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http://www.amakiblog.com/archives/2008/07/01/#000975
2008年07月01日
サミットが拡大されるという産経新聞のスクープ
7月1日の産経新聞は一面トップで、今度のサミットで、サミット参加国を現在の8カ国から13カ国に拡大することが正式議題になった、という事を大きくスクープした。これは産経の立派なスクープだ。
サミットは私の35年の外交官生活の中でも思い出深い出来ごとである。だから今日のブログでサミットが拡大されるという事への思いを書かせてもらいたい。
サミットが正式に発足したのは1975年のランブイエ(仏)における主要国首脳会議であった。
その直接のきっかけは73年の石油危機であり、当時高まる産油国のナショナリズムとカルテルに対決するために先進国は結束を固めた。
一方において、74年にキッシンジャー米国務長官が提唱した国際エネルギー機関(IEA)がOECD内部につくられ、備蓄、融通、代替エネルギー開発を三本柱とする、原油価格高騰に対する先進消費国の結束が図られるとともに、他方において、フランスのジスカール・デスタン大統領の提唱により、仏、英、独、イタリアの欧州勢と米国、そして日本の主要先進6カ国の首脳会談がスタートしたのである。
だからこのサミットはもっぱら経済問題を中心とした、自由、資本主義体制の主要国の極めて戦略的な会議としてスタートしたのだ。
石油の高騰とそれがもたらす世界経済の混乱にどう対応していくかという会議であった。
欧米4カ国と米国からなる首脳会議に日本が招待された、ということで、その当時の日本の指導者達が有頂天になって大喜びをしていた事を今でも思い出す。
当時米国研修を終えて東京に戻った私は、初めての本省勤務が、このような歴史的会議であった事に感動したものだ。
当時私は経済局総務参事官室という経済局の筆頭課に配属されていたのだが、直接の担当課として、隣の国際経済課が指名され、その課の末席に、やはり米国研修を終えて本省に戻ってきていた、私より一年先輩の岡本行夫がいた。
いずれにしてもサミットの原点である6カ国の中に入る事を認められた日本は、今から思えば国際政治の中での絶頂期であったと思う。
その後1976年の第二回サミットでは米国の強い意向でカナダが参加しG−7となり、冷戦後の1998年には経済体制の異なるロシアが参加してG−8となった。
その間にも、カナダが入ったのだから豪州も参加したいと言い出したが、かつての宗主国英国が冷たく対応し参加は実現しなかった。
開放後の中国の参加問題が、中国の経済力の向上にともなって常に取りざたされたが、中国自身が希望しなかったため、今日まで実現しないでいる。
日本はG−6の拡大には常に反対であった。なにしろ欧米主要5カ国の中で、アジアの有色人国家がただ一人参加を認められたのだ。この特権を薄めたくはない。
ところがついに2008年のサミットで、しかも日本が議長国である時にサミットが13カ国に拡大することが決められるという。なんたるめぐり合わせだろう。
産経新聞の記事によれば、G−8に加え中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカの5カ国を加えた13カ国とする問題が正式議題になるという。
そして日本はいつものように、反対している。
日本は、サミット参加国の拡大問題を議題としないよう仏、英などに働きかけたという。
福田首相も町村官房長官も、そして安倍晋三前首相も、加盟国拡大に反対して、もはやこれ以上拡大しないで欲しい、と関係国の首脳にはたらきかけてきたという。
しかし、この問題を首脳会合で取り上げるというサルコジ仏大統領の意向は硬く、正式に議題に登録されたという。
産経新聞も書いているように、今度のサミットで拡大が決定される事が決まらないかもしれない。日本の抵抗で加盟国拡大問題が先送りされるかも知れない。
しかしサミット加盟国拡大は早晩避けられない。
それが現実だ。日米同盟最優先しか語ることのなかった日本の行き着く先である。
また一つ、日本の国際政治における優位性が失われていく。
75年のあの高揚感が夢のようだ。
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