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1 近代民主政治の業としてのポピュリズム 大衆民主政治の病理を批判するときのポピュリズムという言葉は、最近日本語にも定着している。中身はないが大衆受けする政治家に対してポピュリストという悪罵を投げつけたくなるという気分が、この言葉に関する最大公約数であろう。したがって、イデオロギーの尺度に関しては右でも左でもポピュリズムの政治は成り立つ。小泉時代の日本のようにテロの脅威や官僚嫌いの気分を煽れば、警察・軍事を中心とする国家権力の強化を支持しつつ、後見主義的平等を忌避する右派的ポピュリズムが成立するし、チャベス政権のベネズエラのようにアメリカ嫌いや反グローバリズムの気分を煽れば、平等を求め経済的強者を排斥する左派的ポピュリズムが成立する。 しかし、ポピュリズムとは、論者が自らを高みに置いて批判していればすむという問題ではない。現代の民主政治においては、各人の知的能力や政治的関心の度合いには無関係に政治参加の権利が与えられている以上、大衆の気分が政治に大きな影響を与えることは不可避である。とくに、メディアが発達している現在、庶民の知恵と大衆の熱狂を識別し、前者が成り立つための条件について考察することが必要であろう。 一人一票を基本とする民主政治が定着して、国によっては百年以上の歴史が経過している。したがって、ポピュリズム批判もかなり長い歴史を持っている。今の民主政治を立て直すために必要な作業は、たとえばウォルター・リップマンがその主著『世論』(原著は1922年)で今から85年ほど前に指摘した民主政治の業と、現在グローバリズムの圧倒的な圧力の下で起こっている民主政治の変容を区別するということである。別の言葉を使えば、ポピュリズムにおける近代とポスト近代を区別する必要があるということである。 こんなことを考えるようになったのは、アメリカのリチャード・ニクソン元大統領の伝記映画「ニクソン」(オリヴァー・ストーン監督、1995年)を見た時以来である。1960年のアメリカ大統領選挙におけるケネディとニクソンのテレビ討論は、民主政治におけるテレビの影響力を決定的に高めた歴史的な画期であった。もちろん、ニクソンはメディア政治における自己演出についてケネディに遅れを取り、苦杯を嘗めたのであるが、そのときに彼の言った言葉が印象的であった。 「人々はケネディの中に自分がこうありたいと思うものを見出し、ニクソンの中に自分が実際にそうであるものを見出す」 ケネディ、ニクソン、それぞれの人となりが実際にどんなものかは重要ではない。メディアに映った政治家のイメージに人々は自分の美しい面と醜い面を重ね合わせるとニクソンは言いたかったのであろう。それこそが、近代的なポピュリズムの要諦であった。民主政治で勝利するためには、人々の持つ美しさ、有能さなどのプラスの価値を体現することが不可欠であった。 しかし、同じような関係が小泉元首相や最近の例で言えば橋下大阪府知事と選挙民の間に成立しているようには思えない。むしろ、普通の人々の意表を突くような過激で奇矯な発言こそ、これらの政治家の人気の源泉である。当代の人気政治家は、決して普通の人がこうありたいと願うような美点、長所を備えた人物像ではない。言い換えれば、かつてのような憧れを媒介とした人々と指導者の間の一体性は存在しない。この点は、ポピュリズムの変容を探る上で重要な手がかりとなるはずである。 このような問題意識のもとで、本稿では現代政治におけるポピュリズムの特徴について考えてみたい。特に、メディアの発達という媒体の変化と、グローバリズムや新自由主義という経済環境とがポピュリズムとどう結びついているかが、考察の焦点となる。そうした作業を行うために、まず、ポピュリズムを歴史的に振り返り、近代とポスト近代のポピュリズムの連続性と非連続性を見ておきたい。 2 ポピュリズムの構図 ポピュリズムの第1の特徴は、庶民(common man)の欲求と怨嗟を原動力としている点である。歴史的に振り返れば、1830年代のアメリカで出現したアンドリュー・ジャクソン大統領が最初のポピュリズム的リーダーであった。ジャクソンは、ジェファーソン、アダムズなど植民地時代以来の名望家、富豪の家柄ではなく、庶民出身の最初の大統領であった。ジャクソン政権時代のジャクソニアン・デモクラシーは、まさにコモンマンによる統治を掲げて、政府の変革を断行した。職業的行政官の存在こそ、民主主義を阻害するとして、行政の官職を広く政治任用によって開放した。この仕組みは、スポイルズ・システム(日本語では猟官制と訳される)と呼ばれている。官僚嫌いの歴史は古く、洋の東西も問わない。 第2の特徴は、指導者との直接的結合を目指すという点である。大規模な政治社会においては間接民主主義が不可欠となり、必然的に政党が重要な役割を演じるようになる。しかし、リーダーと庶民の間に存在する夾雑物への反感もまた、政党の歴史とともに古い。中途半端な代表者が間に挟まるから、民意が政治に正しく反映されないという不満は民主主義に付き物である。そこで、庶民とリーダーの間の媒介項を排除して、直接民主主義的な方法を重視するのもポピュリズムによくある特徴である。19世紀後半のフランスで、ナポレオン3世が国民投票によって皇帝に推戴されたのも、その典型例である。 直接性を強調するといっても、数千万から億に上る人口の巨大社会においては、本当の直接性は成立し得ない。ポピュリズムを支えるのは、常に神話やメディアを媒介とした擬似的直接性である。 第3の特徴は、単純な善悪二元論と敵と目されるものや異質なものの排除という発想である。ポピュリズムを支える庶民は、主観的には無垢の存在である。そして、善良な庶民を搾取したり虐げたりする敵が存在するという構図が常に存在する。庶民との直接的な結びつきを強調するリーダーが、そうした敵や悪をたたくことによって、ポピュリズムのエネルギーは調達される。 以上がポピュリズムの基本的な特徴であるが、19世紀から20世紀中ごろまでの近代と20世紀末以降のポスト近代とでは、大きな違いも存在する。基本的な前提としては、経済的達成と、メディアの発展の度合いに関する大きな違いがある。 ここでいう近代とポスト近代という2つの言葉は、イギリスの政治学者、コリン・クラウチの『ポストデモクラシー』(近藤康文訳、青灯社、2007年)から示唆を得た概念である。クラウチは、20世紀に確立し、1970年代まで維持された、組織的政治参加の拡大+平等主義的福祉国家プログラムのパッケージをデモクラシーの最盛期と捉え、1990年代以降、組織の弛緩と政治参加の停滞、新自由主義的経済構造改革の展開、不平等の拡大などが結合したポストデモクラシー段階が始まったと捉えている。こうした歴史区分は、リーダーシップのあり方や庶民、大衆を政治的に動員する方法についても当てはまる。言い換えれば、20世紀後半までのデモクラシー(ここでいう近代)と21世紀以降のデモクラシー(ここでいうポスト近代)を区別する必要がある。ポピュリズムはデモクラシー段階とポストデモクラシー段階の両方に存在するが、その内容は大きく異なる。 3 ポピュリズムにおける近代とポスト近代 近代のポピュリズムは、平等化のベクトルに沿って動いてきた。リーダーはコモンマンの代表あるいは化身であった。そして、政治という活動は、価値獲得の手段であった。19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカでは大企業の横暴に対抗する農民運動が活発化したが、そのスローガンは「富の分け前をよこせ(share our wealth)」であった。まさに、価値を再分配し、社会の平等化を進める政治運動がポピュリズムであった。 また、近代のポピュリズムは庶民の政治的能動性と結びついていた。ジャクソニアン・デモクラシーにおいては、庶民化が行政官職を庶民に開放することにつながったように、政治を庶民の手に取り戻すという時、庶民自身による政治的活動の拡大こそ、ポピュリズムの目標となった。ポピュリズムはしばしば大衆のデモンストレーションや直接的政治行動とも結びついた。 こうした傾向は20世紀にも持続した。そして、再分配と平等化を制度化することで、福祉国家が定着し、政治参加の拡大を制度化するなかで、コーポラティズムと呼ばれる大衆組織の政策決定への参加の仕組みが確立された。近代のデモクラシーにとって、平等主義的ポピュリズムは重要な動力の1つであった。 これに対して、ポスト近代のポピュリズムは、正反対のベクトルに沿って動いているように見える。まず、ポスト近代のポピュリズムは、差別のベクトルを内包している。たとえば現在の日本ではグローバリズムがもたらす経済的不平等はなかなか政治争点化しなかった。ポピュリズムは富の再分配や平等化とは結びつかない。むしろ、「公務員」対「民間の低賃金労働者」、「都市の無党派層」対「農民、建設業者」という、全体の貧富のスケールから見れば小さな差異が争点化される一方、「ヒルズ族」と「ワーキングプア」の間に存在するような巨視的な不平等は放置される。また、秩序を脅かすとみなされる異質な人々(外国人、犯罪者など)が排斥の対象となる。小泉純一郎という政治家は、まさに自民党内抵抗勢力、官僚など、次々と敵をあぶり出し、庶民を政治的に興奮させ続けた点で、天才的なポピュリストであった。今は、橋下大阪府知事がその小型版というところであろう。 リーダーとコモンマンの同質性はもはや消滅している。コモンマンの生活が次第に窮乏化する中で、たとえば石原ファミリーのようにしばしばセレブリティの側に属するリーダーはコモンマンの代表あるいは化身とはいえない。しかし、リーダーは、排斥すべき敵をコモンマンに示すことによって、コモンマンとの紐帯を確保しようとする。 また、ポスト近代のポピュリズムは、庶民の政治的受動性と結びつく。先進民主主義国では、フランスを除き、大衆の街頭運動など遠い過去の話となっている。日本では、メディアを通してリーダーが指し示す敵に対して憎悪を燃やすことで、庶民はリーダーの権力基盤を強化している。そこにおいて庶民は、自ら行動するよりも、与えられた構図の中でリーダーが期待する役割を演じるという受動的な性格を持っているにすぎない。先程紹介したポストデモクラシーの成立は、ポピュリズムの変容と軌を一にしている。 この点で、アメリカはポスト近代の例外という性格を持っている。20世紀初頭に確立された予備選挙というきわめて近代的な仕組みの中で、一般市民が積極的に活動し、ブッシュ時代に展開された格差拡大政策に対する義憤、公憤を訴えるという意味では、アメリカ政治は「近代」を思い出しているようにも見える。 4 消費文化と政治の変容 このようなポピュリズム及びリーダーシップの変容について、アメリカの社会学者、リチャード・セネットは、消費をキーワードに説明している。 「人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。すなわち、政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石けんの販売宣伝と変わりないのではないか。」(『不安な経済/漂流する個人』、森田典正訳、大月書店、2008年、138ページ) 小泉政権時代に日本でも展開した政治マーケティングのことを思い出せば、セネットの指摘には肯くしかない。しかし、セネットはだからといって、本稿で言うところの近代的なデモクラシーに回帰することを主張しているわけではない。経済社会の巨大な変化に対して、政治的理想が背を向けて変わらないとすれば、「理想は無益な懐旧以上のものではなくなる」と彼は言う(同書、140ページ)。 変化の不可逆性を認識しつつ、ポスト近代のポピュリズムが持つ陥穽をも見据えようというのがセネットの戦略であろう。彼は、現代の民主政治において、人々が市民から消費者・観客に移行することによって、「能動的に受動的状態に入ろうとしている」という逆説を見出す。その過程について、次の5つの要素を指摘している。第1に、政党・政治家の打ち出す政策が相似的になる。第2に、だからこそ政党・政治家は本質的ではない争点をめぐって対決を演じる。第3に、消費者・観客は、人間の持つ複雑性や曖昧さを受容できなくなる。第4に、人々はより利便性の高い政治を信頼するようになる。第3、第4の要素が重なり合えば、人々は、複雑な政策論を拒否し、単純明快な解決(英語で言うquick fix)を求めるようになる。第5に、継続的に供給される新しい政治製品を受け容れるよう促される(同書、164ページ)。 このような変化を発見し特徴づけることは、比較的容易である。しかし、市民としての能動性を回復し、民主政治を再生させる具体的な方法を提示することは困難である。とはいえ、2007年の参議院選挙に現れ民意であれ、現在のアメリカで展開しつつある政治参加の動きであれ、民意の中にはなにがしかの自己修正のメカニズムも存在する。本稿の結びとして、その可能性について考えてみたい。 5 民主政治のバージョンアップ 変化の不可逆性を認識するというセネットの戦略は、メディアと政治の関係を考える際にも有効である。ワイドショーによる政治の商品化がポピュリズムを助長し、市民の熟慮による政治参加という古典的民主政治の理念に逆行するという批判を唱えることは容易である。しかし、報道の自由があり、政治を娯楽として消費したいという需要が存在する限り、ワイドショーがなくなることはない。無益な懐旧を述べても仕方がないというセネットの主張は、メディア批判にもそのまま当てはまる。 社会保険庁の杜撰な業務や、道路予算の無駄遣いなど、政府が犯す明らかな誤りをたたくことは、民主政治におけるメディアの使命である。しかし、悪をたたくこと自体がステレオタイプ化するとき、思考停止が始まる。思考を停止したまま、悪をたたくことに共鳴し、そのことに満足している人々は、ポスト近代型ポピュリズムの担い手となる。このようなポピュリズムの蔓延は、民主政治を劣化させる。しかし、どこまでが正当な批判で、どこからがステレオタイプかを識別することは困難である。なるべく多様な言論を並存させ、そうした言論の摩擦や軋轢の中でステレオタイプを崩していくしか方法はない。 思考停止型のポピュリズムを打開する突破口は、「視点をずらす」(森達也)こと自体を商品化し、メディアの中に組み込むという作業である。視聴者の数を競うことなど、最初から考える必要はない。視点をずらすこと自体を面白がり、メディアに流布するステレオタイプを共有しない人間を一定数獲得することこそ、戦略的な課題となる。 たとえば昨年度新聞協会賞を受賞した「NHKスペシャル ワーキングプア」というノンフィクション番組は、いざなぎ景気以来の景気拡大といわれる状況において、貧困という別の角度から日本の現実を示すことに成功した。この番組は格差問題に関する世論を変える上で大きな役割を果たしたように思える。商業放送においても、ニッチを突くことによって視点を多様化することは可能なはずである。日本テレビのネットカフェ難民に関する報道など、その一例であろう。こうした番組が高い評価を得て、制作者や局への敬意が高まるだけでなく、関連書籍の出版等を含めて経済的利益をもたらすならば、市場の一角を確保することができる。そうなると、多様な視点が並存することが可能となる。 ウォルマートに代表される大量消費の資本主義文化に対抗する方策の1つとして、セネットは職人技(クラフトマンシップ)の重要性を指摘する。安価な大量生産の商品が市場にあふれるからこそ、手作りの製品も市場での居場所を確保できる。同じことはメディアにも当てはまるであろう。メディアが視点をずらす可能性を提示できるかどうかに、ポスト近代の民主主義の可能性がかかっているということができる。(「テレビが、作る世論」TBS調査情報5月ー6月号) |
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