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(回答先: 衆院選前の新党結成目指す 橋本氏、基本政策も発表 − 共同通信 投稿者 児童小説 日時 2008 年 7 月 01 日 17:46:17)
「オバマのようにネットを活用しろ」と書いたが、一応、専用のページを開設してくれたらしい。アドレスはこれだ。まだグーグルで検出されてない。
橋本大二郎公式サイト
http://daichanzeyo.la.coocan.jp/index.html
既に何個か記事が掲載されている。貼り付けておく。
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公式サイト開設のご挨拶〜「人生七掛け」
♪♪村の渡しの船頭さんは、今年60のおじいさん〜♪
♪♪年はとっても櫓をこぐ時はぁ〜♪
■という唱歌を、幼い頃に口ずさんだのを覚えています。ただ、それは50年も昔のことですので、還暦を超えたおじいさんやおばあさんは、確かに、お年寄りと呼ぶのにふさわしい風体でしたし、そのくらいの年になると、腰が曲がっている人もいました。
それだけに、自分がその年になるとは、長い間想像も出来ませんでした。
■ところが、2007年1月の誕生日で、めでたく還暦を迎えてみますと、おじいさんの自覚はまったくありません。考えてみれば、この半世紀の間に、日本人の平均寿命は男女とも、30年前後も伸びていますし、その分、心も体も若返っていますから、年をとったとの実感がないのも、当然かもしれません。
■年をとると言えば、知事を退任した後の過ごし方についてアドバイスをもらおうと、NHK時代の先輩のもとを訪ねた時のこと、70歳を超えたばかりのその方から、「新老人の会」に入会を誘われたと聞きました。この会は、90代の半ばを過ぎてなお、年に200回もの講演をこなしているというスーパー高齢者で、東京の聖路加病院の名誉院長を務める日野原重明さんが、第三・第四の人生を有意義にと始められた会です。
■くだんのNHKの先輩によると、日野原さんから入会を勧められたため快諾をすると、「ところで、あなたいくつになった」と、あらためて問われました。
そこで、70歳を迎えたばかりと答えると、「会員の資格は75歳以上だから、まだ正会員は無理ですよ。代わりに、準会員にしてあげましょう」と告げられたそうです。
■この話を聞いて、上には上がいるものだと感心をしましたが、少なくとも、60歳はおじいさんではないと自信を持ちました。と同時に、「人生七掛け」を実践しようと、勝手に心に決めました。この方式によれば、60歳は「60×0.7」で42歳、70歳で49歳、90歳でようやく63歳と還暦を超え、100歳で「古来希なり」と、70歳の古希を迎えることになります。
■ということで、2007年12月6日をもって、16年務めた高知県知事の職を引いた今、40過ぎの壮年の気概で、NHK記者と県知事に続く、第三の人生に挑戦することにしました。
とはいえ、「あの人まだやっているの」と、世間に後ろ指をさされるようになってはいけませんから、常に時代を切り拓いてきた、団塊の世代の自負をもって、きりっとした生き方をお見せしたいものです。
http://daichanzeyo.la.coocan.jp/omoi.html
高知県知事として16年
■1991年(平成3年)12月に、高知県知事に就任した時には、知事の仕事を16年も続けることになろうとは、思ってもいませんでした。
周囲からも、「どうせ、知事の仕事を腰かけにして、1期か2期務めたら、すぐに中央に行くにきまっている」と、言われたものでした。
振り返ってみた時、知事選挙に出ようと決意するのは、それほど難しいことではありませんでしたが、辞めようという決意は、思ったより難しいことでした。
■その知事としての16年の間には、あまりにも多くのことがありましたので、それを、一言にまとめることは出来ませんし、逆に、印象に残る出来事の、一つ一つに触れる紙幅もありません。そこで、嬉しかったこと、残念だったこと、自慢できること、不安なことを、順不同に並べてみることで、知事時代を簡単に振り返ってみます。
■まず、嬉しかったことですが、それは、2002年10月に開催された、高知国体の開会式当日のことでした。夜来の雨が朝になってもやまず、天皇皇后両陛下が午前中、県立の牧野植物園を訪問された時には、傘をさしてのお出迎えになりました。
このままでは、午後に予定されている開会式も、雨の中での開催になるだろうか、それだと、長い時間かけて練習をした集団演技の出演者が、がっかりするだろうなどと、重い気持ちを引きずりながら、植物園をご覧になる両陛下の後をついて回りました。
■ところが、昼食を終えて外に出た時に、雲が切れて、その間から日の光が差し込んできたのです。高知国体の開催にあたっては、開催県が必ず優勝をする、そのために莫大な強化費を使うといった、旧来からの悪弊を破って、身の丈に合った、スリムな大会の実施を心がけました。そこには、数多くの軋轢も生じていましたので、開会式を直前に控えて、青空が広がっていくのを見て、天が味方してくれたような気持ちになりました。
■次に、残念だったことは、モード・アバンセ事件という、県の融資に絡む背任事件が起きたことです。県の職員にとって長い間プレッシャーになっていた、同和対策への過剰な配慮が背景にあったとはいえ、結果的に、多額の損害を発生させたことは間違いのない事実ですし、県ならびに県民の皆さんにも、大きな傷を残してしまいました。
ただ、このことをきっかけに、県庁の内部での議論を深めた結果、外からの働きかけの公表や、職場で感じた疑問を、外部の方に内緒で相談できる制度など、具体的な対策も講じましたので、二度とこのような失敗を繰り返すことはないと信じています。
一方、この事件で有罪判決を受けた、元の副知事の背任の動機を、裁判所は、自らの失敗を隠そうとする、自己保身のためと認定しました。
しかし、私が知る限り、この元副知事ほど、自己保身といった男らしくない行為と、縁遠い人はいませんでしたので、そのように断じた裁判所の判断を、これまた、とても残念に思いました。
■続いて、自慢できることとして触れておきたいのは、大学生や若い職員を対象に、知事のそばでのインターンシップを実施してきたことです。これは、人事やプライバシーにかかわることを除けば、幹部・担当部署との打ち合わせや訪問客との懇談から、式典や地域の行事への出席など、知事としてかかわるすべての仕事を、間近に体験してもらおうというもので、県の幹部らからは、そこまで公開していいのかと、疑問を呈されたこともありました。
ただ、吸収する力のある学生には、多くの刺激を与えることができたと思いますし、彼らと意見交換する中で、自分も多くのことを学びました。
彼らは現在、NHKの記者、警察官、市会議員、銀行員、研究者などなど、様々な分野で活躍していますが、インターンの経験は、必ずや何かの役に立っていると自負しています。
■最後に、少し不安に思うことですが、それは高知工科大学の将来です。高知工科大学の設立は、平成3年の最初の選挙の際に、公約に掲げた事業で、土地と建物は県が出資をして整備した上、後は、私立の大学として学校法人で運営するという、公設民営の大学として、平成9年4月に開学しました。
この大学の設立によって、県内の大学進学率も伸びましたし、県内の学生の保護者にとっては、経済負担が軽くなるという効果もありました。
また、朝日新聞や河合塾などが行う、全国の大学のランキング調査でも、地方の単科の大学としては、高い評価を得ています。
■しかし、急激に進む少子化と、国公立や有名私学への志向が強い、我が国の現状の中では、高知工科大学もご多分にもれず、定員割れを余儀なくされるようになりました。こうしたことから、公立大学法人化という手法によって、実質的な県立化を目指すことで、将来に向けての安定的な経営が図れればと考えています。
■といったことで、16年という長い期間に起きた出来事を、極めて大雑把な切り口で振り返ってみましたが、高知に来た当時、ある方から、「人生に無駄はない」と教えられたことを思い出します。
その言葉の通り、16年の間に経験したことは、すべてが糧になりました。無茶苦茶に忙しかったですが、誰にも体験できないくらい充実した、楽しい16年でした。
http://daichanzeyo.la.coocan.jp/omoi1.html
なぜ国政へ?〜「知事の仕事に限界を感じました」
■2007年12月6日をもって、16年務めた高知県知事の職を退きました。
あわせて、今後は国政の場で活動していきたいと表明しました。
■これに対して、「どうして、今さら国会議員を目指すの?」と、素直な疑問を持たれる方もおられるでしょう。
この質問を受けて、一つはっきりと言えることは、単に国会議員になりたいがために、国政を目指すのではないということです。
国会に議席を得た後に、政界の再編を働きかけて、この国を、世界に誇れる堂々たる国に、また、地方でも安心して暮らせる国に、作りかえる役割を果たしたいと考えています。
■もう一つ言えることは、兄龍太郎が存命であれば、たとえ一線を退いていたとしても、あえて国政に挑戦しようとは思わなかったでしょう。
といっても、これは、兄弟ならではの個人的な感情ですから、何故と理由を問われても、論理的に答えられることではありません。ただ、2006年7月に、70歳の誕生日を目前にこの世を去った、兄の遺影を眺めているうちに、それが何かはわかりませんが、兄の落し物を拾ってあげるのが、自分の務めではないかと感じたのです。
■以上、国政への挑戦に向けた意欲と、情緒的な背景を、手短にご説明しましたが、あと一つ、知事としての、16年の経験から感じた国政挑戦の必要性を、次の知事選挙には出ないと表明した時に使った、言い回しをもとにお話してみます。
■その言い回しは、「知事の仕事に限界を感じた」というものでしたが、それはもちろん、知事の仕事のすべてに、限界を感じたという意味ではありませんでした。
というのも、知事には、県庁の仕事の無駄をなくして、県民に向き合った組織にかえていくといった行政改革や、選択と集中を徹底した予算づくりを目指した財政改革など、内政として取り組むべき課題は数多くあります。高知県で言えば、官官接待の廃止をはじめ、行政の経営品質の向上や、本格的なアウトソーシングの導入など、この面でも、新しい取り組みに挑戦してきました。
また、内政面だけでなく、県内で手がけた先進的な試みを、全国版に広げていくといった面でも、知事としてやるべき仕事は少なくありません。ここでも、高知県発の事例をいくつか挙げれば、センターラインのある2車線の道路を作らなくても、1.5車線の幅の道路改良を、国の補助事業として認めるようにした、1.5車線的な道路整備事業や、今や全国の自治体に広がった、森林環境税の導入などがあります。
さらに、こうした内政面での努力や、県内の試みを全国版に広げていく取り組みの他、地方の立場から、国に対して意見を言い注文をつけていくのも、知事の大切な仕事です。しかし、国が一旦こうと決めて、地方にそれを押し付けてきた時には、どんなに理不尽な内容であっても、地方には、それを払いのける力がありません。
それでも、地方が、なんとかやっていけた時代はよかったのですが、もうそろそろ、その限界を超えてきたように思います。だからこそ、国政の場で、国の姿勢や仕組みを変えていかなくてはいけないと考えたことが、知事を退くにあたって、「知事の仕事に限界を感じた」という表現を使った意味でした。
■その限界を最も痛感させられたのが、三位一体の改革でした。
三位一体の改革とは、
▽国が地方を支配する手段として使っている、補助金や国庫負担金を廃止して
▽その分の財源を地方に移すことで、地方の仕事の自由度を高める
▽それによって、地方が必要とする財政需要の額が変わってきますので、あわせて地方交付税を見直す
という三つの改革を、同時に進めようというものでした。
このことによって、地方の使える財源が、従来の8割から7割に減ったとしても、仕事の自由度が高まることの方が、住民サービスにとっては重要だと考えましたので、国から、3兆円分の補助金などを廃止するので、どの項目を廃止するかは地方で決めてほしいと、球を投げかけられた時には、全国知事会などの場で、白熱の議論が交わされました。
しかし、一番肝心な、地方への財源の移譲はごくわずかしか実現しないまま、地方の暮らしに欠かせない地方交付税の、一方的で大幅な削減だけが、先取りして進められました。
■これに対して、知事をはじめとする首長など地方の側は、こぞって反対と批判の声を挙げましたが、結局は、国の力に押し切られるという空しい結果に終わりました。2008年の春、大きな政治課題になった道路特定財源に関しては、与党の国会議員から、これがなくなったら、地方の財政は大きな影響を受けるという声が起きましたが、もっと大きな影響をもたらした地方交付税の削減に対して、真っ向から反対した与党議員はいませんでした。
■しかし、ここで分権改革の旗を降ろすことは出来ないと、知事会など地方団体は、第二期の地方分権改革に向けて取り組んでいますが、その一環として、国の関与が地方の仕事を阻害している事例を拾い出すことになって、6つの分野ごとの、プロジェクトチームができました。
私は、そのうち、福祉や医療の分野のチーム長を仰せつかりましたが、それが、2006年から2007年にかけてのことです。
そこで、チームに属する各県から上がってきた事例を見ますと、非常に細かい項目が並んでいます。それだけ国が、小さなことにまで口を差し挟んできている証なのですが、これを国民が見たら、「地方分権というのは、国の形を作りかえるための、もっと大きな話をしていると思ったのに、こんな些細なやり取りをしているのか」と、愛想を尽かすだろうと思いました。
■さらに、こうした細かい項目ごとに、国と地方との協議の場で議論をするのですが、国が色々と理屈を並べて、関与の必要性を強弁するのは目に見えていますので、それを跳ね返す力が地方にない以上、大きな枠組みは、何も変わらないことになります。これでは、まさに、賽の河原の石積みです。
■それでも、国全体が右肩上がりで、族議員がぶんどった財源を地元にばらまくことで、地域間の調整をしていた時代ならいざ知らず、今時、こんな時代遅れな仕組みを引きずったままでは、グローバル化の時代に、生き抜いていくことはできません。
また、中央省庁の権限を温存した中央集権の体制を残したまま、名ばかりの道州制を進めれば、それは、国の財政効率を高めるための、単なる都道府県合併にすぎませんので、高知県のような地理的条件の県は、さらに厳しい環境に追いやられることになります。
■知事には、こうしたこの国が抱える問題を指摘して、異論を唱えることはできますが、それを変えることはできません。でも、誰かが変えていかなくてはなりません。そのことを、「知事の仕事に限界を感じた」と表現しました。
■これは、知事16年の経験を踏まえて、国政を目指すにいたった重要な要素ですが、国政の場で国の形を議論する時には、国と地方の関係の作り変えだけでなく、幅広い分野にわたる政治的立場と政策の方向を、明らかにしていかなくてはなりません。
既存の政党やしがらみ、さらには官僚政治や中央集権などからの独立を基本に、次の段階を目指していきます。
http://daichanzeyo.la.coocan.jp/omoi2.html
大二郎の旗〜新しい政党の立ち上げを目指して〜
■「なぜ国政へ?」の項目で綴ったことをなぞる部分もありますが、それに補足を加えて書いてみます。
■おととし(20066年)亡くなった兄龍太郎の葬儀が、東京の武道館で執り行われた際、会場に掲げられた兄の写真が、自分に語りかけているように感じました。その声は、「俺の落し物を拾ってくれ」と聞こえました。
■それ以来、兄の落し物は何だっただろうかと考え続けましたが、おぼろげながら、兄が総理として手がけた省庁統合の先に、落し物があるのではないかと思えてきました。
行政の実態を熟知していた兄は、新しい体制への移行に向けて、手順を踏んで慎重にことを進めたと思いますが、その先には、長年わが国を支配してきた、中央官庁がリードする政策運営を壊すことを、思い描いていたのではないかと感じたのです。
橋本龍太郎と小泉純一郎という、自民党にとっては異質な政治家の手で、少しずつ道は開けましたが、国の形をつくりかえるという点では、まだまだ道半ばです。
そこで、兄の落し物を念頭に、自分自身が16年間の知事経験を通してつかんだ果実も手に、兄の3回忌にあたる2008年7月1日に、目指すべき国づくりの基本理念と政策を、「大二郎の旗」と題して発表しました。
その骨格は、以下の通りです。
■まず、財源と権限を地方に全面的に移した、地域自立型の国家構造を実現することで、国の役割と地方の役割を、より明確に分けていきます。
このうち国は、「二度と戦争への道を歩まない」を出発点に、憲法の精神である平和主義を基にした、世界への貢献に積極的に取り組むことで、地球時代のリーダーを目指します。
■一方、内政面では、更なる構造改革を進めることで、経済の成長を進めますが、それと同時に、格差問題や弱者への対応を念頭に置いた、暮らしの安心の保障を図ります。
これを進めるため、「既成の政党や、旧態依然とした政治家」からの独立、「利権やしがらみ」からの独立、「官僚政治や中央集権」からの独立という、3つの独立とともに、「政治家個人への企業・団体献金の全面禁止」、「官僚の天下りの全面禁止」、さらには、「国会議員の数の大幅な削減を」をうたっています。
■これらの基本理念の骨格のうち、第一に掲げた、「地域自立型の国家構造の実現」の必要性は、16年間にわたる知事としての体験の中で、高知県がそして高知県民が教師となって、私に教えてくれたことでした。
■「なぜ国政に?」の項目で触れましたように、2007年8月1日に、次の知事選挙には出馬をしないことと同時に、あらためて国政に取り組むと表明した際、その理由の一つとして、「知事の仕事に限界を感じた」と言ったことの意味は、まさに、新しい国家構造を求める理念に関わることでした。
その限界を痛切に感じたのは、三位一体の改革がもたらした失敗でしたが、その後進められている第二期の分権改革も、地方が国にお願いをするがごとき、分権という視点で取り組んでいる限り、結局は同じ失敗を繰り返すことになるでしょう。
これも、「なぜ国政へ?」ですでに書いたことですが、それでも、国全体の経済が伸びていた頃は、国に集まった税収を財源に、中央の省庁が用意した数々の事業メニューを、国会議員が地元にばらまくことで、財源の配分が出来ていました。
しかし、今はそんな財政的な余裕がありませんから、地方は、中央集権の仕組みに手足を縛られたまま、財源のみが削減されることになります。
さらに、地球規模で、経済のグローバル化が進む現状を前に、国としては、さらなる市場の開放を進めざるを得ませんが、その中で、中央集権の体制を続けていれば、地方は独自の対応が取れないまま、開かれた市場の中で、外圧につぶされ、大波に飲み込まれてしまうことになります。
■もちろん、財源と権限を地方に移して、国の構造を地域自立型に変えただけで、外圧に耐えられるようになるかどうかは、定かではありませんが、中央集権の中で手足を縛られたまま、座して死を待つような愚を犯すべきではありません。
たとえば、産業政策を一つとってみても、中央集権型で各省庁が、縦割りの事業を全国一律に進めていたのでは、高知県のように地理的に不利な条件を抱えた県は、いつまでも、相対的な不利を解消出来ません。
地域の自立によってどれだけのことが出来るかは別としても、税制や労働力に関わる分野などで、地域の独自性を出せる自由度がなければ、生き残りをかけた競争は出来ません。
地域づくりも同じことで、全国どこでも同じような、金太郎飴型の事業を国が押し付けていたのでは、魅力のある観光政策や、退職者を受け入れるための、特性を活かしたリタイアメントタウンの構想など、立てられるはずがありません。
だからこそ、地方に財源と権限を全面的に移した、地域自立型の国家構造の実現が求められますが、それは、まさに地方の将来に直結することでありながら、知事の権限では、手の出せないことなのです。
■一方、国は、グローバル化に対応して、企業が世界を舞台に戦っていくためのバックアップをしなくてはなりませんし、あわせて、公害問題や、地球の温暖化、食糧危機、水問題、さらには、教育を受けられない子供への対応や、平均寿命の低い国々での保健・医療の支援など、幅広い分野で、これまでの経験と技術を活かした、国際貢献への積極的な取り組みが求められています。
このためにも、官僚が主導する現在の中央集権の体制を、地域自立型の国家構造に変えることで、地方は、この国の伝統と文化が息づく個性のある地域づくりを担い、国は、平和主義と各種の国際貢献を通じて、地球時代のリーダーとしての役割を担うといったように、国の形を変えていかなくてはなりません。
■こうした意味で、時代は今、大きく転換すべき時を迎えているのです。私は、この時代の転換の担い手になるべく、既存の政党から独立をした新しい政治集団を、ひいては新しい政党の結成を目指して、自らの旗を揚げました。
といっても、たった一人での旅立ちですので、永田町的な意味合いで政局を作りだそうといった、員数合わせの意図は毛頭ありません。
だからこそ、永田町発の再編ではなく、地方から、高知から発信する再編を目指していきます。
■では、なぜ高知なのかですが、もちろん、政治家としての自分を育ててくれた土地ですし、16年間の知事としての体験の中で、多くのことを教わった教師だからという意味もあります。
また、それだけでなく、明治維新や自由民権運動のうねり、さらには敗戦後の復興といった近代日本の変革と危機の時代には、いつもその活動の中心に、土佐人がいたという歴史があります。
■今、再びわが国が迎えている危機と、それに対して求められている変革を考える時、土佐が高知が、その活動の発信基地となることには、歴史の合理性があると考えています。
さらに、我々国民の日々の暮らしは、永田町や霞が関にあるのではなく、東京都から高知県に至るまでの、地方の中に、地域の中にあるのです。
そのことに目を向けようとせず、永田町や霞が関で、国民の生活を取り仕切っていこうとする体制に終止符を打って、政治を、国民に身近なものに取り戻さなくてはなりません。
そのためにも、今こそ、地方からの新しい幕開けが求められていると感じています。
私は、自らが提示した理念と基本姿勢の実現に向けて、何があっても、断固としてやり抜くという、鋼のような意志と団結の力を大切にする、政治家でありたいと思います。
■以上述べました、「大二郎の旗」の基本理念と、重点的に取り組むことをまとめた冊子を作りました。
その中でも触れていますが、国民一人一人が政治に関心を持って、個人的に献金をすることで、政治活動を支えていく社会を目指したいものです。
■その一歩として、「大二郎の旗」にご賛同をいただく全国の方々に、広く薄いご支援をいただきたいと思っています。
具体的には、「チーム大二郎」のメンバーズカードをつくりましたので、年会費一口5千円でメンバーになっていただいた方には、まず、「大二郎の旗」の冊子を送らせていただきます。また、応援をしたいけれど、年に5千円はつらいという方は、遠慮なくお申し出下さい。
会員になっていただいた方との交流の場づくりなど、今後、様々な企画も考えていきたいと思います。
http://daichanzeyo.la.coocan.jp/omoi3.html
※コメント:
マスコミ報道では、抽象的な内容の数行だけだったが、
実際には、かなりの量のテキストを公開してるじゃないか!
判断するのは早いが、一定の期待はしても良さそうだ。
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