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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080410/152787/?P=1
われわれ物書きにとって切実な問題である名誉毀損訴訟に興味をもち、ある裁判の傍聴に何度か通っている。恥ずかしながら、法学部出身のくせに、法廷に初めて足を踏み入れることになった。そして発見したのだが、裁判というのは想像以上にスリリングだ。被告人の口頭弁論など、言い古された言葉だが、下手なテレビドラマより面白い。 黒い法服をまとった裁判長の口調は丁寧で、声量も大きくないが、有無を言わせぬ迫力がある。権力を笠に着て、というのはこういう人を言うのだなあ、と妙に感心した。 でも自分が人を裁く立場になりたいか、といったら真っ平ごめんである。 そんな志はなかったから、ひたすらアホウ学徒の道を突き進んで今があるわけだし、間違った判決を下して誰かの人生を狂わせた挙げ句、逆恨みでもされたらたまったものではない。 しかし、世の中、何が起こるかわからない。あなたも私も、国家権力を背景に、本物の刑事被告人と対峙し、生死を含めた、その人の命運を左右する仕事につく可能性が出てきた。来年5月までに実施されることが決まっている裁判員制度によってである。 同制度は、法曹三者(裁判官・検察官・弁護士)の現場の声とはまったく別に、小渕内閣によって設置された司法制度改革審議会による「国民の司法参加」という提言が発端となっている。 死刑、無期懲役、無期禁錮といった重大な刑事事件の一審において適用され、この制度下で裁かれることを被告は拒否できない。ひとつの事件を9人で担当し、うち3人が裁判官、6人が裁判員である。評決(最終的な判決)は9人の多数決(5人以上の過半数)によるが、最低、1人の裁判官の同意を含まなければならない。 裁判員は有権者の間から抽選という無作為方式で選ばれ、親の介護や自分の病気といった特別な事情をもつ人でなければ免除されず、いつ何時、指名されるかわからない。いわば現代の赤紙、召集令状なのである。 しかも殺人事件を担当しようものなら、見たくもない、血みどろの現場写真を見せられ、耳をふさぎたくなるような凄惨な話を延々と聞かされる。おまけに、裁判員として関わった事件の評決内容を一言でも口外しようものなら、懲役刑に処せられる。死刑判決に関わる人ももちろん出てくる。「司法参加」どころか、「苦役参加」となる国民が多いのではないか。 プロが付くから大丈夫、といっても 本書は、判事(裁判官)を10年勤めた経歴をもつ弁護士が、法律のド素人が裁判担当者となる、この制度の、数々の欠陥と違憲性を噛んで含めるように説き、一刻も早い廃止を訴える内容である。 なぜ違憲なのか。そもそも日本は三権分立で、かつ国民主権の民主主義国家である。国民主権を実現するには、立法、行政、司法それぞれに、十分な民意が反映されなければならない。立法には、国会議員の選挙を通じて直接、行政に対しては、国会における内閣総理大臣の指名を経て間接的に民意が反映されている。 唯一、民意が反映されていないように見えるのが司法である(最高裁判所長官に対する国民審査について、著者は触れていないが、あれは誰が見ても形式的なものだろう)。 しかし、違うのだ。憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という規定があるが、憲法と法律(この2つを合わせて法令という)こそ、民意の塊であり、それらに拘束されるという意味で、司法にも、民意は反映されている、というのが著者の主張だ。 〈憲法が裁判官に対し法令に基づく裁判を命じたのは、国民主権原理を司法の場に届かせるため(司法の民主的コントロール)であり、この法令に基づく裁判の要請が司法の民主的コントロールの手段として唯一のものである〉 法令に基づく裁判をするためには、法令を知っていること、さらに言えば、最低限、法律の素養があることが不可欠だ。 そのためには、殺人罪における「人」とは何か、といった法概念(例えば、胎児は人なのか否か)、字面は一致していても日常語の意味を超えて使われる用語(例えば、部屋でだけではなく、走行中のバイクの後部座席に無理やり乗せられた場合も「監禁」となる)、罪によって異なる保護法益(例えば、殺人の場合は人、放火の場合は公共の平穏)など、おさえておくべき事項は山ほどある。ああ、アホウ学徒も頭が痛い。 いくらプロの裁判官が3人同席するとはいえ、毎回、無作為に選ばれる6人の裁判員には、こうした法律の素養が期待できないし、法令も知らない。その結果、法令に基づかない、基準なき裁判、どんな結論が出てくるかわからない裁判が出現するというのである。 結局、裁判員制度の施行は日本の司法のあり方を大きく転換させることになる。法律のプロが、真相解明をめざし、慎重に証拠を検討し、事実認定を下す現行の刑事裁判から、真の盗人が誰だかわからないので、入れ札で犯人を決める江戸時代のやり方に戻ることを意味する、というわけだ。著者はこうも言う。 〈私は被告人が犯人かどうかを多数決で決めること自体に反対です。元来、民主主義で決めることではないと思うのです。被告人が犯人かどうかは、刑事訴訟を規律する法令に従って、証拠いかんによって、慎重に判断すべきものだと思います〉 つい最近のことである。知り合いの女性弁護士が、裁判員制度導入のための模擬裁判で、ヤクザの情夫を刺してしまった女性被告人役を担当した。検察の求刑は懲役13年だったが、6人の裁判員のうち、1人の主婦が、「愛人だから悪い女に違いない。5年や10年で、刑務所から出てくるなんて軽すぎる。求刑13年でもまだ軽い」と主張した。 模擬裁判が終わった後に懇親会があって、弁護士が身分を明かし、「私が本妻で、夫の暴力に耐えかねたうえで刺してしまったら、どうでしたか」と聞いたら、「その場合は正当防衛が成立し無罪です」との答え。「同じことをやっても本妻なら無罪で、愛人だったら13年。感情裁判ですね」と弁護士は大きなため息をついた。 この制度、内実を知れば知るほど、馬鹿げたものに思えてくる。例えば、検察、被告人が控訴したら、第二審からは、裁判官のみによる裁判に逆戻りするのだ。国民の司法参加を象徴する“お飾り”ということなのかもしれないが、お金とエネルギーの莫大な無駄としか思えない。 また、著者によれば、新聞やテレビには政府の広報予算がばらまかれているため、報道内容にバイアスがかかっているという。よって本書を含め、複数の書籍や雑誌論文での情報収集をお勧めする。 新書でいえば、平凡社新書の『裁判員制度』(丸田隆著)が「世界的に見て、裁判が職業裁判官だけで担われているのは日本だけ」といった論調で、制度の推進を主張する。しかし、「司法参加は民主主義の前提であり、国民の権利そして義務だ」と言われても、先に紹介した模擬裁判のような実態では、裁判員になるのも裁判員に裁かれるのも、どちらも御免こうむりたい。 施行まで約1年、どうにかなるのか? 一方、講談社現代新書の『裁判員制度の正体』(西野喜一著)は、「裁判員に選ばれると、こんなに七面倒くさいことが待っている」という論調で、制度の欺瞞性を摘出している。 「裁判員制度を討つ」理論編が本書だとしたら、裁判員になるのを免れる技術も掲載されている『裁判員の正体』は実践編と言えよう。あわせて読まれたい。 ここまで来たら、政府は面子にかけて制度をスタートさせるだろう。何しろ、平成18年度だけで、裁判員制度の広報予算が最高裁分で13億円、法務省分で3億円も費やされているというから。 制度をつぶすには、国会の議決によって、速やかに裁判員法(「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」)を廃止するしかない、というのが本書の結論である。施行の期限まであと1年あまり。その間、国政選挙はないものか。必ずや争点になる気がするのだが。 (文/荻野進介、企画・編集/須藤輝&連結社) |
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