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転載者注)面識のない個人のブログではあるが、強く感銘を受けたためこちらに転載する。
http://sun.ap.teacup.com/gjex/152.html
2008/4/9
「人物本位? 権力者がそういうとき、独裁者になる。」選挙で自分の首を絞める人たち
民主党、小沢氏の判断を支持する。
渡辺氏の副総裁就任に対して、
『 財務官僚の天下りを許さない。 』
という論で一貫している。
国家権力は集中すれば腐る。権力は分散さけなければとんでもない横暴なことをしでかすものだ。だからこそ権力は形と理念で縛られていなければならない。
これまでの自民党のテイタラクの原因は、折角手にした民主政治の仕組みを活かせず、官僚独裁とも言うべき体制にしてしまったことにある。いけいけどんどんの時代には自民党と官僚との利害は一致した。しかし、停滞経済の時代に入り、行政権の肥大化は国政を歪めるお荷物となった。国民の顔色を見る政治家にとって、行政官僚はお荷物になったのである。
既に高度経済成長末期から官僚組織の肥大化は問題視されてきた。肥大した権力は、やはり腐るのだ。官僚は利権を握り、バブル経済とともに自己増殖していった。これを許したのは、愚民の喜ぶサービスを次々と提供するばら撒き予算を組んだ政府自民党である。
経済は停滞し、下降線をたどるほかない時代にあって、肥大化した官僚組織はその利権を守るべく蠢いている。あまたある財団はその巣窟となっている。
天下りを許さない。小沢氏の姿勢は一貫している。これほど分かりやすい話はない。
これに対して、『 人物本位で選ぶべきだ。 』という意見もある。小沢氏と連携している新党日本の田中氏もそうした立場で論陣を張っているひとりだ(http://www.love-nippon.com/)。
旧大蔵省出身の官僚を金融の役職に付かせられないとすれば、極論すれば官僚はどれだけ有能であっても政治家になれないことにもなる。などと論じている。
新党日本の田中氏の主張する施策には賛同する部分が多いのだが、これには心底がっかりした。これでは中小企業の社長の論にすぎない。
人物本位という一見妥当な立論も、国家という権力機構の人事については成り立たないのである。国家は中小企業ではない。
権力者であるからこそ、一定の約束事や枠組みを超えてはならない。
先の福井日銀総裁が辞職すべきであったのは、金融政策の責任者が特定のファンドと結託しているという構図そのものが問題だったからだ。福井氏の人物がどうだとか、実際の結託があったのかとう問題ではない。李下に冠を糺さずという道徳観が、巨大な権力機構にあるものには要請されるのである。
人物本位という名の下に、福井日銀総裁は解任されなかった。このことは社会に大きな歪を残した。
肥大化した行政官僚組織は、自己の利権を守ろうと蠢いている。だからこそ天下りは廃止されてしかるべきなのだ。少なくとも、きちんとした枠にはめなければならない。
尚、先の田中氏は先の立論中、「出自がどこかによって判断することとなると、どんなに有能であっても官僚は政治家にもなってはいけないということになる。」などと極論しているが、全くの詭弁である。
三権分立の理念からすれば、行政の地位にあるものが立法府の地位に着くことはおかしいという理屈なのだろう。しかし、そもそも権力の分散は、為政者を縛る理念であって、国民を縛る理念ではない。行政官僚の地位にあったものが国会議員となるには、選挙により国民の支持、つまりは許諾を得なければならない。国家権力の独裁者の手によって政治家になるわけではない。
権力を縛る枠組みは重要である。歴史が育んできた枠組みなのだ。それを時の勢いで踏み越えるのは、独裁者でしかない。
『 財務官僚の天下りを許さない。 』
そのように枠組みを決めたのであれば、そうすべきである。
人物本位で・・・権力者がそう言い出したとき、権力者は独裁者になる。
民主党は、自ら決めた枠組みを守るべきである。それが、巨大な権力を手にするものが独裁者にならないための最低限のルールなのだと私は考える。
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