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2008年07月06日
2008.7.6. サミット前日に考える事
このブログで書いてきた事のいくつかは、何年か先に、必ず意味を持ってよみがえってくる。そう思いながら私はこのブログを全力で書き続けている。
誤認や誤解、そして見込み違いもある。それでも、そのいくつかは歴史に耐える真実を射抜いているに違いない。そういう自負を唯一の頼りに書き続ける。
私にかくも傲慢なことを言わせる背景には、このブログを書くに当たって一切の私利、私欲、打算がない、という事実がある。
読者の一人一人が、立場や考えの違いを超えて、自立した正しい判断力を持ってもらいたい、世間の不正に対峙してもらいたい、あらゆる権力者の悪に対し抗って強く生きてもらいたい、この一念で書いている。
自らが強くなければ、愛するものさえ守る事が出来ない、それが私の読者へのメッセージである。
サミット前日の今日は、あらゆる報道がサミット一色だ。うんざりする。
しかしそれは無理もない。
大きな国際行事だ。8年に一度の主催国の責任はある。
サミットは無事に終わればいい。願わくば少しでも意味のある会議になってもらいたいと思う。
テレビ番組は、福田首相の父親である福田赳夫氏がサミット直前の総裁選で破れ、総理はおろかサミット議長の名誉まで直前で手放した悔しさを放映していた。
その悔しさを間近で見て一番知っているのが福田康夫首相だ、だから、支持率が低下しても,
何があっても、自分の手でサミットをやりたいのだ、などと政治解説者が語っていた。
そうなのだろう。しかしその事自体は悪い事でもなんでもない。それが人情というものだ。
洞爺湖サミットは歴史的な会議だと評価する意見がある一方で、難問題山積の中で一日や二日のサミットで何が決まるのかと冷めた見方もある。どの国でサミットが行われようと、必ず言われる事だ。
そのいずれもが正しく、いずれもが正しくない。
議長役の福田首相はもとより、政府関係者は無事に終わる事に精一杯だ。
テロ対策の警備も大変だ。
国民生活にとっては大迷惑だ。税金の無駄遣いだという声も聞こえる。
そのような声もまた、いずれも正しく、そして正しくない。
サミット開催国の責任者であったなら、やはり福田首相や日本政府と同じ対応をするに違いない。
報道関係者は大騒ぎして、こぞって報道競争をしている。これも仕方のないことだ。
そして、ここからが今日のブログの言いたい事であるのだが、それらすべてを受け入れた上で、決して見落としてはならない二つの問題点を指摘したい。
その一つはサミット反対の国際的運動のうねりについてである。
あれはシアトルのWTO反対運動の頃から始まった動きだと思う。反グローバリズムの国際的な動きがサミット前に必ず行われるようになった。
私がもし官僚で一生を終わっていたならば、おそらくこのような反対運動に理解を示す事はなかったに違いない。この種の反対運動に違和感と嫌悪感を覚えたままであったに違いない。
しかし今の私は、あらゆる意見に耳を傾ける時間がある。それを自分の頭で考えてみる暇がある。何よりも、組織や立場に縛られることなく、自分の考えに忠実でいられる自由がある。
グローバリズム反対の活動家には様々な人たちがいるのだろう。主義主張のの違いや、思惑も一つではないのだろう。
しかし、ATTACK(トービン税の導入を目指す市民団体)の発起人の一人であるスーザン・ジョージさんの次の言葉は考えさせられる。
・・・G−8に集まっている国は地球上の人口のわずか14%を代表しているに過ぎない。その指導者たちは、自分たちの国では選挙で選ばれたかもしれないが、世界を支配する役割を担うために選ばれたものではない。しかも、この指導者達ですら、自分たちの国において正当に国民を代表していないかもしれないのだ。
その指導者たちが、世界を代表しているがごとく振る舞い、(世界の人類の幸福実現を等しく願うのではなく、彼らだけの利害を優先する。自国の利益を優先する。)そんな会議に果たして正統性があるのか・・・
たしかにそれは一つの視点である。世界の指導者、権力者が集まるのではなく、世界の国民が手を繋げ、もう一つの国際的な民主主義体制をつくる必要性があるのかもしれない。そういう時代がいつの日か来るのかもしれない。
7月6日の各紙が、洞爺湖サミットに反対する運動の事を一斉に取り上げたり、7月6日の朝日新聞が「ひと」欄が、来日したスーザン・ジョージさんを取り上げているのも、こうしたサミットに反対する国際的動きに、漠然とではあるが、将来の可能性を認めている証拠ではないか、単なるサミット妨害者と切り捨てられない何かがあると感じている証拠ではないか、と思ったりする。
もう一つは、6日朝のフジテレビ「報道2001」が、サミット報道に背を向けて、あえて老人介護の問題を取り上げていたことである。そして6日の毎日新聞が、サミット報道と並んで、「人も団地も老いゆく」という見出しで、急速にふえつつある都会の孤独死を特集していたことである。
女優小山明子が夫である映画監督大島渚の介護の、そして歌手橋幸夫が母親の介護の、苦労話をテレビで語る。華やかなスターでさえも、その陰で誰もが向かい合う苦労をしている。
毎日新聞の記事の次のような言葉が、我々の目の前に広がる現実を突きつける
「・・・遺体は1DKの居間で布団に横たわっていた。目を開き、天井を見上げていた。孤独死だった。部屋の主がいなくなって8ヶ月以上も経つのに、郵便受けにはいまもはがきや封書が届く。部屋のベランダでは洗濯物が風に揺れている・・・」
急速に進む高齢化社会に温かい対応策を講じるのは、間違いなく政府の最優先の責務である。
サミットで国際問題が語られるのもいい。環境問題も資源問題、金融問題も重要だ。
しかし、サミットが終わった後で福田首相が真っ先になすべき責任は、この国の国民の日々の暮らしをどう安心させるかだ。
日本の指導者だけでなく、世界の政治家が、指導者が、自分の地位、名誉、利権を省みることなく、国民の、人類の、豊かで平和な生活を心から願い、優先的にその問題に取り組むならば、サミットのあり方も変わっていくに違いない。
二酸化酸素ガス規制の目標年である2050年には、環境問題だけではなく、人類は、戦争のない、平和で豊かな生活をしているのだろうか。
我々はいま大きな歴史の転換期にあるのかもしれない。
サミットが終われば内閣改造だ、解散・総選挙だ、などというのは、日本の政治家たちのつまらない権力闘争に過ぎないのではないかと思えてくる。
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