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2008年05月30日
「小泉構造改革」という言葉を今でも繰り返すメディアの罪
30日の朝日新聞は、連載経済記事である「変転経済」の最終回(48回)として、小泉構造改革を取り上げていた。
その記事が言おうとしている事はおおむね次の通りだ。
「 ・・・バブル崩壊後、改革を進められない政府・与党に国民は失望していた。
そこに登場したのが、「自民党をぶっ壊す」と宣言する小泉純一郎だった。
その変人宰相を利用する形で学者や経済人らが、自らの思いである抜本的な政策転換を図ろうとした。
集まった民間人には二つの流れがあった。一つは官僚主導の場当たり的な経済政策に失望していた経済学者ら、もう一つは米国型経営を志向する経営者らだ。
前者の代表が竹中や八代尚宏(上智大教授)、後者の代表が牛尾治朗(ウシオ電機会長)や宮内義彦(オリックス会長)だ。
両者に共通していたのは「時代に必要な抜本的な政策転換は、非官僚政権でやるしかない」という思いだった。
彼らは小泉が首相になる前から勉強会を重ねて小泉氏に考えを吹き込んだ。
郵政民営化に執念を燃やす小泉氏はそれに共鳴した。
もっとも、郵政改革しか興味の無い小泉氏と財界・学者のチームとは目指すものは同じではなかったが。
だから、皮肉にも、小泉改革は、郵政選挙の大勝を機に勢いを失った。小泉の熱が冷め、それが周囲にもわかったからだ。
宮内は言う。「小泉さんは・・・規制改革や公務員改革ももっと徹底してやらなければいけなかった・・・」
「戦後体制」を変えようというエネルギーが充満するなかで、小泉改革は歴史的必然だった。だが、政権内にも国民にも、目指す社会像の幅広い合意があったわけではない。
変人宰相の個性にたよった異端の政権の限界はそこにあった。
日本はいま、「改革疲れ」と格差社会への不安で、再び漂流を始めたかに見える・・・」
この朝日新聞の記事は一見もっともに見える。
しかし、意図的かどうかは不明だが、小泉政治の批判にはまるでなっていない。小泉改革のいかさまに何も触れていない。
奥田碩という小泉政権の最強の後ろ盾についての言及もなければ、小泉政治の最大の特徴である、売国的な対米従属政策についても一言の言及も無い。
それにもまして、この朝日の記事の最大の罪は、郵政改革しか中身のない小泉政権5年半を、いまだに「小泉構造改革」と呼んで誉めそやしている事だ。
しかもその郵政改革でさえ、牛尾氏がこの朝日の記事の中で証言しているように、「田中角栄元首相以来の経世会の利権つぶし」でしかなかったのに、である。
あの時、国民が求めていたのは本当の意味での改革だった。
ところが小泉元首相は、5年半も政権をあずかりながら、国民が求めていた改革は何一つしなかった。
小泉政権下でなされたことは、三流学者や利権目当ての財界人の、米国流新自由主義の導入でしかなかった。
政策に興味のない無能な小泉首相が、それを放置したのだ。
小泉政治の本性は、中央集権的な官僚支配を温存、強化する一方で、規制緩和、民営化の名の下に、格差を拡げ、弱者をいじめる政策の導入であったのだ。
それを小泉構造改革と詐称することはもういい加減止めたほうがいい。
今年2月上旬、小泉元首相の誘いで、郵政民営化をやった連中が都内のレストランに集まったという。その時の光景を、その朝日新聞が教えてくれている。
話題はもっぱら改革や郵政選挙に集中したという。
「民営化できたのは奇跡の塊だ。いや、面白かった。」
小泉の、オペラを楽しむかのような声が響き渡ったという。
ここにすべてが集約されている。その小泉が臆面もなく出てきて改革が足りないと叫んでいる。
我々は失われた5年半を今こそ取り戻さなくてはならない。
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