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(回答先: 原田武夫 「ヒラリーは本当に“撤退”したのか?」 (6月17日) 投稿者 新世紀人 日時 2008 年 6 月 17 日 17:51:26)
イーグルクロー作戦
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イーグルクロー作戦(Operation Eagle Craw)とは、1979年11月4日に発生したイランのテヘランアメリカ大使館占拠事件で人質となった大使館員及びその家族ら53名を救出する目的で1980年4月24日〜同25日に行なわれた「テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦」の通称である。 アメリカ軍4軍を総動員させ臨み、デルタフォースを初めて投入した有名な作戦であるが、ヘリコプターのトラブルにより失敗している。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 ライスボール作戦
1.2 ヘリコプターの選択ミス
2 第二の救出作戦
3 余波
4 関連項目
[編集] 概要
1979年、イランにおいてルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、親米であったパフラヴィー朝に代わって政権を奪取した。これがイラン革命の勃発である。
このイラン革命により、親米派だったパフラヴィー朝に代わり反米勢力である反体制勢力が権力を掌握した。 そんな混乱の中1979年11月4日、失脚後エジプトに亡命したモハンマド・レザー・パフラヴィー前国王がガンを理由に渡米した事に激怒した革命軍の学生メンバーがテヘランにあるアメリカ大使館を襲撃し占拠する事件が発生、大使館員とその家族ら53人が人質となる事態となった。 詳細は大使館の項に詳しいが、外交関係に関するウィーン条約により、接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)とされ、この措置には事前予防の義務も含まれていたが、当時イラン大使館員に警備員が常駐していなかった事から侵入を許してしまった。 これに対し当時のアメリカ合衆国大統領であったジミー・カーターは人質を救出するべく陸軍・海軍・空軍・海兵隊のアメリカ軍4軍を総動員させる「イーグルクロー作戦」を立案、翌年4月24日に決行された。
その中でアメリカ海兵隊の掃海ヘリであるRH-53Dシースタリオンとアメリカ空軍の輸送機である8機のC-130 、2機のC-141を用い、人質を救出するライスボール作戦が決行されていた。 これは、仮設滑走路が設置されていたにマンザリヤ空軍基地(Manzariyeh Air Base)にデルタフォースを分乗させたC-130及びC-141を着陸させ、そこからペルシャ湾に展開している空母ニミッツから発艦した8機のRH-53Dに分乗させ郊外のサッカー場に着陸・展開し、占拠された大使館を急襲、人質を救出しサッカー場で同機に載せた後、同基地へ戻り、C-141に搭乗させイラン国外へ脱出すると言うものであった。
[編集] ライスボール作戦
マンザリヤ空軍基地には「デルタフォース」の隊員を搭乗させたC-130とC-141が到着し、RH-53Dの到着を待っていた。しかし、RH-53Dは途中で砂嵐に巻き込まれ、2機が視界不良でDesert Oneへ不時着した。さらに、同基地に到着したRH-53Dのうち1機が油圧トラブルで飛行できなくなり、作戦を中止せざるを得なくなってしまった。また、撤収準備に掛かっていたところ、移動中のRH-53Dが強風に煽られ近くに駐機していたC-130に激突し炎上、8名の死者と4名の負傷者を出すと言う最悪な幕引きで作戦は終了した。
[編集] ヘリコプターの選択ミス
ここで問題となったのがこの作戦失敗の原因となったRH-53Dである。 当初は全天候型であるHH-53Dを使用する筈であったが、収容能力等で海軍が難色を示したため、苦肉の策としてRH-53Dを使用した。ただしこのRH-53Dは掃海機であるため砂漠地帯での飛行には向いておらず、つまりは本来の運用目的外で運用したのである。元々このRH-53Dは投棄し爆破する予定だった為かアメリカ軍撤収後に残った6機はイラン海軍に接収された後、破壊されている。
[編集] 第二の救出作戦
このイーグルクロー作戦の失敗を受けて計画されたのが、Credible sport作戦である。
これは、3機のC-130にロケットエンジンを搭載し、STOL機として改修を施しサッカースタジアムに着陸してデルタフォースを展開させ、人質を救出すると言うものであった。 しかし3機のうち1機のYMC-130Hは試験飛行中に墜落し、2機目の同機は火災を起こし緊急着陸するという結果に終わり、作戦自体が中止になった。
[編集] 余波
この作戦の失敗は余りにも大きく、イーグルクロー作戦から5日後の4月30日に駐英イラン大使館占拠事件が発生し、同じくイギリス陸軍の特殊部隊SASが6日間の攻防の末に突入し事件を解決する等完全にアメリカの面子が潰れてしまい、さらにはソ連軍によるアフガニスタン侵攻を起こされる等、ジミー・カーター率いる民主党の支持率は下落し敗北、共和党のロナルド・レーガンに大統領の座を譲り退任した。
そしてアメリカ軍もこれを教訓として、アメリカ特殊作戦軍設立・育成を筆頭として陸軍は通称「ナイトストーカーズ」と呼ばれる第160特殊作戦航空連隊を、海軍はNavy SEALsから分割させたSEAL TEAM6(現DEVGRU)を設立している。
そして引渡しを要求していたモハンマド・レザー・パフラヴィー当人が死去し、対イランの資金凍結も解除した事から駐イランアメリカ大使館占拠事件で人質となった大使館員とその家族は、占拠から444日後の1981年1月20日に解放された。(皮肉にもこの日、カーターからレーガンにホワイトハウスを譲る日でもあった)。
[編集] 関連項目
デルタフォース
アメリカ軍
イラン革命
ジミー・カーター
この「イーグルクロー作戦」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています(関連:P:軍事/PJ軍事/PJ軍事史)。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6" より作成
カテゴリ: 20世紀の戦闘 | アメリカ合衆国の戦闘 | アメリカ合衆国の歴史 (現代) | 軍事関連のスタブ
[新世紀人コメント]
この結果、ソ連はアフガニスタンへ侵攻しカーター政権は終了の運命となった。
ブレジンスキーがカーターの背後についていた。
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