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http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080411dde012040034000c.html
特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 多田富雄さん
<おちおち死んではいられない>
◇今の政治は病んでいる−−免疫学者・74歳・多田富雄さん
◇後期高齢者医療制度は姥捨てです 反乱起こしたいぐらい
「歌占(うたうら)」
死んだと思われて三日目に蘇(よみがえ)った若い男は
白髪の老人になって言った
俺(おれ)は地獄を見てきたのだと
そして誰にも分からない言葉で語り始めた
詩集「歌占」(藤原書店)より
非の打ち所のない人生。01年5月2日までの多田富雄さんの人生はそれだった。若くして免疫学で世界的な業績を上げ、東大教授に。世界を駆け回るかたわら鼓を打ち、脳死や相対性理論を主題に能も書いた。
だがその日、脳梗塞(こうそく)で倒れ、半身不随になった。歩くことも、語ることも、水を飲むことさえもできなくなった。詩の中の白髪の老人は、多田さんだ。一時は死を望んだ。
■
桜を散らす雨が上がった午後、東京都文京区のご自宅を訪ねた。いかめしい老学者を想像していて、拍子抜けした。さまざまな茶色の糸で編まれたセーターを着て、車椅子に座ってはにかむように笑っていた。
でも言葉は鋭い。政府が「長寿」と言い換えた後期高齢者医療制度について聞くと、キーを打つと音声になる「トーキングマシン」で、「ウバステ(姥捨て)デスネ」。あまりに率直な表現に「ぷっ」と噴き出すと一緒に笑い、そして続けた。
「これは人間の国の政治じゃないね。私には、この国自身が病んでいるように見えます」
話を7年前に戻そう。倒れて2カ月、車椅子で海に沈む夕日を見ていた時、突然ひらめいた。「脳の神経細胞が死んだら再生することなんかありえない。(略)もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創(つく)り出されるものだ。(略)私が一歩を踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ」(「寡黙なる巨人」集英社より)。その何者かを多田さんは巨人と呼び、彼と会いたくてリハビリに励んだ。「歌占」はそのころ書いた。50メートルも歩けるようになった。
だが06年4月、再び打ちのめされる。小泉純一郎内閣の下で診療報酬が改定され、リハビリの保険給付が最大180日で打ち切りになった。それ以上続けても医学的に改善の見込みはない、という理由だ。
「リハビリは、病気から回復するための医科学です。それを制限するのは、治るのをやめろと言うのと同じ」。トーキングマシンを通しても、震えるような怒りが伝わってくる。
多田さんは闘った。左手でパソコンをたたき「リハビリ中止は死の宣告」と新聞に投書した。リハビリをやめたら、歩けなくなる。病状が後戻りし悪化してしまう。投書は署名運動に発展し、44万件も集まった。車椅子で厚生労働省に届けた。でも制度はほとんど変わっていない。
そして今度は後期高齢者医療制度だ。75歳以上が対象で、全体の医療費が増えると高齢者が支払う保険料も上がる。つまり高齢者ができるだけ医者に行かなくなるようにする仕組みだ。保険料は年金から天引きし、払えなければ保険証も取り上げる。
しばらく前から、多田さんとメールのやりとりをしてきた。多田さんは怒っていた。障害者や寝たきりの人、人工透析を受けている人など約100万人が、75歳ではなく65歳から同制度に加入させられる。<これは命の差別です。個人の尊重や、幸福追求権を認めた憲法13条、法の下の平等を定めた同14条に違反している。こんなことが堂々とまかり通っている>
長寿医療制度への呼び換えを指示したのは福田康夫首相だ。
<怒りに身が震えます。体さえ動けば1300万人の後期高齢者と、その予備軍を結集し、『老兵連』を集めて反乱を起こしたいぐらい。力はないが数はあるぞとデモしたい。言い換えで誤魔化されるほど、後期高齢者は落ちぶれてはいない>
行間から「私は生きている」という叫びが、聞こえた。
■
「高齢者や障害者は早く死ねというならナチスと同じ。国は、国民が自ら国民皆保険を捨てるのも狙っているのでしょう」
聞き直したのはトーキングマシンの声が小さかったからではない。驚いたのだ。
「このごろ、何歳でも加入できる医療保険の宣伝が目立つでしょう」
小泉政権発足は01年4月。7月には保険業の規制が緩和され、医療保険やがん保険が急速に伸長した。その一方で、小泉政権は、社会保障関係費を毎年度2200億円分も圧縮してきた。06年には、11年度までに社会保障分野で1兆7000億円を削減すると決めた。後期高齢者医療制度も、リハビリの打ち切りも、介護保険料の見直しも、すべてその延長線上にある。
健康保険制度に不安を持つ人々は、保険料を支払って医療保険やがん保険に加入する。得をするのはだれか−−。
■
多田さんの中で目覚めた巨人は、これから何をしたいのか。そう聞くと、体を揺すって笑った。
「ヨナオシ(世直し)!」
すごい。その瞬間、口元から光がこぼれた。よだれだ。口の右側はまひが強いためだ。
トーキングマシンで話をしながら、この時まで私はすっかり忘れていた。多田さんが物をのみ込むのが困難なほど重い障害を持つことを。多田さんはまるで能役者のように自然に左手で口元をぬぐっていたから。能弁だったから。……違う。なぜだろう、健康で40代の私よりも、病んだこの人の方がずっと強く、生き生きと、生命にあふれているように感じるのだ。
こうして人と会い、姿勢を保つだけでもどれだけの労力を要するか。資料を読み、文章や本を書き、社会に異議申し立てをするのは……。
「言葉は僕に残された最後の力です」
この人の後ろには、老いて病み、物言えぬ多くの人がいる。死者すらいるかもしれない。
「歌占」の終節はこうだ。
死ぬことなんか容易(たやす)い/生きたままこれを見なければならぬ/よく見ておけ/地獄はここだ
詩はあと3行続く。老人は何と語るのか、あえて書かない。【太田阿利佐】
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■人物略歴
◇ただ・とみお
1934年茨城県生まれ。千葉大医学部卒。71年、免疫反応を抑制するサプレッサーT細胞を発見。国際免疫学会連合会会長も務めた。東大名誉教授。著書に「免疫の意味論」「わたしのリハビリ闘争」「寡黙なる巨人」など多数。
毎日新聞 2008年4月11日 東京夕刊
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