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[机上の妄想]モディリアニの形象が予感するアンバンドリング国・日本、その危機の深層
<注記1>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080707
Lara Fabian et Serge Lama - Les Ballons Rouges
[http://www.youtube.com/watch?v=9lMuixLUwZA:movie]
・・・この動画は当記事内容とは無関係です。強いていうなら“枕詞”のようなものです。
(プロローグ)
当記事は、ここ一ヶ月位の間で最も多くのアクセスを頂いた下の記事▲のテーマを些か異なる角度から取り上げて書いたものです。敢えていえば、それはモディリアニ芸術の核心が提起するものと重なっており、例え無意識であったとしても、ある意味で時代を遥かに先取りしていたモディリアニの先見的な問題意識に重なると思われます。
▲2008-06-26付toxandoriaの日記/日本社会のバランサーを破壊した自公政権の重罪(シミュラク−ル化する日本の深層)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080626
現代アメリカの異色作家スティーヴン・ミルハウザーの翻訳を手がける柴田元幸氏流にいうなら、それは「世界で唯一の正統的な権威たる市場原理主義(国家機能の一切、国民の生存権とプライバシー保護などの悉くを米国型デュー・デリジェンス(Due Diligence/リスク選好/より大きなリスクにチャンスを賭ける選択)と自己責任を当然視する考え方/参照、http://www.blwisdom.com/word/key/100049.html)が量産する爆発的デジタル情報の氾濫が日本国民の想像力を過激に刺激し続けており、それを過剰に抱え込むことが多くの日本国民へもたらしつつある“奴隷的で甘美な呪いのリアリズム”」ということです(“甘美な呪いのリアリズム”についての詳細は、同上▲を参照乞う)。
つまり、今やその“奴隷的で甘美な呪いのリアリズム”が、米国型デュー・デリジェンスに染まった日本の社会全体をスッポリ覆い尽くしつつあるのではないかという危機感が日ごとに強まっているようです。そこで見失われつつあるのが、「人間の幸福とは何か」を冷静に考えるために必要な“本物のゆとりある現実感覚”です。言い換えれば、今こそ求められるのが、「本物の地域社会のあり方に拘る人々」を葬り去ろうとする現在の日本経済を根本から捉えなおし、それを厳しく基本原則の部分から批判する強固な意志です。
無論、このように悲惨な状態となってしまった責任の多くは日本の指導層(エスタブリッシュメント)にあります。なぜなら、彼らの多くは、この重要で根本的な問題意識を軽く見過ごすか、あるいは見ぬふりを決め込み、安心できる国民一般の立場があってこその「民主主義社会と持続的な資本主義経済」であることを忘れ去り、ひたすら自らと仲間内の利害のみに関心を持つようになってしまったからです。そして、特に自公連立政権と主要マス・メディアおよび過半の企業経営者と政府御用達の御用学者ら(経済財政諮問会議、各種の審議意委員会などにたむろする)の責任は重大です。
しかも、例えば、日本国民の最も重要な安心の基盤であるべき「厚生年金・国民年金積立金の運用損(2007年度)が過去最悪の5.8兆円だった」と報じられています(参照、http://www.asahi.com/business/update/0703/TKY200807030497.html)が、案の定、この深刻な結果について誰が責任を取るのかは一切語られません。まるで、このことについての口封じは当然だと国民一般が了解しているとでも言いたげであり、これはとても驚くべきことです。なぜ、このように素朴な疑問の声が大きく沸きあがらないのでしょうか?それどころか、“外国も皆そうだヨ!”とする政府御用達の経済評論家諸氏の声、あるいは「より積極的な年金原資運用論」の立場から「日本版SWF(国家規模投資ファンド)の設立を提言、先ず公的年金を10兆円規模で投入せよ!」という声が<自民検討チーム>から湧き上がっています(参照、http://jp.reuters.com/article/domesticEquities2/idJPnTK013161720080703)。
それは、まるでこの悲惨な結果を大声で打ち消し、誤魔化し、カムフラージュする作為であるかのように見えます。米国を始めとする外国では、投資ファンド(投機対象原資)の枠と運用ルールが厳格に定められ、かつ厳しく責任の所在も決められています。従って、このようにいい加減で無責任な日本の有様では、なけなしの厚生年金と国民年金の積立金(約150兆円以上?)の全てが国家的な博打(投機フィーバー)で雲散霧消し、その一切が消滅しても、再び、誰も責任を問われぬという恐るべき事態(これが本当の“詐欺師たる政治権力者”に誑かされる幻影国家・日本の真相?)となる恐れがあります。これでは現代資本主義国・日本のマクロ経済政策も金融管理もヘッタクレも、その一切が無意味であり、恰もそれは16世紀フランドル派の画家ピーテル・ブリューゲルの『バベルの塔』状態です。もはや、バカか阿呆かというより他の言葉が見つかりません。
ピ-テル・ブリュ-ゲル『バベルの塔』
[f:id:toxandoria:20080707101029j:image]
・・・Pieter Bruegel (ca1525-1569) The Tower of Babel 1563 Oil on oak panel 114 x 155 cm Kunsthistorisches Museum Wien 、 Vienna
・・・・・
(モディリアニ芸術の予感とは?)
<注記>
<開催中の『モディリアニ展』について>
・・・toxandoriaは東京展を5/31に観ていますが、現在は大阪展が行われています。詳細は、下記・公式HP★のURLをご参照ください。
★『モディリアニ展』、於・大阪国立国際美術館(7/1〜9/15)、http://modi2008.jp/
【画像1】モディリアニ『赤毛の若い娘(ジャンヌ・エビュテルヌ)』
[f:id:toxandoria:20080707101030j:image]
・・・Amedeo Modigliani(1884-1920)「Portrait of a Girl 」1917-18 oil on canvas 46 x 29 cm Private collection.
【画像2】モディリアニ『カリアティッド』
[f:id:toxandoria:20080707101031j:image]
・・・「Caryatid」 1913 Pencil and watercolor 33.5 x 27.3 cm. Private collection.
【画像3】Tino di Camaino(ca.1280−ca.1337)Tomb of Antonio d'Orso、in Santa Maria del Fiore、Florence
[f:id:toxandoria:20080707101032j:image]
・・・この画像はウイキメディアより。
【画像4】モディリアニ『目を閉じた裸婦』
[f:id:toxandoria:20080707101033j:image]
・・・「Nude with Necklace」1917 oil on canvas 73 x 116 cm Solomon R. Guggenheim Museum 、 New York
モディリアニは、イタリア・リヴォルノ(Livoruno/トスカーナ州リヴォルノの県都、フィレンツェから列車で1時間ほどの距離)の生まれでヴェネツイアとフィレンツェのアカデミーで学び、1906年にパリに出てモンマルトルに住みつきます。パリではブランクーシ(C.Brancusi/1876-1957/抽象彫刻とミニマル・アート(Minimal Art)の水源の一つとされるルーマニア出身の彫刻家)、キスリング(M.Kisling/1891-1953/ポーランド出身のエコール・ド・パリ)、スーティン(C.Soutine/1894-1943/ロシア出身のエコール・ド・パリ)らと出会い、セザンヌ絵画の影響を受けます。しかし、貧苦を紛らす酒と麻酔薬への耽溺がしだいに身体を蝕み、結核に冒され36歳の若さで急逝しました。この時、二人目の子供を宿していた身重のジャンヌ・エビュテルヌも、その2日後にビルの5Fから身を投げて彼の後を追います。
モディリアニの作品は、1916〜1918年頃にかけて傑作が集中するとされますが、それ以前には、カリアティッド(Caryatid)と呼ばれる、ある類型的人体像を数多く描いています。そして、鋭い観察眼、優れた造形的才能、多感でポエティックな感情によって、独特の簡潔で個性的なデフォルマシオン(deformation/独創的フォルム、微妙な色調とマティエール)を完成させたところがモディリアニの魅力です。生前のモディリアニは、画商ズボロウスキー(Zborvskii)を除き彼に関心を示す者が殆どなかったという意味で不遇な境遇でした。しかし、病で死ぬ間際に彼が娘ジャンヌに遺したとされる“懐かしいイタリア”という言葉の意味が、今、重みを増しつつあります。
モディリアニが生まれたトスカーナ地方のリヴォルノは、1600年にトスカーナ大公の一人によって海港として築かれましたが、この町の特色は、信仰のために迫害されたり、政治的弾圧を受けたスペイン・ポルトガル系ユダヤ人らの避難所となってきたことです。そして、18世紀末頃に移住したユダヤ人の一人がモディリアニの母親の曽祖父でした。また、モディリアニはとても虚弱であったらしく、11歳で肋膜炎、14歳で腸チフスに罹り肺炎を併発するという具合でした。ところで、最初に彫刻家を目指したとされるモディリアニは、療養のために訪れた南イタリアのナポリ滞在と、次いで訪れたローマ・ヴェネツィア・フィレンツェでギリシア・ローマ古典美術の“ある伝統”に着眼します。
つまり、彼は、本格的なアカデミズム研究に先駆けて、14世紀シエナ派(ゴシック期)の異色の芸術家ティーノ・ディ・カマイーノ(Tino di Camaino)の彫刻の独創的視点を発見していたのです。そして、その形象化がモディリアニの”カリアティッド”の一連の造形群であり、それは後に、モディリアニの“独創的フォルム”(特異な長い首、淋しげな眼差しと印象的な瞳、抑制的ながら洗練された色調・・・)の源泉となったようです。もはや、具象絵画というよりも、むしろそれは対象の本質と核心(エッセンス)となる形象を抽出しキャンバス上で再生し再造形化するという、いわば一種の様式の純化であり、ミニマル・アート(Minimal Art/装飾的で説明的な部分を極力削ぎ落とし、シンプルな形と色彩で表現するアート/1950年代の後半に出現し、1960年代に主にアメリカ展開した)か抽象絵画へ限りなく接近しています。
<注記2>
カリアティッド(Caryatid)
・・・古代ギリシア建築用語でカリュアーティデス(karyuatides)とも呼ばれ、「男性像の石柱=アトランティス(atlantes)」の対と考えられる「着衣女性をモチーフとする石柱」のこと。その最古の遺品はデルフォイで発見された二基の女性像の柱で、『シノフス人の宝庫』(BC6世紀頃)と呼ばれる玄関廊(エンタブレチュア/entablature/柱頭の上で屋根を乗せる水平部材)を支えている。また、その最も優れた事例はエレクテイオン(Erekhtheion/アテネのアクロポリスにあるイオニア式神殿/BC420〜480年頃)の女性像。中世では殆ど採用例がなく、ルネサンス以降の近世で復活した。モディリアニは、ゴシック期の彫刻家Tino di Camainoの「人物像の形象群」(【画像3】の事例など)に、その珍しい残像を発見していた。
例えば、モディリアニは好んで人物画を描き、次いで多いのが裸婦像(その登場は1916年以降/その多くのモデルは、無名の市井の人々とされる)ですが、彼の描く裸婦像は妻ジャンヌ・エピュテルヌの肖像とともにモディリアニ芸術の到達点を示すものとされています。しかし、これら裸婦像には円熟した女性の肉感的な裸体をありのままに描いた時に生ずる隠微で猥褻な雰囲気は漂っておらず、その独特の作法による様式の純化作業がもたらす形象とマティエール(matiere)によって、それらの具象的・官能的肉感性は奪われており、むしろ、ピュアで装飾的な永遠の美へ昇華しています。
(深まりつつある現代世界の危機を予見したモディリアニ芸術の炯眼)
資本主義の発展史的観点から見ると、新自由主義思想(ネオリベラリズム)をエネルギー源として突っ走ってきた現代世界(1980年代〜、サッチャリズム・レーガノミックス以降の時代)は「第2期グローバリズム時代」と見なすことができます。そして、ケインズの慧眼が見通していたとおり、「第1期グローバル市場経済の時代」は18・19 世紀から列強諸国が推し進めた植民地主義・帝国主義のプロセスであり、それは軍事費拡大への国際的制御の失敗によって第一次世界大戦(1914〜18)へ雪崩れ込みました。
俯瞰的に見ると、モディリアニを始め、この「第1期グローバル市場経済の時代」(第一次世界大戦前後の時代)にパリで活躍した画家たち、ユトリロ、スーティン、パスキン、藤田嗣治らはエコール・ド・パリ(Ecole de Paris/パリ派)と呼ばれます。彼らの活躍は、現代フランス絵画のみならず世界中の芸術運動の形成に大きな影響を与え続けましたが、ある意味で、それは、再び資本主義経済が隘路に嵌り、ファシズム(“果てしなき生存権拡大”の妄想)と大殺戮(第二次世界大戦)の時代へ向かう予感でもあったと見なせます。当然ながら、それはクリムト、ココシュカ、マーラー、シェーン・ベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクらの「世紀末ウィーン」の芸術・文化活動とも呼応しています(世紀末ウイーンの空気については、下記★を参照乞う)。
★2008-06-25付toxandoriaの日記/映画『幻影師アイゼンハイム』が“現前”させる現代日本「シミュラクール社会科」の病理、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080625
なお、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を始祖とする現代音楽の誕生が「世紀末ウィーン」のマーラー、シェーンベルク、アントン・ヴェーヴェルン、アルバン・ベルクらの活躍を介して、更にバルトーク、メシアン、ピエール・ブレーズ、シュトックハウゼン、ジョン・ケージ、ヤニス・クセナキス、武満 徹、フランク・ザッパ、そしてスティーヴ・ライヒ(Steve Reich/1936- /ミニマル・ミュージックを代表する米国の作曲家)らのミニマル・ミュージック(Minimal Music)へと連なる現代音楽の奔流を形成したことは周知のとおりです。
また、これらのいわゆる前衛芸術活動の多くが、時代の流れとともに次第に「政治権力」と「市場原理へ過剰に傾斜する資本主義」が剥き出しにするファスケス(fasces/暴力性)への危機感をエネルギー源としてきたことも、よく知られたことです。例えば、ヤニス・クセナキス(Iannis Xenakis/1922 - 2001/ルーマニア生まれギリシャ系フランス人、現代音楽作曲家)は次のように語っています(出典:小沼純一編『武満 徹・対談集』(ちくま学芸文庫))。
『(前、省略)・・・私のポリトープ(Polytope/三次元空間内で多層的・複合的に光源と音源を配置して“視覚的な音楽”の実現を試みた一種のインスタレーションで、パリのクリュニュー、同じくポンピドー・センター、ペルセポリスなどで行われた)は、音の分野で生じた作曲の問題を光の現象によって空間のなかに転移する試みであったということができます。・・・(途中、略)・・・音楽的、あるいは視覚的な音楽に携わること、作曲をするということは、人間の持つ攻撃性を排除するのに役立ち、平和の手段になると思います。それはまた、いろいろな違った国民(歴史の違いを背負った)たちを近づける手段でありますし、われわれを取り巻く世界に対する良い(より良い)知識を持つ手段となるとも思うんです。・・・(後、省略)』(( )内はtoxandoriaの補筆)
このヤニス・クセナキスの言葉には、伝説的な「オランダの光」(参照、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/)を連想させるものもありますが、それはともかくとして、モディリアニ、クセナキスらの、その限界まで切り詰め研ぎ澄まし純化された芸術的表象に関連して、「世紀末ウィーン」の前後の時代に活躍した美学者ヴォリンガー(W.Worringer/1881-1965)の名著『抽象と感情移入』が想いだされます。
ヴォリンガーは、精神史としての美術史の立場から、「芸術意志」(芸術創造の意志)を独自の人間類型(歴史的・文化的類型)に応じた世界観に結び付けて論じ、特にその「抽象衝動」なるものが我われの外界現象(社会)で引き起こされる「人間の内的不安」の心裡に結びつくと主張しました。そして、もう一方の「感情移入」は、人間と外界現象との幸福な親和関係をその心理的前提とするとも主張しています。このような観点からすると、モディリアニのカリアティッド(既述のとおり、その古典的意味は巨人アトラス(=アトランティス)とともに世界の安全・安心を支える役割であったと見なすことができる)の発見が一層重要な意味を帯びてきます。
なぜなら、「人間の内的不安」の心裡に結びつく前衛芸術も、その形象の深層に歴史的・古典的な原型と見なすべき原像(面影)を宿していてこそ、未来を含めた人々との感情移入が可能となる訳であり、その意味でこそ絶えざる古典芸術創造の可能性(前衛芸術が未来の古典となる可能性)が保証されることになるからです。ともかくも、このように見れば、“特異な長い首、淋しげな眼差しと印象的な瞳、抑制的ながら洗練された色調とマティエール・・・”を個性とする、とても魅力的な(なおのこと、現代人たる我われにとって!)モディリアニ芸術が、特に、ますます混迷化・擬装化・ヴァーチャルリアリティ化(ゲーム脳化したような国民層が増殖する!)して不安が満ちつつあり、方向性を見失って狂騒化した現代の日本社会を見事に予感していると見なすことができそうです。そして、その「現代日本の不安」の根本にあるものこそが「社会のアンバンドリング現象(unbundling)」です。
(現代世界に仕込まれたアンバンドリングの罠、それに見事に嵌った小泉・竹中以後の日本)
今、我われが最も重視すべきは、この無限の世界における有限な地球の存在(=宇宙も視野に入れるならば広大無限となるが、人類を含めた「生命圏・地球(biosphere)」を考えれば有限となる、・・・この絶妙なバランス!) への「怖れ」の感情と、その怖れるべき世界に対する我われ自身の「不安」の心であると考えられます。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきとする「英知」を伴った、本物の強さを持つ心性が生まれるはずです。そして、驚くべきことですが、実はこのように素朴で古典的ともいえる心性がジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes/1883-1946)の経済思想の中にも存在したことが理解されています(ケインズ、J.M.著、早坂 忠訳『平和の経済的帰結、全二巻』(東洋経済新報社、¥5,460.-)
このケインズ゙の著書は、第一次世界大戦後の苛酷で不条理な対独賠償要求とその不幸な帰結に対し警告を発するとともに、その是正を求めた義憤の書です。当初、このケインズの著書は各国政府や過半の諸国民から強烈な批判を蒙りますが、やがて“果てしなき生存権拡大”の妄想を標榜するナチス・ドイツが台頭して第二次世界大戦が勃発するという歴史の展開によって、そのケインズの正しさが証明された形となります。別に言えば、当初からケインズは資本主義経済が市場原理主義に溺れて暴走しないように、そしてグローバル市場経済の弊害についてドイツ一国へその責任を押し付けるべきではなく、各国政府が大きな協調的役割を果たすべきだと考えていたというのです。
一方、新自由主義思想に従えば、市場競争原理がもたらす先端科学技術の無限の発達によって、やがて地上を舞台とする経済活動は宇宙開発競争の時代を迎えることとなり、未来の人類も市場原理による資本主義経済の発展(永遠のトリクルダウン妄想?)が可能だということになります。しかし、このことが「ほら男爵の冒険」(参照、http://www.geocities.jp/pluto_naoko/february3.html)の如きヨタ話であることは、例えば、スペースシャトルで地上基地と宇宙ステーションを往還し、あるいは宇宙空間で船外活動をする宇宙飛行士は、その生活時間の殆どを”オムツ着装状態”で過ごすという「厳然たる事実」を知るだけで十分です。広大無辺な宇宙の掟はそれほど人類に甘くはないようです。おそらく、本格的な宇宙時代の人類は、自らの新陳代謝機能そのものを「市場原理の見えざる手」に合わせて改造することになるのかも知れません。
ところで、そもそもアンバンドリング(unbundling)とは、1960年代にIBM社が打ち出した販売政策に始まるビジネス戦略のことです。従来は付帯サービスと一体化してユーザーへ提供されてきたIBM製品が、この新戦略の下でハード、ソフト、保守サービス、教育サービスに分解され、それぞれに価格がつくことになったのです。やがて、その後はIBM製品に限らず、ハードとソフトの両方で互換製品が市場に出回るようになってきました。つまり、我われユーザーは真製品と多くの互換製品の中から、自らの判断と選好(リスク覚悟と自己責任によるメリット選択)ができるようになったのです。このアンバンドリングは更なるアンバンドリングをもたらし、それが今のようなパソコン周辺の多様なビジネス市場をもたらしました。特に、1995年に「WINDOWS95」が発売され本格的インターネット時代に入ると、その傾向、つまり「アンバンドリング現象」が一気に強まり、現在に至っています。
この「アンバンドリング現象」は、既述のデュー・デリジェンスの価値観と相俟ってITを主体とするビジネス界だけでなく国家行政府と地方自治体をも巻き込みつつ日本社会のあらゆる局面へ影響し、浸透し続けてきました。かくして、日本という国家そのもののアンバンドリング、つまり日本国民の生存権までもが自らの判断とリスク選好(より大きなリスクにチャンスを賭ける選択)の覚悟と自己責任原則(実は誰が責任を取るべきか特定しにくい無責任原則)に任されることになってしまったのです。
つまり、それは政府による国民に対するユニバーサル・サービスの放棄であり、政府の無責任化ということです。特に、約8年前の小泉政権が『年次改革要望書』(アメリカ政府による日本政府への年次通達/日本の各産業分野に対し機構改革・規制緩和・市場開放の実施を要求し続けている)に忠実に従う関連諸政策の推進、および“小泉=竹中流・新自由主義思想(neoliberalism)”の強固な信念となってきた「トリクル・ダウン理論」(trickle-down theory/政府による意図的な格差拡大政策のこと/詳細は下記記事★を参照)を積極導入したことが、その流れで“火に油を注ぐ”形となります。
★2006-01-22付toxandoriaの日記/「神憑る小泉劇場」と「ホリエモン」が煽ったトリクルダウン幻想、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060122
その結果が、貧富差拡大・非正規雇用拡大・福祉医療環境劣化などの深刻なダメージを日本社会へ与えたことは周知のとおりです。つまり、小泉政権は「アメリカが巧妙に仕込んだアンバンドリングの罠に日本が嵌るための手助けをした」ことは紛れもない事実です。従って、いま重要なことは、もはや世界からグローバル市場原理主義を払拭することができないとしても、やはりEU(欧州連合)のように、その市場原理が暴走せぬよう一定の制御力を作用させるという考えに立ち戻るべきだと思われます。それは、ジョン・メイナード・ケインズの著書『平和の経済的帰結』が予告していたことであり、また、それは画家モディリアニの炯眼が約100年前に発見していた「カリアティッド(Caryatid)の形象」(世界の安全と安心を支える根源的な形象)が示唆することにも重なります。
(小泉劇場が遺した国家的アンバンドリング後遺症に苦悩しつつも、相変わらずノーテンキな日本)
現在、日本の景気には陰りが拡がりつつありますが、その最大の原因は資源価格の高騰による国民所得の海外流出です。しかも、ある調査によると資源価格(原油・食糧等の価格)が高騰するために世界市場で使われている運用資金の1/4は日本からの所得流出であることが確認されています(情報源:2008.7.5付・朝日新聞『私の視点、寺島実朗氏/投機マネーの制御に踏み出せ』)。つまり、現在の世界的な金融不安はグローバル市場原理主義の影がますます濃くなったということであり、その責任の1/4が超低金利政策を継続して海外での投機資金を供給してきた日本にあることが注目されつつあるのです。
然るに、7月2日に発表された「21世紀版前川リポート」のこの問題に対するスタンスは“資源価格の高騰には構造的な取り組みが必要。短期的に痛みを緩和する政策への誘惑を極力排除すべきだ。”と述べるだけで、何に遠慮しているの分かりませんが、ひどく及び腰であることが窺えます。そして、投機抑制と食糧自給率にかかわる明確な政策を打ち出すべき肝心の福田政権からも、最大野党・民主党からも、なんらリアルな反応が伝わってきません。また、自民、公明、民主、社民4党の国対委員長が7月下旬に、仲良く揃って海外視察(オーストラリア)に出かけるという、まるで「楽しい夏期休暇のための与野党談合」のような、まことに暢気なニュースが流れています(参照、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080702-00000121-san-pol)。
一方、「地球温暖化に絡んでドイツの脱原発政策をめぐる与野党対立が深まってきた」という“怪しげなニュース”が洞爺湖サミット関連の賑々しい報道に混じって飛び交う(NHKニュースほか)ようにもなっています。おそらく、これは地球温暖化を口実とする「原発」積極推進派の援護射撃の可能性があります。正確なドイツの現地情報が入手できないので「最新のドイツの実情」は分かりませんが、実際は「日本では原発推進派と見られているキリスト教民主社会同盟も、実は、劇的な原発廃止に反対しているだけで、<長いタイムスパンでの脱原発>は容認している」ということのようです(情報源、http://www.news.janjan.jp/media/0507/0507250006/1.php)。いずれにせよ、ドイツを含むEU(欧州連合)の脱原発については、以前に予想したとおりの動きとなってきました(参照/下記◆)。我が国でも、“エコファシズムかエコマフィアまがいの炭素原理主義の奔流”に流されず、より安全なエネルギー確保の観点から、この問題の根本へ再度スポットを当てる時だと思います。
◆2007-08-01付toxandoriaの日記/2007年春、ドイツ旅行の印象[ハイデルベルク編]、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070801
ともかくも、現在のヨーロッパでは、アイルランドの国民投票で「リスボン条約」が否決されてから、「今の拡大EUが果たして本当に各国の地域住民らにとって利益となるのか?アメリカ型の市場原理主義へ傾き過ぎていないか?立ち止まって、これらを根本からもう一度よく考えよう」という空気が広がっています。ドイツでは、ケーラー大統領が「単なる“修正リスボン条約”では批准条約にOKの署名ができない」との立場だとされますが、公式には「連邦憲法裁判所が違憲訴訟への判断を下すまでは批准書に署名をしない」と表明(ドイツではリスボン条約に対し9件の違憲訴訟が起こされている/情報源:http://www.asahi.com/international/update/0701/TKY200807010502.html)したようです。
ドイツの大統領は殆ど象徴的存在ですが、その署名を欠けば批准は有効となりません。しかも、ドイツのみならずポーランドのカチンスキー大統領も同条約批准への署名を拒否しています。また、英国でも、条約批准についての国民投票を求める市民の訴えを受けた高等法院が「高等法院の判決が出るまで政府は批准手続きを遅らせるべきだ」と政府に要請したこと(情報源:http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/29861)も報じられています(下記★を参照乞う)。このように原点へ立ち戻る強い復元力を見せつけるEUの動向に比べると、政府および与野党の政治家らも含めた日本人一般の「市場原理主義の暴走」と「日本社会の更なるアンバンドリング化」への危機感の無さ(そのノーテンキぶり)には、只々、驚かされるばかりです(情報源:下記URL■)
★2008-06-22付toxandoriaの日記/“会津の風景”と“愛蘭・リスボン条約、No!”の対比に滲む幻影国家・日本のアキレス腱、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080622
■http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,druck-563170,00.html
■http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,druck-563127,00.html
■http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080701/erp0807011841005-n1.htm
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