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国民が重大事件の有罪、無罪の判断や量刑の決定に参加する「裁判員制度」が来年5月からスタートします。ほかの先進国が皆にたような制度を実施しているからと言っても、それは猿まねにすぎません。私は、今の日本の民度を考えると、制度の導入は早すぎると思うのです。
国民の裁判参加と言えば米国の映画「十二人の怒れる男」を思い出します。父親殺しの疑いをかけられた少年の審議で有罪が決定的となる中、疑問を抱いた陪審員(ヘンリー・フォンダ)が少年の無罪を明らかにしていく法廷劇です。良い映画ですが、現実はそううまくいかないでしょう。
人間はなかなか公平な目を持つことが出来ません。先場所の朝青龍と白鵬の騒動を思い返してください。誰が見ても、だめ押しをした朝青龍が悪いのに北の湖理事長は朝青龍を頑迷にかばいました。北の湖理事長は現役時代、朝青龍と同じように不人気横綱で、よくマスコミから態度が良くないと叩かれていました。それで同病相哀れむということで、朝青龍に肩入れしたと勘ぐられても仕方がないでしょう。
以前から言っているように日本の民度は高くないのです。先進国と言ってもそれは経済だけで文化は発展途上国並みです。飛騨牛など最近の食品偽装問題にもそれは表れています。どこの先進国に、これだけ食品の偽装が相次ぐ学習能力のない国があるのでしょうか。
裁判員制度は、システム自体にも疑問を感じます。被告が有罪か無罪か、量刑はどのくらいかを裁判官と裁判員の多数決で決めます。多数決は良いことのように感じますが、実は落とし穴があります。歴史を見てください。キリストもジャンヌ・ダルクも多数派によって殺されたのです。多数が善、少数が悪という考え方の制度は恐ろしいのです。
いま、日本の裁判に本当に必要なのは裁判官のレベルアップだと思います。刑事事件の判決のひどさにあきれ返ることが多々あります。被告に脅かされているのではないかと思うほど罪を軽くしたりもするのです。更生の機会を与えたヒューマニストぶって自分は気持ち良いかもしれませんが、再び被害者が出てはたまりません。最近、再犯の多さにはがく然とします。刑務所の数が足りないと言うのなら、全国にある役人のための無駄な施設を刑務所に替えて使えばよいのです。
裁判官は人間の深層心理の裏表をよく知った人でないと務まらないはずです。水商売のやり手ばばあのように海千山千でしたたかな人でないと、罪を犯す人の気持ちには踏み込めないのです。司法試験に合格しただけの世間知らずのエリートが人を裁くことには無理があるのです。
良い裁判官になるためには社会勉強が必要です。司法試験の最終試験として3、4年間の実習を設けるべきです。身分は伏せ、例えば歌舞伎町の風俗店で3年、競馬場で3カ月、地方の工場で3カ月などなどというふうに実際に社会で働いてみればいいのです。そうすれば机上の空論ではない、本当の人間の姿が少しは見えてくるでしょう。
裁判員制度は、今の裁判官が、先日の不祥事を見ても分かるように、だらしないから導入されるのです。
[新世紀人コメント]
スポニチに載せられた一週間前のもので、本日紙面には別のものが載っています。
美輪さんの熱情が込められた大変に優れたものであり、手打ちして転載したわけです。
裁判員制度の危険性を見事に語っています。
この制度は、本当は「戦後日本の法秩序の崩壊」の最終章を表わしたものです。
すなわち司法権力自身が法律条文を政治情勢に合わせて勝手都合に解釈して勝手気ままに使い続けて、「法の支配」と「法秩序」を破壊し続けてきた結果の行き着く先であった訳なのです。
その背景には、日本人の「法秩序」への「法の支配」への無理解と無教養が存在しているのです。
徳川幕藩体制の下で幕府の統治本質としての「武力統治」の下で生きてきた日本国民には統治側の幕府や各藩の武士達にも法秩序観念が弱かったばかりでなく農工商の一般庶民にはその様な観念は無縁なものであったのです。
俗権力の他に宗教権力の支配を持っていたほかの文明との違いは真に大きかったわけです。
従って、明治政府から今に至るまで残念ながら「法の支配」の観念が大変に弱かった為に戦後の政治権力は明治天皇制の権威を失ってからは「権力エゴイズム」に則り、法律を勝手都合に振り回してきたのです。
その結果、現在の社会崩壊の危機を迎えて自らの責任を放棄し、国民に社会の敗者を処分させようと言う事の他に考え付く事が無くなってしまいました。
「権力の自滅」が本質です。
美輪さんの「民度の低さ論」に私は本質的には同調しませんが、
日本国民が徳川幕藩体制の時代から「仇討ち」の想いを醸成され続けて来ている事が大変に危険であり、「法秩序」の考えから量刑を考えるのではなく「仇討ち」から考える文化土壌の上に立って考える事により、大きな社会的混乱を裁判員制度は生み出すでしょう。
「仇討ち」は「仇討ち」を呼んで「量刑」に対する反撥が発生するでしょう。
裁判員は裁判官と看做される事なく、報復の対象者とされる事態が発生する事が考えられます。
「遠山の金さん」の桜吹雪の刺青の意味は実は深いものである事に気付かされます。
刺青(実際に彼には刺青があったらしい)は、実社会の暗部の事情に通じた人物であった事を表わしており、そうであるからこそ彼は名奉行としての仕事を成し得たと言う事になる訳です。
日本人は長い間「忠臣蔵」の話を聞かされて「仇打ち」を美談として頭に植えつけられて来ました。赤穂浪士の討ち入りは「悲劇」以外の何物でもなく、部外者としての農工商の庶民が持て囃す事件では決してありません。
討ち入った赤穂浪士達や討ち取られた吉良上野介さらに浅野匠守はこの事件が持て囃される事を決して喜ばないはずです。
忠臣蔵の映画・演劇を見て私は日本人の庶民感情を観察し続けて来ました。嫌と言うほどに見せられ聞かされてきました。
三波春夫さんが歌った「俵星玄蕃」を作品としては傑作でその意味では大好きですが、内容の日本人の心のありようは大嫌いであり、複雑な思いで聴くのです。
http://jp.youtube.com/watch?v=vmrFoOMnV5E
三波春夫〜俵星玄蕃フルバージョン〜
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