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・「共犯者」都議会は新銀行東京400億円公金投入を許すしかなかった
きょう(26日)、東京都議会は、経営難に陥っている新銀行東京への追加出資を決めた。与党である自民・公明両党が、予算特別委員会での採決で賛成に回ったための議案通過だが、これによって新たに約400億円の都税が投入されることになった。
マスコミ報道の多くは、本来ならば、石原都知事の責任を追及し、チェック機能を果たすべき役割の都議会が、なぜ、唯々諾々として賛成に回ったのか、その理由を探しあぐねているようだ。確かに、新銀行設立以降の動きだけを追ってしまえば、それも無理はないだろう。
だが、最初の構想当時から取材し、その経緯を知っている筆者からすれば、今回の都議会の動きは当然の結末であり、なんら驚くに値しない。なぜなら、この都議会こそが、現在の問題を作り出した「共犯者」に他ならないからだ。
その理由を説明するため、少しばかり時計の針を戻さねばならない。しばらくお付き合い願いたい。
・銀行税と表裏一体だった新銀行設立
1990年代後半、バブル崩壊のあおりを受けて、都内の中小企業は次々と倒産に追い込まれた。バブルに踊った都市銀行も、それまでの放漫経営を止め、自己資本比率の増加など体質改善に乗り出した。そのため、銀行からの融資に頼っていた中小企業の多くは、「貸し渋り」や「貸し剥がし」の対象になり、より苦しい経営を強いられることとなる。深刻な金融不況は、文字通り、何人もの経営者たちの首を吊るすことになった。
同時期、少なくない大企業の経営も危機を迎えていた。それはメガバンクとて例外ではなかった。
ところが、政府は、市場への影響が大きすぎるとして、経営難に陥っていた都市銀行に対してだけは、公的資金の注入を決定、事実上の救済を決めた。結果、多くの都市銀行が経営危機を回避することができた。
その間、都市銀行は、不良債権処理を進める一方で、赤字決算ゆえに法人税を免除され、ひとり優遇されてきた。
そうした大企業優遇政策に、都内の中小企業経営者たちの憤りは沸点に達していた。
1999年、まさしくそうした状況で登場したのが、石原慎太郎だった。
都知事就任直後、石原は、大塚俊郎主税局長(現・新銀行東京取締役会議長)に対して「宿題」を出し、都の財政再建へのスキーム作りを命じた。その大塚の回答が、地方税法の中から見つけ出してきた課税自主権の規定、つまり銀行税(外形標準課税)であった。
当然、都市銀行は猛反発し、「全銀協」は即日記者会見を開き、石原批判を展開する。だが、都民は、圧倒的に銀行税を支持、熱狂的な石原ブームが到来した。
その余勢を駆って、石原と大塚は、銀行そのものを叩くこの政策の他に、中小企業救済のための別の策を巡らしていた。そうやって辿り着いたアイディアこそが、都独自の新銀行設立構想だったのだ。
つまり、銀行税と新銀行は、表裏一体の「反銀行政策」だったのである。
時が流れる。
一期目の石原都政は、それ以降も矢継ぎ早に政策を打ち出し、都民からの絶大な人気を維持していた。
一方で、石原に反発していた都市銀行(全銀協)は、銀行税の返還を求めて、都に対して訴訟を開始、「反石原」の旗幟を鮮明にしていく。そして、都市銀行の反撃のチャンスは、石原都政二期目の直前にやってくる。
・都知事のメンツが名誉ある撤退を拒んだ
2003年3月、石原は公約として「新銀行構想」を正式に掲げて知事選に臨んだ。
だが、この構想が正式なものになるや、都市行側は、先んじて中小企業向けの融資制度を再開、新銀行の狙いを封じたのだ。
アイディアを盗まれた形になった石原だが、この時点ではまだ「名誉ある撤退」の可能性は残されていた。
小泉政権の構造改革路線が功を奏し、日本経済は、少しずつだが上向いてきた。都内の比較的優良な中小企業も、都市銀行の融資を受けることで蘇生し始めていた。
実態として、石原の目指した状況は、実現し始めていた。あとは石原のメンツの問題だけである。
仮に、このとき、速やかに「公約」を取り下げてさえいれば、現在の新銀行東京を巡る諸問題は存在すらしなかっただろう。
だが、不幸なことに、石原のメンツがそれを許さなかった。そして、訴訟相手でもあった都市銀行に対して、たぶんに感情的な気持ちも持っていたのだろう。
また、世論は依然として石原都政を強く支持していた。報道も、石原の反銀行政策に関してはルサンチマン的な感覚からか、比較的好意的な扱いをしているメディアが多かった。
こうした状況を受けて、石原は、側近らの「撤退」を促す言葉に対してさえも、耳を貸さないという決断に至ったのである。
・都議たちの「口利き」が横行し返済不能な企業に融資が
2005年4月、新銀行東京の設立を迎える。
すでに日本経済は回復基調にあり、都内の中小企業の多くも立ち直りの兆しをみせていた。都市銀行による比較的優良な企業への融資が功を奏し始めていたのだ。
その一方で、そうした波に取り残された経営者たちも多く存在した。かなり深刻な経営状況の会社や、絶望的な債務を抱える企業ばかりが銀行からの融資を受けられず、いまだ倒産の危機に直面していた。
そうした時に、審査のみで融資を受け入れられる新銀行東京が、救いの手を差し伸べてきたのだ。その手をつかまない理由はない。
ここで、新銀行東京にとっての不幸が重なる。
同年7月、東京都議会選挙が行われた。4年間、圧倒的な石原ブームを肌で感じていた都議会議員は、こぞって石原とのツーショットポスターの撮影を求めた。かつては反石原を鮮明にしていた都議たちも、次から次へと都知事の軍門に下る。選挙直前の候補者の本能を考えれば、それは当然の選択であった。
一方で、設立したばかりの新銀行東京の前途は暗かった。応募は多いが、優良な融資先はなかなか見つからず、かといって設立した以上は存在するだけでは意味がなく、批判を浴びる可能性が出始めていた。
そこで、窮した石原陣営は、当時の豪腕な副知事を中心に「箇所付け」よろしく、選挙を控えた議員たちから、進んで「融資先陳情」を受け入れ始めたのだ。
都議たちにとっても渡りに船だった。地元経済は疲弊している。かつての後援会組織は壊滅し、支持者でもある中小企業経営者たちからは陳情の嵐がやって来ていた。
そうした中、新銀行東京が設立された。利用しない手はない。
こうして、石原のメンツと、選挙を控えた都議の利害が一致し、「共犯」として、展望のない新銀行の運営を後押ししたのである。
・旧経営陣の責任追及だけで終わらせてはいけない
当時、自民党と公明党のそれぞれのドンは、自らの選挙区にある、債務返済不可能な不良企業のいくつかを、副知事とともに「融資リスト」に押し込んだ。2005年当時の筆者の取材ノートに、その一部リストが残っている。こうした「口利き」が横行したため、新銀行東京は、その設立当初から経営難を噂されることになったのだ。
これで、本日、都議会与党が、新銀行東京への追加融資を認めた理由も理解いただけたと思う。また、東京都が、融資先などの記録の提出を頑なに拒んでいるのも納得できるだろう。
確かに、第一義的には、新東京銀行の経営悪化の責任は、旧経営陣にある。
また、政治が結果責任である以上、都知事や都議会の責任も免れない。そこに見落としていることがあるとしたら、それが冒頭に記した両者の「共犯関係」だ。
すなわち、旧経営陣は初めから経営が難しいと思われる銀行を押し付けられていたのだ。それは、ある意味「詐欺」に近い。
確かに、責任追及は行われるべきである。だが、経営責任ばかりに目を奪われていると、肝心の本質が見えなくなる。
設立にいたるまでの過程、そして都市銀行の道義的責任、なにより、利権を貪った者たちへの追及こそ、現在のマスコミ報道に欠けているものではないだろうか。
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