『1978・3・26 NARITA』出版 元被告を中心に仲間たちが集った 歴史を語り継ぎ共有するために 新しい時代を つくった闘い 四月十二日、新宿のベトナム料理店「フォンベト」で『管制塔占拠30周年の集い』が集会実行委の主催で開かれ、一九七八年三月二十六日、三里塚開港阻止決戦を闘った仲間たち、損害賠償との闘いを支援した仲間たちなど七十五人が集まった。30周年記念の中心企画は開港阻止闘争の全貌を明らかにした『1978・3・ 26 NARITA』の出版で、この集いは出版記念会として行われた。 司会を管制塔元被告の中路秀夫さんが行った。中路さんは「出来上がったばかりの本を読んで身につまされた。3・26闘争によって人々が変わり、新しい人々になってしまった」と感想を述べた後に、会を出発させた。最初に出版を引き受けた結書房の中沢透社長が「3・26闘争を組織した和多田は六〇年安保闘争、東大闘争から三里塚闘争まで担ってきた。負の側面を背負いながら闘ってきた。3・26闘争は新しい時代をつくる突破口となった」と闘いの意義を語り、その記録を出版できたことの喜びを述べた。 新山同志の死 に思いを込め 当初、この本の大半を一人で書き上げようとした和多田粂夫さん(管制塔元被告)は「ダンボール五箱の管制塔裁判記録を読んで見たが、残念ながら文章としてまとめることはできなかった。それでこの本は聞き書きになった。昨日出来上がった本を涙ながらに読んだ。三十年前の記憶は間違いが多く、記憶によって事実が作り変えられてしまうこともある。そんな中でも私の記憶が一番間違いが少ないと思う。もう一度調査しようということで本を仕上げた。なんと言っても、新山の死がものすごく重かった。私の指示が間違っていたのかどうか。新山たちが炎上してもなお、警察と格闘しなかったら、管制塔部隊は建物に入れなかった。管制塔被告たちによると、新山たちは管制塔部隊に続いて立ち上がり、突入しようとしたというのだ。ものすごく複雑だ。作戦に様々な不備があったことは反省している」と作戦について語った。 管制塔裁判を担った虎頭昭夫弁護士が「この本が生まれるきっかけをつくったのは実は国家権力だ。民事差し押さえ攻撃をしかけたのに対して、一億円カンパ運動ではねかえした。その時の盛り上がったエネルギーを本の製作にあてたらと私が提案した。それが実現して本当によかった」と本が作られたいきさつを語った。 中川憲一さん(管制塔元被告)は「家族の座談会に参加していたかみさんからタイトルに『オヤジたちの証言』とあるが、私はいつからオヤジになったのかと伝えてくれと言われた」ことを紹介しながら「これまでもよくがんばってきた。これからもがんばろう」と乾杯の音頭をとった。 次々に紹介さ れたエピソード 管制塔被告団支援第一応援歌の合唱、スライドによる三里塚現地状況の報告が行われた。続いて、3・26闘争を担った三党派からあいさつが行われた。インターから大門健一さん。「二つのことを言いたい。ひとつは新山の死について。彼とは郷里が同じ秋田だったので、何年か前に墓参りに行った。自民党の国会議員が新山の墓参りをしていたことを知った。そうした関係を3・26闘争はつくりだしていた。二つ目は八ゲートの撤退命令を出した後、戻ってくるまでの時間が長かったことだ。ものすごく苦しかったことが心に残っている。3・26闘争とは何だったのかこれからも考えていかなければならない」。工人社の白川真澄さん。「3・26闘争は若くしてゴールドメダリストになったようだった。当時はその後、どうするかは考えなかった。どんな生き方をするのか、悩んだり考えたりしてきた。現在は社会の底辺からの反撃が始まっている」。アクティオネットワークの牧原さん。「戦旗やブントの名前を使っていない。未来志向で考えたい。人間の尊厳を守る闘いであった」。 「大義の春」の上映後、当時ともに闘った仲間がエピソードを次々と披露した。インターの赤メットをかぶり「三里塚空港粉砕!」のシュプレヒコールを全員で挙げた時、会は最高に盛り上がった。 かつて管制塔被告奪還のために全国行脚を行った画家の田島義夫さんがわざわざ故郷の信州から参加してくれた。田島さんは「茨城県で起きた保険殺人波崎事件の無実死刑囚富山さん(すでに本人が獄死してしまい、遺族が再審を求めている)の救援運動にかかわり、その事件を小説に書くに当たって、元被告たちの獄中体験を知りたいという思いもあって参加した」ことを語った。一億円カンパ運動を担った勝手連は名古屋、岩手からも参加した。岩手の仲間は「六ヶ所村で再処理工場が本格稼動しようとしている。それを止めるために署名を」と訴えた。 最後に、参加した管制塔元被告たちが全員並びあいさつした。山下和夫さん。「四十年目をやるといっていたが最後の最後までつきあう」。佐藤一郎さん。「いろんなエピソードが出て盛り上がってよかった。これからもよろしく」。管制塔占拠闘争隊長の前田道彦さんが「NHK千葉放送局が今年三月二十六日に放映した番組のために、管制塔に駆け上がるために出てきたマンホールを三月に見てきた。一発でマンホールが分かった。なぜなら、この場所は変わっていなかったからだ。『大義の春』ではみんなりりしいが、三十年経って私たちは腹が出てきてしまい、変わったのはわれわれだ(中川さんから腹が出ているのは前田だけだとヤジ)。中川さんはいつもこれだから。マンホールの中でも、いろいろ言うから、私は外との連絡がとれるトランシーバーを壊して作戦を決行した。実は中川さんは十六階占拠メンバーではなかったのに、十六階を占拠しVサインを報道のヘリに向かって行って一番目立った(一同大笑い)。つらいこともあったが、おもしろかった。闘った仲間はみんな元気だ。3・26闘争はみんなの闘いだった」。 原勲さんの墓 に参って報告 翌日、横堀団結小屋の中で、管制塔元被告の原勲さんの墓参りを行った。東峰現地集会参加者も参加した。中川憲一さん、和多田粂夫さんのあいさつの後、前田道彦さんが「原君がここにいる限り、空港は完成しない。生きている限りこの気持ちを共有したい。私が3・26闘争を闘った時、二十五歳であった。今日、ここに若い人たちが来てくれていて本当にうれしい」と述べた。 次に、地元に住んでいる大森万造さんが「反対同盟農民たちと力を合わせて、国の横暴に異議を唱えた。傷ついたり、命を落としていった人がたくさんでた。権力の方も犠牲者がでた。こうした犠牲がムダにならないように、思い返せるきっかけになったらと原君の墓参りを毎年行っている」と報告した。いつもは十人にも満たない人数で行っているということで、今回は七十人を超える人々の参加に、みんな大喜びであった。その後、東峰現地集会で前田さんがあいさつをした。ぜひ、『1978・3・26 NARITA』を読み、3・26闘争とは何であったのか、語りついでいこう。新時代社でも取り扱っています。 (M)
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