、育った環境が、正常に日本的なものであったからで、さらに小さい時から私が歴史に興味を持っていて、世の中はいずれ変わって行くものと思っていたからでもあろう。私の周囲には若くして亡くなった者もおり、勢いの良かった家も逼塞してしまった例も見ている。家の栄枯も、個人の生死も、国家の盛衰も、来り去るものであることを悟っていた。
 米国に渡って半年も経つと、この国の人達がいかにも短期の動機、はっきりいえば金銭によって動くかを見て、これではこの社会の将来はダメだと感じた。当時の米国は最盛時で、万事日本とは桁ちがいであったが、それを支える精神的基盤に強い疑問を持ったのである。この疑問は十年経たないで現実となって現われてきた。今日の状態は読者の見られるとおりである。
 米国はいずれ中南米国化する。こう私は述ぺているのだが、森山氏の体検している今日の南米は、明日の米国の姿である。
 中南米と日本の逆転のキッカケであり、原因は石油危機であるとする分析はそのとおりであろう。結局産業を軽薄短小化する力、ハイテク化する力を持った国が、石油価格暴騰を逃げ切り、逆にそれを跳躍台として経済を高度化することが出来た。
 アメリカ支配層の思惑では、これで日本は借金で首が回らなくなり、オイルダラーを集めた米銀の軛の下に陥ると踏んだ。ところが現実に現われた結果は、すべてが全く逆目に出てしまった。日本は借全金で首が回らなくなるどころか、暫くすると、逆に米国自体の国際収支がおかしくなり、低開発国に貸出した金はコゲ付き、一方日本は掠しい顔でますます産業を高度化してきた。
 結局今日では、ドルを下げ、石油を下げるより外の脱走路はなくなったのが、米国の姿である。日本悪者論を世界に撒き、その陰に隠れて貿易障壁を設けて自国産業を保護するのが、表街道で米国のとりうる堆一の方法となった。
 円高は、一時的には日本産業の一部にとって非常に苦しいだろうが、日本全体として見れば巨大なプラスである。しかも産業的には、時間を稼せば一層の高度化の因となり、日本産業を大きく飛躍させるであろう。
 一九七一年のドル切り下げ、つまりニクソンショック以来、石油をいじりドルをいじってきた米国支配層の策略は、ますます自らの首を絞めることで終った。これから彼らのとる対日策は、末書で以下に見られるような、日本の産業、経済と社会の体内深く入るものにならざるをえない。
 それはつまり米国の日本の産業と社会への全面的寄生てある。彼らはすでに金融的には寄生している。年五○○億ドルを越す資金が日本から吸われているのだ。これから打たれる手は、日本の社会と産業を、彼らの寄生しやすいような構造に誘導することにあろう。言うなれば、米国式の社会に日本を変えることにある。
 米国式社会とは何か。それは一言で言えば奴隷社会である。これから展開する米支配層の対日政略は、日本の奴隷社会化であり、日本そのものの奴隷化である。
 ベーカー発言はすでにその片鱗を表わした。所得税の最高税率を大幅に下げよと言う。つまり日本社会の所得構造を、均一なものからトッブヘビーなものに変えよと要求しているのである。これが日本社会の弱化と、米国による寄生を容易にし、日本社会内部に自らの友人、金持ち階級を作ることにつながると考えているわけだ。日本の高所得層を米国支配層の買弁化しようとする策略である。
 アメリカに行って万遍なくその社会を観察すると、この四〜五年来、貧民が非常に増えてきたことがわかる。もちろん彼らは日本からの訪問者の立ち回るところにはいない。だが市街の中心部を外れたハンバーガー店などを見ると、彼らの実情はよく見えてくる。素寒貧な部屋は借りていても、調理はできない。費用が掛かりすぎるからだ。そこでフードスタンブで支払いのできるファーストフード店を、朝・昼・晩家族を連れて回り歩く。今日のアメリカでは、ハンバーガーとコーラは貧民給食事業となっている。
 この状態の下に、レーガン政権は高額所得者の税率を大幅に下げようとしている。低所得層への課税は日本よりずっと重いのである。これは金持横暴の不逞な政策だ。それは米の力をますます弱め、おそらく数年後に到来する大不況においで、大きな社会不安どして噴出するであろう。戦前の日本の大きな弱点は、貧富の差の大きいことであった。これがために社会が近代化されず、国内市場が育たず、結局海外進出にハケ口を求めることになってしまった。戦後今日までの日本の進展は、戦後占領革命による富の平等化に負っている。いま米国の要求に盲従して高額所得者の税率を大幅に下げることは、戦前に戻ることである。すなわち日本の発展を阻害し、社会緊張を増す。
 現在の米国は悪国の見本であり、この国は、明日は明白に中南米国化する。米国支配層の誘導に乗ぜられて、高額所得者減税などを導入して、昔の悪夢を蘇らせてはならぬ。戦後日本人の親米感情は、占領軍の諸改革が戦前日本の病根を剪除して、平等社会を作ってくたことに由来する。が、間連ってならないのは、占領革命を遂行したのは、三○年代の大不況が生んだニューディール派の人達であり、今日の米国を動かしている悪人とは対極に位置する。マッカーサーは正直な軍人、官僚であって、彼の考え方は当時のニューディーラーに近かったのであろう。
 米国は極端に能力の異なる国民の集合である。したがって貧富の差は大きくならざるをえない。しかも上層富裕階級は貧民にまで課税している。これはもう人頭税と言ってよい。三○年代ニューディールアメリカは、今日では奴隷制アメリカに変貌したと言ってよい。米国支配層は日本にまでその思想と社会を拡げようとしている。
 今も濃厚に残り、米国のみならず、日本の或る人達も大いに利用している日本人の親米感情は、もうとっくに消え失せているのだ。真実は、米国支配層は日本の敵であるのみでなく、世界文明の障害物である。不明にしてその姿が見えないにせよ、彼らと協力する徒輩は、まさしく、気付かぬうちに買弁化しているのだ。
 さて前置きが長くなりすぎたようだ。早速本文に読み進まれたい。

昭和六十一年五月
大磯高麗山下の書屋において


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目次

序にかえて

第一部 日米経済“ドンデン返し”の構造

第二部 末期症状を呈する世界

第三部 新しい文明時代を考える

第四部 英米支配層の正体

あとがき

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あとがき

藤原肇
ひとつの発想、あるいは、ひとつの構図との出会いを通じて、新鮮な共感を分かちあえるような年齢になると、山水画や俳画の世界が楽しいものになるらしい。
 最近の私は、知識の豊かさよりも円熟した知恵の魅力に取りつかれているので、知恵のある年長者と対話する機会が増えている。そこで人生のパターンが必然的に対談的なものとなり、どうしても面会を実現して、この際話をしておきたい先輩たちを、世界各地に訪ね歩くことが多くなってきた。
 また、対話することの面白さはヒラメキを感じたり、頂門の一針を叩きこまれて、思わずハッとするところにあり、背筋をシャンとするたびに、自分がヒト科の脊椎動物として生まれてきたことの喜びを感じている。
 理屈ぽくなって恐縮だが、ヒラメキは横文字で表現するとフラッシュであり、精神のスパーク現象だから、あらゆる意味において、飛ぶところにその本質がある。それはまた次元の展開という点で、合に至るうえでの一種の弁証法的なプロセスでもあり、ダイアログはダイアレクトに他ならないのである。
 それにしても、当事者たちが味わう満足感を、読者も共に分かち合うかどうかについては、いろいろと複雑な問題がからむことになり、時によると一人よがりに過ぎないと決めつけられたりもする。
 なぜ、そこで突然テーマが変ったり、意外な見解や結論がとび出すことになったのか。こんな奇妙な論陣を展開するということは、発言者たちの問題意識がおかしいのではないか。
 このような疑問を誘発する背景として、人生観や価値観の差の存在や、過去の経験や興味の対象の違いなどもあるだろう。しかし、このような異和感が発生する理由のほとんどが、じつは説明不足に由来しているのだと言っていいであろう。
 それでは、この欠陥を克服するために、懇切丁寧な解説をしさえすれぱ、問題は氷解するのかどうかと思案してみると、私にはどうもそれは正解にならないと思える。人生は幼椎園ではないし、制度として定着してしまった学校的なものには、期待できることが限られているからである。
 たとえば、馬野博士がこれまでの著書で、一九八九年ごろに大凶慌が襲来すると断言し続けてさた背景には、先生が過去数十年間にわたって築きあげた史眼と判断力が、厳然として存在している。
 しかも、本書で私が馬野説に対して修正提案を試み、一九八八年夏のソウル五輪の前が危ないのではないかと言った時、「その惧れは十分にある」と受けとめて賛意まで示した先生の内部には、思想上のものすごいプラズマ現象がひそんでいたと読めるはずだ。それは、本書の対談の流れ全体にも反映しているが、馬野先生の歴史把握力と洞察力において、鬼神に迫るものを感じさせられ、私は思わず雷に打たれた印象を持った体験と共通するものがあるからだ。普通なら反論の理屈が返って来るはずなのに、天下に周知の大仮説をあっさりと修正した馬野先生の知的含蓄さに、私は思わず舌を巻いたのだが、読者はそれを読み取ってくださったであろうか。
 しかも、別の面では、馬野先生は私の考えを断固として斥ける、恐竜のような堅固な背骨を持っていて、私の脳のレプタイル・コンプレックスを刺激してやまないのである。


* *
 五年前までの私は過去一○年間にわたって、二週間分たまった新聞を新しいものから古いものへと、潮行する読み方をしてきた。それを打ち切ったあとは、三年前から、朝の七時から九時半までを頭のトレーニングの時間と決めて、ニューヨークとシカゴの商品市場を舞台に、コモディティの先物取り引きを通じ、世界経済の動きをダイナミックに感じとる訓練をしてきた。
 最初の二年間は無惨な成果しかなく、破産寸前の体験をしたり、損失の穴埋めに虎の子の石油井戸の権益を手放したりで、莫大な授業料を払い続けた。巨額の授業料は幸連にも多くの教訓とカンをもたらせ、それを私の用語法でソフトウェアとウェットウェアに結びつける過程が『マクロメガ経済学』になったわけで、オメガ・ポイントへの方向づけを通じ、今の私は帝国主義のノウハウが何となく分かりかけてきたとの思いを抱いている。
 私が馬野先生の大仮説の修正を試み、大凶慌が一九八九年よりも早く襲来し、一九八七年の末からソウル五輪前が危ないと断言した理由は、手作りの一枚の図表を眺め続けて得た自身に基づいている。
 《歴央は繰り返す》という形容は、あまりにも頻繁に使われて手垢で黒ずんでいる。しかし、経済現象をマクロメガの視点で捉えて、産業社会の生産活動を理解する上では、過去は現在の鍵であり、未来を照らす松明である。
 そして、似たような環境の中で似たような熱力学的な条件が満たされると、似たようなパターンを持つプロセスが進行し、似たような結果をもたらすことになる。ということは、文明のサブシステムである社会現象において、さらにそのサブシステムの経済指標にすぎないコンドラチェフの波動のレベルでは、経験的な相似現象は、科学におけるシュミレーションの枠内の問題にすぎなくなるのである。
 一九二一年から三○年までの経済動向を、ニューヨーク株式市場のダウ・ジョウンズ指標を使ってプロットして、これを座表系とする。次に、現在において最も有効な経済指標であるスタンダード・アンド・ブアー・インデックス(有力五○○企業指標)を対置して比較すると、良く似たパターンを描いていることが明白になる。垂要な変換点(ターニング・ポイント)とパターンを、コレレーション・テクニック(相関対置法)を使って較べると、二つのシナリオを予想することが可能になる。
 私は第一のシナリオこそ本命だと思うが、現在進行中の熱狂的マネーゲームの急伸性と、国際金融不安を前にした東京サミットの無能無策ぶりからして、突発事故として始まる第二のシナリオの可能牲を否定しきるのも難しいとも思う。
 私にとってこの一枚の図面は、ノーベル賞級の経済学者たちの一○冊の本や、新鋭エコノミストたちの論文を満載した一○○冊の雑誌よりも価値がある。そして、この図表は論文調の長大な解説をつけ加えることでなく、じっくりと眺め続けて何かヒラメくところに意義があり、そういった意味で、本書には、本文中にほとんど解説の存在しない興味深い図表が幾葉も挿入されている。
 そこで、コミュニケーションを通した思想の流れを対談で読みとると同時に、ストックとして思想の根幹を構成する、それらのオリジナルな図表を眺めることによって、読者が自らの手で新時代にふさわしい画期的なコンセプトの発展を楽しまれたらいかがかと思う。大きなスペクトルとしての文明の次元や、日本とかアメリカ合衆国といったミクロな局面における社会現象として現われている問題点や、帝国主義の時代における支配者のノウハウなどについては、今後におけるより総合的な体系づけが待ち望まれているからである。
 視座の位置とアプローチが異なっているにしても、二人がたどりついた結論として、経済破綻を中核にしたカタストロフィーが接近しているという認識は全く共通である。
 しかも、このような重大な歴史的な時期に日本が主権国としての名誉を与えられた第二回東京サミットは、全く無惨としか形容できないほどの大失敗の顔見世興行に終ったことは、われわれの記憶にいまだ新しい。先進七か国の首脳を一同に会したこのサミットが《経済サミット》であったにもかかわらず、専ら反テロリズムのキャンペーンとソ速の原発事故への批難の合唱という事件モノ水準で終始し、間近に迫った経済破綻に対しては、ほとんど何も具体的な提言や対策を構ずるような動きをもたらさずに終ってしまった
 国際政治において指導的役割を演しなければならない米国が、レーガン流の粗雑で軽薄な砲艦政治に明け暮れているという現実、それはレーガン政冶に愛想をつかしてウォール・ストリートに去ったストックマン元予算局長が近著で、《子供向きのセサミ・ストリート政治》と指摘しているところでもある。
 三流役者あがりの大統領の物真似をすることが、国際的な政治力であると思い違いをし、ホワィトハウスの主人公に追従することが、日米関係の基本だと誤解している日本の首相。
 空虚なスタンド・プレーに頼った演技政治を武器に、人気取りで権勢を保つことで国益と民族の対面を損っているのに、この中曽根政治の専横を放置し続けて来たのも日本人たちだが、こういった現状は、《日本の危険》であるだけでなく、世界にとって《危険な日本》の強制に他ならない。
 われわれの行く手には世紀のカタストロフィ土が待ち構えている。
 世界で一、二位を誇る経済大国の首脳が、全力をあげてこのカタストロフィーへの対応のために取り組まなけれぱならない時、幼稚な戦争ごっこに熱中する《危険なアメリカ》と、治安対策に血道をあげる《危険な日本》の潮流が渦巻く中で、読者は《日本の危険》と題した本書が提起する問題をいかに受けとめるであろうか。
 『石油危機と日本の運命』と題した最初の本で言論活動を始めた私と、『石油危機の幻影』と題した本で華ばなしくデビューした馬野博土との出会いは、反発と共鳴か入りまじった奇炒な対決でもあったが、カタストロフィーの襲来必至という点では、馬野仮説の正しさが証明されるのが時間の問題でしかないと確信せざるを得ない。ハイポロジストの日本における始祖としての先生の威力にわれわれは感嘆するに違いないという思いとともに、カタストロフィーを予想し警鐘を鳴しつづけたことにより、ことによると、カタストロフィーに向けての戦略的対応ができ、時と次第では、それを回避する結果を生む《逆エディプス効果》も期待できるのかもしれない、との気も残るのである。
 すぺては《コロンブスの卵》であり、時によっては卵が先か鶏の方が先かは決めかねる場合も多い。だが、この謎もスフィンクスの霊験にあやかって、《逆エディブス効果》が発生するようにと祈りながら、本書を世に送り出し、読者諸賢の批判をあおぐことにしたい。

一九八六年六月六日ロス空港にて


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