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[歴史の評価]歴史を学ぶ意義とは?/イラク空自活動、名高裁の違憲判断を機会に再考する
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080418
【画像】山形、春の風景/2008年4月15日(右の画像は輪王寺(仙台)の風景)
霞城公園
[f:id:toxandoria:20080418165503j:image]
山寺
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光禅寺
[f:id:toxandoria:20080418165610j:image]
・・・これらの画像は、当記事と直接の関係はありません。この他の画像はギャラリーでご覧ください。
ギャラリー『山形、春の風景/2008年4月15日』
→ http://picasaweb.google.com/toxandoria/2008415
ギャラリー『仙台近郊、春の風景/2008年4月16日』
→ http://picasaweb.google.com/toxandoria/2008416
<注記1>
「イラクにおける航空自衛隊の活動」に対し名古屋高裁が違憲の判断を下したことを機会に、[005-03-31付toxandoriaの日記/パパ、歴史は何の役にたつの?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050331]を加筆&rewriteしたものです。
(プロローグ)
「イラクにおける航空自衛隊の活動」に対し名古屋高裁が違憲の判断を下しました。しかも、この司法判断は法解釈的に小細工を弄したものではなく、「イラク特措法の合憲性」と日本政府が示してきた法解釈を丁寧になぞりつつ、その流れから恣意的に外されてきた違憲性の論点(事実上の戦闘地域であるバグダットの中にムリヤリ合憲ルートを創ったこと)を見事に炙り出しています。
そして、イラクにおける航空自衛隊の活動が違憲との判断もさることながら、この判決には、より重要な観点が示されています。それは、この判決が「平和的生存権」(9条に違反する国の行為、つまり個人の生命や自由が侵害される行為に対して差し止め請求等どを求める権利)について触れていることです。その結果として、原告側の請求は棄却されながらも、実質的に原告側の勝利と見なせる判決となっており、別に言うならば、それは「形式的な国の勝利」で政府の顔を立てる一方、実質的には「主権者たる国民(原告)の勝利」を司法判断が保障したということです。
更に我われが見逃すべきでないのは、このような「日本の平和憲法」が紛れもなく歴史的な産物であるということです。今、政治哲学分野では「平和的生存権」の根源となる「自然権」について積極的な再解釈(ホッブス、ロック、ルソーらについての再解釈)の努力が行われているようですが、少なくとも、ロック・ルソーの理想主義的な社会契約論が我われの世界認識(民主主義・平和主義などアンチ全体主義的世界解釈)に良い意味で大きな影響を与え続けていることは間違いがなさそうです。
それは、例えば、ナチス・ドイツ(ヒトラー)の全体主義による過酷な歴史経験を蒙って(アイデンティティ上の深刻なダメージを受けて)アメリカへ移住したハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)の過酷な経験に裏付けられた政治哲学の存在が証明しています。このような歴史経験によって生まれたアレントの政治哲学の重要性について、政治学者の阿部 斎氏は次のように書いています(ハンナ・アレント著「人間の条件(ちくま学芸文庫)」-文庫版解説より-)。
『実際、アレントが批判したのは、マルクス主義あるいは社会主義にとどまらなかった。彼女が労働優位の社会として批判の対象としたのは、社会主義社会だけではない。自由主義社会もまた労働優位と経済重視の社会であり、その点では社会主義社会とまったく同じである。マルクスの誤謬は、アダム・スミスを始めとする古典経済学者の誤謬に由来し、それを一層精緻にしたものといってよいであろう。アレントは「人間の条件」において、自由主義社会と社会主義社会双方を含む現代社会全体を根底的に批判したのである。』
2008年4月18日付・日本経済新聞には次のような論点の記事(サブプライム・ローン騒動後の持続可能な世界を見据える視点)が掲載されており、“さすが日本経済新聞ダ!、ミゴトな変わり身の早さヨ!”と驚かされます。
『〜〜〜今回の金融危機の震源は1999年のグラス・スティーガル法(http://money.infobank.co.jp/contents/K300013.htm)廃止で銀行と証券の垣根が取り外されたことだ。ポールソン財務長官が発表しG7で承認された「金融安定化フォーラム」の勧告は、凶暴な資本主義に規律を取り戻し、制御可能な金融市場の再構築を目指したものだ。これまで進めてきた規制緩和路線の転換だ。今回の金融危機を教訓に再発防止のための制度設計が急務であり、リレギュレーション(再規制)の時代が始まろうとしている。金融危機が収まったとき、世界経済は大きく変質しているだろう。第一は、過去30年間、世界の潮流となってきた自由化、小さな政府、市場経済原理に代わり、規律と公益と環境を重視する時代が来る。第二は、主役の交代だ。米国の覇権は揺らぎ、価値観と生活様式が異なる多くの文明圏が共存する時代になるはずだ。第三は、国際的な大再編の始まりだ。・・・過去10年、我が国は構造改革の名の下に米国モデルを導入してきた。だが、世界の潮流が変わり始めた。せっかちな(?)四半期決算や時価会計で近視眼化した企業経営、従業員の処遇悪化と消費低迷をもたらした利益最優先経営、過度の自由化による秩序崩壊など、時代遅れのモデルの見直しが急務だ。・・・』
が、このように如何に“経済合理的”にこの世界を論じてみせてくれても、アレントが示すようなエピステーメ(episteme/理性的認識のための視座)が根本に存在しなければ、それは再び「砂上の楼閣=アポリアの山脈」を築く徒労に過ぎず、再び、多大な国民・市民層の被害者・犠牲者らを量産することだけに終わると思われます。現代日本における年金・福祉・医療・教育などの市民生活基盤が根底から揺らぎつつあるのは、我われ国民が、無反省に、しかも無自覚に、このような意味での「砂上の楼閣」を積み上げる仕事に甘んじてきたからに他なりません(ハンナ・アレントの重要なエピステーメについては、下記記事◆を参照乞う)。
◆[暴政]自民政権の正体は偽装保守のファシスト/いまさら!小泉の冷血の結果に狼狽するウブな日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080415
ともかくも、今のIT装備とグローバル化が進んだ世界が急激に変質・変化しつつあることは間違いがなさそうです。しかしながら、人間としての根本的な立ち位置は変わるはずがありません。この問題については、やはりハンナ・アレントが提起した「人間の条件=人間の活動的生活(viva acta)」を構成する『労働(labor)』、『仕事(work)』、『活動(action≒communication)』の三つ、及びこれらを前提とする『公共』の問題を論じなければなりませんが、敢えてここでは割愛します。問題は、欧米の市民社会およびその政治の環境・条件がこのようなアレント流のエピステーメを既に身に帯び、それらを血肉化してきたという現実がある一方、日本ではこの類の問題に気づいている人々が圧倒的な少数派であり続けてきたということです。
目前の国会運営に行き詰まり、“かわいそうなくらい苦労しているのに・・・と涙ぐむ”哀れな福田首相を尻目に、ますます意気軒昂となっているのが「小泉劇場」で稀代のペテン師・宰相を演じた小泉・前首相とそのシンパらです。そのような動向の中から党派を越えた『毒ダンゴ・三兄弟』という名のオドロオドロしい妖怪軍団までもが出現しています(参照、下記記事◆)。
◆またまた新発売 「三色毒ダンゴ」!/小泉、小池、前原氏らが会合=定期化検討−政界再編へ布石?、http://tekcat.blog21.fc2.com/blog-entry-631.html
また、ナチスのゲットーの如く非情な「後期高齢者医療保険」制度のスタートでビックリ狼狽する人々が増えつつありますが、そもそもこの制度の創設者こそが、偽装ファシスト・小泉前首相(既述の2008年4月18日付・日本経済新聞によれば“もはや時代遅れ”の人物!)であることを多くの国民は忘れ去っているようです(参照、下記記事◆)。ともかくも、このままでは、どのような方向へこれからの世界が変化して行こうとも、再び、先進諸国の中で日本だけが取り残される恐れがあります。だから、今こそ、歴史を学ぶという真摯な人々の限りなき人類愛の姿勢の中から「日本の平和憲法」がもたらされたものであること、およびその重要な歴史的意義について、我われは真剣に再学習する必要があると思われるのです。
◆2008-04-05付toxandoriaの日記/【改定版】冷血小泉の狂想が生んだ後期高齢者制度(ナチス・ガス室まがいシステム)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080405
(本論)
マルク・ブロック(Marc Block/1886-1944/仏の行動的な歴史学者/民衆の目線から歴史の意味を真摯に考え取り組みつつ第二次世界大戦のレジスタンスに身を投じナチス・ドイツにより逮捕・銃殺された)とリュシアン・フェーブル(Lucian Febvre/1878-1956/パリ・国立高等研究実技学院、第6部門(社会・済部門)の責任者となって、人間科学の革新に絶大な貢献を果たした仏の歴史学者)が、1929年に創刊した歴史学雑誌『アナール』 (Annales=年報)の目的は、喩えれば「パパ、歴史は何の役にたつのか教えてよ!」という幼い子供の声に答えるようなことです。「歴史的事実についての記録とデータを覚えておけば、受験競争・入社試験や社会生活で役に立つよ・・・」では答えになりません。「そんなことは知らなくたって、“仕事”ができれば自立して生きていけるじゃん!」と言われて終わりです。
それまでのフランスの歴史学は、“第三共和制史学”と呼ばれ、国家体制のサイドから政治的事件に偏った標準的なフランスの編年史を記述すること が仕事であるとされてきました。当然ながら、このあたりの事情はフランスに限ったことではなく、他の国々にもあてはまることでしょうが、20世紀初頭のフ ランスでこのような先進的な動き、つまり自国にかかわる批判的歴史認識の意識が芽生えたということ自体に重要な意味が見出せるはずです。
それは、民主主義意識の成熟度の問題だと考えることもできるでしょう。例えば、現在の<日本における歴史意識のお粗末さ>と比較することもできます。日本では、自国の近代史についての冷静な反省と批判意識が未だに定着しておらず、それどころか、近年は、特に若年層を中心に過去の軍国主義的ナショナリズム(小泉政権・安部政権はこの傾向を煽り、利用した)への共鳴すら(その反対の立場からのアジテーションの先鋭化も)見られるようになっています。これは明らかに歴史認識の重要性を真剣に取り上げる教育を放棄してきたことのツケが回った結果だと思われます。
それはともかく、ブロックとフェーブルは、19世紀末ごろからフランスの歴史学会を支配していた伝統的な歴史学の中から、その適切な答えを導くことは不可能だと感じていたのです。このため、彼らは、創刊した歴史学雑誌『アナール』によって人間の生活や文化のあらゆる事象を視野に入れた、広範で総合的な新しい歴史学の創造を目指すことにしたのです。やがて、彼らは「アナール学派」と呼ばれるようになります(この部分で、彼らの視点はハンナ・アレントの人間の条件の分析に重なる部分があると思われる)。
彼らが採用した歴史研究の方法規準には、様々な新しいエピステーメ(episteme/理性的認識のための視座)がありますが、最も特徴的な点 を一つを挙げるならば、それは“歴史は個々の事件の経過としてでなく、個々の要素に意味を与えるシステムという意味での全体として理解されなければならな い”ということです。別の言い方をすると“歴史が時間の流れに沿いつつ過去の人間の生きてきた軌跡を対象とする学問である限り、それは現在生きている人間 にとっては、歴史家の精神によって何らかの価値評価と方向性が与えられない限り単なる陳腐な歴史資料にとどまってしまう”ということです。
そして、歴史家の役割は、そのように絶えず新しく意味づけられる可能性を孕む歴史を学ぶことで、“多くの一般の人々が、人間や文化の多様性や、 自分たちとは異なる人々(外国人、政治的・宗教的な立場の違い、貧富差、感受性の違いなど)の存在(個々の心のあり方)を理解できるような精神環境(アレントの公共に近い概念?)を創ること”だというのです。このような歴史認識が一般国民の間で広がれば、自ずから国民一人ひとりの意識の対象が周辺環境から地球全体へと広がり、多様で個性的な文化価値や宗教・政治・経済などの違いを乗り越えて世界の平和と豊かさを協働で実現しようとする、いわば「世界市民意識・連帯意識」(本物の民主主義意識)のようなものが生まれるはずです。
ここで思い出されるのが、分子生物学者・清水博氏が唱え、生命現象の中核的な概念として大いに注目されている「関係子」と「場の情報」の関係ということです。清水氏は、人間の存在を広範な生物界全体に位置づけて捉えなおし、生命の働きについては、その全体とのかかわりの中で生成的、関係的、多義的に理解すべきだと考えているようです。そのためのキーワードが「関係子」であり、関係子が発生させる生命のリズムという「引き込み現象」に“いのち”の秘密を発見しようとしているのです(この考え方は、ジェームス・ギブソン(James Jerome Gibson/1904-1979/アメリカの認知心理学者)のアフォーダンス理論を連想させる)。
例えば、サッカーやラグビーなどの観戦で実感されることですが、微粒子(選手)が沢山集まってできる激しい動きには一種のチーム力のような、個 々の粒子の能力を超えた、その場の次元とは異なるような力(あるいはリズム)が発現することがあります。その時の“協働的な動き”を個々の微粒子(選手)が明確に意識しているかどうかは定かでありません。しかし、今も、たゆまず生成し続ける、そして生きた人間の活動が織りなす結果としての歴史についても同じような見方ができ るかもしれません。今、医学の最先端では人間の全遺伝子解析プロジェクトが一応終了したことで「遺伝子アルゴリズム」なる用語が生まれており、恰も人間が 遺伝子の設計図から立ち上がってくるかのようなイメージが喧伝されています。しかし、果たして機械製品などをパーツ(部品)から組み立てるように、科学合理的に理解できた遺伝子の組み合わせから人間を創ることなどできるのでしょうか(参照/下の注記■)?
<注記2>
■DNAのほんの一部だけが役立ち、残りの大部分がジャンクであるという常識が根底から覆されつつある(理研ゲノム科学総合研究センターの林崎良英氏らの最新研究の成果)、http://tftf-sawaki.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/rna_1514.html
清水氏によると、「関係子」が作用する「生命の場」では『フィード・バック』だけでなく『フィード・フォワード』と呼ぶ循環ループが形成されています。 フィード・フォワードを比喩的に表現するならば、それは“まず個々の粒子(分子)が自律的な個々の立場(自律的な役割)を守りながら“協働”して未来の「場」を創り、その未来の「場」から現在へ向けてバック・スキャン(BackSca)の光が当てられる”という循環ループのイメージ(働き)のことです。
清水氏が、初めて「関係子」の着想を得たのは、筋肉(骨格筋)におけるサルコメア(Sarcomea/筋繊維の一単位となる筋節)の立体構造がミオシン分子(Myosin/繊維 の単位となる蛋白質の一種)の運動に与える影響を研究している時でした。大雑把にいうと、筋肉の中にあるミオシン分子が、アクチン分子(Actin/筋肉内で繊維を形成し、ミオシン分子とともに筋肉の収縮にたずさわっている)との空間的位置関係から、それぞれ差異がある場所に置かれており、そのことによって却って全体として筋肉を効率よくスムーズに収縮させているのです。ここでミオシン分子は、それぞれが差異(アイディンティティの違い)を認め合った上で互いに協力し、全体としてサルコメアの秩序の高度な動きを自己組織化(オートポエーシス/Autopoiesis)していることになります。
このように、それぞれ自律的に働いているミオシン分子が集まり、全体の中で適切な役割を担い合っていくためには、まずその集まりであるサルコメア全体 (これが「場」に相当する)の運動に関する情報が各分子に伝えられ、各分子がその情報に基づいて自らの態度(協働のための意志決定に相当する)を決めることになります。この全体の状態に関する情報こそが「場の情報」または「位置の情報」です。つまり、これは筋肉システムのフィード・フオワード制御に必須の 「操作情報」なのです。そして、このような「場(位置)の情報」は、一般に位置と時間の推移によって変化することが分かっています。
次に、問題は、どのようなメカニズムで「場の情報」が創りだされるか、ということになります。一般に環境は複雑で、その変化を事前に予想し概念規定することはできません。このため、総ての操作情報(ここではフィード・フォワード制御に使う情報)を予め用意することはできません。そこで、状況に応じた適切な「操作情報」を「自己創生」する必要が出てくるのです。一般に「場の情報」は環境・システム・関係子の順に上から下へ流れており、環境やシステムの状態を部分的な要素である関係子へ上意下達的に伝えられますが、「関係子」の新しい役割を仮定した考え方では、個々の関係子群からの情報創生の結果(まず先行的に個々の関係子の情報が環境全体へ伝えられる)が、今度は瞬時に個々の関係子の現在の状態が上から下へと“逆行する状態”(関係子の立場が変わり、いわば環境全体からの操作情報がバックスキャンの光のような役割を担う)で運ばれ、その結果として、絶えずシステム全体では新たな「情報の循環ループ」が形成され続けることになります。
これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素の相互不可侵的な関係、つまり 要素と要素の孤立を前提とした関係だけが論じられてきました。しかし、それは環境とシステム、環境と要素の関係を意味的な面も含めて広く深く議論する方法を持っていなかったからです。今後は、環境の複雑さを前提として、「関係子」の概念の下で環境・システム・要素の三者の関係を取り扱うことができる新しい科学を創造し、環境の方から「関係子の立場に立つ人間」に送られてくる「場の情報」を、より深く読み取ることの重要性が認識されるべきです。
このように見てくると、「歴史」と「現在生きている人間」の関係も、この「環境・システム」と「関係子に相当する人間」の間で形成される「情報 の循環ループ」に喩えることができるかもしれません。無論、歴史は過去の事象の総体ですから“現在、生きている環境・システム”ではありませんが、仮に、歴史が生命体における過去の環境・システムを内包した遺伝子(及び潜在意識)のようなものであるとすれば、「歴史環境」は現在生きる個々の人間との間で フィード・バック&フィード・フォワードのループを形成し続けることになります。このように考えると、絶えず批判的な意識を活性化させることによって新し い歴史認識を発見し続けることが如何に重要であるかが容易に理解できるはずです。しかし、この「歴史環境」は、フランスのアナール学派のように意識的に取 り組まなければ、読みたくもなければ面白くもない、単なる歴史(記録・文献資料類)として眠り続けるだけです。
ところで、残念なのは、このような意味で歴史を学ぶことの意義(重要性)が、今の日本人の意識構造からスッポリと抜け落ちているように見えることです。この点に悪乗りしているのが小泉・前総理大臣の「靖国神社参拝問題」と「政教分離の原則」を徹底的に無視する姿勢であり、かの「安部・前総理大臣の美しい国」です。これほど浅はかな歴史認識しか持てない、いわば香具師・詐欺師的(トリックスター的)で暗黒世界に棲む妖怪のような雰囲気を臭わせる総理大臣が、大多数の国民にとって唯一のホープ(日本の未来の救世主)とならざるを得ないところに、またそのリバイバルを期待するメディアが数多いという現実に日本の「貧困な民主主義」の危機が象徴されています。
<注記3>
香具師的・詐欺師的(トリックスター的)な政治の果実が、各種特別会計・道路特定財源・軍需利権・教育行政などの分野での際限がない『擬装・ヤラセ・窃盗・猫糞の発覚』で立ち往生したのが「安倍政権」であり、同じく、只管うろたえ続けるのが「福田政権」である。従って、実は、この悪魔的で際限がない『擬装・ヤラセ・窃盗・猫糞』の隠れ守護神的存在が小泉前首相であることを見据えておくべきである。決して、これは感情論などではなく、下記の内容(★)を冷静に確認すれば理解できることである。
★2005-11-14付toxandoriaの日記/「小泉劇場」の七つの大罪/「ポスト小泉体制」を批判する心構え/http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20051114より
(1)盲目的に「新自由主義思想(neoliberalism)」に心酔し、米国指令の対日要望書に基づき隷属的対米関係を一層深刻化させた(<参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829)
(2)憲法上の政教分離の原則を蹂躙し(複数のカルトが国政の中枢を侵食するままにして)、維新期〜太平洋戦争期のファシズム的熱狂(神憑りの軍事国体論)を引きずるアナクロ・ナショナリズムの流れを国政の中枢へ呼び込んだ(この象徴が靖国神社参拝問題)
(3)日本国憲法の「主権在民の根本たる授権規範性」を蹂躙した(非武力的クーデタによる国会解散劇を偽装した)
(4)「改革の美名」の下で成果を上げ得ぬばかりか、公約を破り財政赤字額(国債)・約250兆円を増加させ国家危機を深刻化させた( ← そんなコトは大した問題ではない!の暴言のオマケ付き)
(5)「政治的倫理」を冒涜し、日本の政治を下卑たポルノクラシー(芸能・淫猥政治化)まで低下させた(参照 → http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050829)
(6)「非合理な外交」によって、世界の潮流の中で日本を孤立化させた(戦争の当事国である米国自身がその誤りを認めているにもかかわらず、“イラク戦争=正当論”を未だに貫くまま自国の立場をほったらかしにしているのは日本政府のみ)
(7)青少年及び弱者層(=社会構成の多様性)に対する理解と慈愛に欠け、日本の教育・医療・福祉環境を著しく劣化させた(参照 →http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050610/p1)
このような事態を日本にもたらした一つの理由は、徹底的儲け主義経営のレベルまで堕落した、過半のマスコミによる時の政権に迎合した世論操作(中央権力に迎合したマスコミ機関は、IT化の進展等による厳しい経営環境下で、権力側のメディア・コントロールにますます意識的に加担する傾向が窺える)の存在です。また、主要な知識人(特に、経済財政諮問会議などにたむろする御用学者)たちの怠慢ということもあります。それは、アカデミズムの特権的な立場を維持するために専門知識を一般国民向けに分かりやすく語ることを拒絶し、それどころか、例えば「アーミテージ報告(米国防大学国家戦略研究所(INSS)特別報告書/参照、http://www.hyogo-kokyoso.com/infobox/messages/155.shtml)」や「対日年次改革要望書/参照、http://night-news.moe-nifty.com/blog/2004/08/post_9.htmlのような覇権国家(米国)の押し付けを押し頂く一方で、対内的には権威主義的トートロジー(同義語反復)解釈による難解な論文を量産して過半の日本国民を煙に巻くという有様です。
もう一つは、世界でも稀な「日本人独特の民衆意識の伝統」のようなものが根強く存在することです。日本人の「平等」という考え方の中には二つの異なる思想が混在しています。一つは、明治以降に西洋から入ってきた啓蒙思想の影響です。この思想を真剣に受け継ぐ国民は、残念ながら日本では少数派です。二つ目は、奈良時代以降の長い伝統を持つ「神仏習合思想」 (syncretism)から生まれた「葬式仏教」や「お払い神道」という、いわば日常生活レベルの伝統・習慣の中に染み込んでいる「民衆思想」です。特に江戸時代は厳しい身分・階層の差別社会であったにもかかわらず、意外なことに、これらの伝統・習慣の中には“独特の人間平等観”が存在したのです。敢えて詳細に立ち入ることはしませんが、神仏の前に立つ日本人は平等であるという一種の仲間意識のような精神風土が存在したのです。その仲立ちをしてきたのが農作業・経済・宗教などの目的ごとに結成された「講」集団です。
いってみれば「講」とは、社寺等を中心とする一般民衆の相互扶助と助け合いのネットワークです。一方で、身分的な位階構造に組み込まれていた社寺の組織が、このようなネットワークによって民衆と結びつくことで、そこから一種独特の平等観が生まれていました。明治以降になると、このような民衆意識は「新興宗教」の中に生き残り現代に至っています。この民衆思想の「負の側面」と見做すべき特徴は、有体に言えば“政治権力者の性善説を前提とする親方日の丸的な一家意識”です。従って、このような「日本独特の平等観」は、ひたすら神仏や霊的・迷信的な世界を前提にして導かれるという意味で、近代啓蒙思想が説くイデオロギー的な「自由・平等・博愛」の公共を前提とする「平等」とは全く異質です。このため、日本の一般国民(庶民)が靖国神社が成立するまでの歴史的経緯を意識しない(知らない)限り、何の疑いもなく小泉総理大臣の靖国参拝に共鳴するようになるのは当然であり、不思議なことではありません。 それは新年の元旦参りと何も変わることがないからです。ただ、何故かそこには“いささか格好の良い神様”(当然、直感的に毛嫌いする人々も存在する・・・)が鎮座されておわします、という訳です。
このような民衆思想のもう一つの特徴は、それが普通は殆ど政治的な世界と触れ合うことがない庶民の習俗的生活に基盤を持ってきたということで す。例えば、江戸時代の初期に存在した「富士講」(富士山信仰を基盤とした講)の教えの根本は「天下泰平、一家繁栄、病苦退散」という、きわめて現世利益的なものであり、視野が狭いと言えばそれまでのことですが、「政治に対する批判精神」のようなものが全く存在しません。これに対して、日本の知識人たち は、これら民衆の世界とは遠くかけ離れた上等な殿上の精神世界に住んできました。当然ながら、彼らには日本政治のメカニズムが見えていたのですが、これら知識人たち は自分たちの世界と自分たちの特権的な生活を守るために、決して庶民の目を政治批判へ結びつけようとはしませんでした。 これは、恰も現代の御用学者らと同じ精神環境です。
従って、日本の庶民が持つ「平等意識」は、伝統的に政治批判や反体制思想に直結することがなかったのです。無論、このように庶民が日常生活を支 え合った日本独自の習俗的な側面は“和を大事にする人間関係、身近な弱者に対する思いやり、触れ合いと癒し、相互の助け合い”など、いわば「日本の庶民文化の美徳」として大いに評価されるべき点もあると思われます。しかし、グローバリズムと市場原理主義的な政治・経済環境が否応なく進んできた中で、この日本伝統の習俗や習慣の美徳の側面が「構造改革・規制緩和の名目」と「小泉首相の詐術」で破壊され、残ったのは、きわめて現世利益的で自己中心主義(利己主義)的な側面だけとなってしまったのです。このため、今や日本の国民・庶民の間では自己中心的な意識だけが突出しています。このような状況の中で、あの自衛隊イラク派遣に伴う「政府責任」の論点を「民間人の人質3人」へ転嫁したバッシング事件が起こり、単純な「自己責任論」に安易に共鳴するという、あまりにも素朴過ぎる日本国民の「利己主義のマグマ(大衆心理)」が爆発したのです。
また、知識人やマスコミ人の多くは、江戸時代以前の知識人たちと同じように、現代においても、未だに庶民とは異なる上部の精神世界に安住し続けて下界を見下しているのです。このため、彼らにとっての民衆(一般国民・庶民)の存在はメシの種か商売道具以外の何物でもないのです。このように見てくると、日本で本格的な近代民主主義が完成するまでには、これからも相当の時間を覚悟する必要があります。しかしながら、だからこそ、今回、「イラクにおける航空自衛隊の活動」に対し名古屋高裁が違憲の判断を下したことの意義は非情に大きいと考えられます。それは、これまで述べたとおり、我われ日本国民に「歴史と正しく向き合うことの大切さ」を改めて知らしめたと思われるからです。
ところで、何よりも恐ろしいのは日本の一般国民の中に「公共善」を重視し、「権力者の不正や誤り」を厳しく批判し糾弾する意識が殆ど育っていないことで す。それどころか、現実はまったく逆であり、日本の社会には“長い物には巻かれろ!、お上のご意向には逆らうな!、錦の御旗に逆らうのは国賊だ!”のようなきわめて低劣な意識が未だに根付いています。
「イラク戦争」へ突入直前のホワイトハウスをドキュメント風に描写した本、ボブ・ウッドワード著『攻撃計画』(日本経済新聞社)の中でブッシュ大統領の拙速な開戦論を、中道派のパウエル国務長官が“イラク人の立場(歴史・文化など)を十分考えて、もっと時間をかけて対応すべきだ”と諌める場面がありますが、このパウエルに対しブッシュは次のように答えています。・・・「イラクの歴史なんか関係ないよ、時間が経てば、みんな死んでしまっているさ」・・・ここにはブッシュ大統領の浅はかな 歴史認識が露呈しています。また、彼が、ホンネでは異文化・人間性・人権などを軽視していることが現れています。そして、このような点でブッシュ大統領と 前・小泉首相は似た者どうしです。情けないことですが、これら日米両国トップの歴史と文化についての低劣な意識の日米共有は、現在までの「ゆるぎない日米関係」が低次元な結びつきであったことを意味します。
言ってしまえば、これら日米両首脳 (ブッシュ&小泉)に共通する特徴は、先ず“根本的・核心的な問題を自分の頭で考えられない恐るべき幼児性”ということです。当然ながら、ハンナ・アレントの『人間の条件』についての考察などは屁の河童です。また、彼らは、自分にとって不都合な事柄については、その一切の責任を他人に押し付けるという卑怯な精神の持ち主であり、ノブレス・オブリージュから最もほど遠い存在です。そればかりか、この両人は、自らの権力を嵩(かさ)に着て弱い立場の人々を悪人に仕立て、あるいは弱者層の国民を徹底的に叩くことを好むサディスト・タイプの暴君(タイラント/tyrant)の本性を共有しているようです。しかしながら、混迷の前で立ち往生する福田政権を目の前にして、再び、日本には“歴史に無知な暴君になる恐れがある詐欺師・宰相”にすがり付こうとする空気が生まれつつあることが懸念されます。メディアの多くが、その方向へ擦り寄っていく気配もあります。
ともかくも、繰り返しになりますが、現代世界の状況とともに絶えず新しく意味づけられる可能性を孕む歴史を学ぶことで、“できる限り多くの一般の人々が、人間と文化の多様性、 自分たちとは異なる人々(外国人、政治的・宗教的な立場の違い、貧富差、感受性の違いなど)の存在(個々の心のあり方)を理解できる精神環境(ハンナ・アレントの公共に近似する概念)を創ること”だということです。このような歴史認識が一般国民の間に広がるようになれば、自ずから国民一人ひとりの意識の対象が周辺環境から地球全体へと広がり、多様で個性的な文化価値や宗教・政治・経済などの違いを乗り越えて世界の平和と豊かさを協働で実現しようとする、いわば「世界市民意識・連帯意識」(本物の民主主義意識)のようなものが生まれるはずです。
このような観点からすれば「歴史を学ぶこと」は、我われ“現在に生きる人間”が過去と未来の人々に対する責任(でき得る限り正しく判断する責任)を果たしつつ倫理的な選択を持続的に実践することだと見なすことが可能です。人間は、ブッシュや小泉らが思い込んでいるように「過去の歴史と未来を小バカにできる」ほど利巧であるはずがないのです。
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