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http://homepage2.nifty.com/law-hashiba/newpage1.htm
いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義氏が訪問先のサイパンで逮捕されたことが大きな話題となっています。 私は、このような一市民の私的犯罪を多くのマスコミが大々的に取り上げて大騒ぎすることには賛成出来ませんが(道路特定財源、自衛艦衝突事故、教育改革など大多数の市民の生活に直結するもっと大事な問題が沢山あるはずです)、弁護士として見過ごせない法律問題を含んでいると思うので、あえてここで私なりの意見を述べてみることにします。 ロス疑惑と日本の裁判皆さん良く知っているように、三浦氏はロサンゼルスにおける妻殺しの容疑で日本において逮捕、起訴されたものの、一審の東京地方裁判所から控訴審の東京高等裁判所、そして上告審の最高裁判所まで、非常に長い期間にわたる審理を経て、最終的に無罪判決が確定しました。今度の逮捕の容疑は、まさしくその妻殺し(およびその共謀)であるということですから、日本の裁判で無罪が確定した全く同一の事件の容疑で、今度はアメリカで逮捕され、場合によっては起訴されるかもしれないという事態になっているのです。ロサンゼルス市警が、新しい証拠があるという発表をしたとも報じられていますが、具体的内容は不明です。他方で、同市警は20年以上も前から逮捕状を用意していたとも報じられているので、もしかしたら新証拠の有無とは無関係に逮捕したのかもしれません。 一事不再理の原則このように一旦無罪判決が確定した元被告人を、全く同じ容疑で再逮捕や再起訴をすることは、日本国内では許されないことです。それは、日本国憲法39条が「何人も、・・・既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と明記しているところで、これを「一事不再理の原則」といいます。なお、これと類似の原則として「二重の危険の禁止」というものがあります。一旦刑事事件の判決(有罪でも無罪でも)を受け確定した被告人は、もう一度同じ事件について逮捕や起訴はされないというもので、日本国憲法39条が「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と定めているものです。 このような一事不再理や二重の危険禁止の原則は、日本国だけでなく他の民主主義国でも必ずといって良いくらい採用されている刑事裁判の大原則です。基本的な国際人権条約の一つである「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)でも、「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない。」(14条7項)と、同様の原則を定めています。(この自由権規約には、日本もアメリカも加入しています。) この原則は、ある市民が犯罪を犯したとして起訴されたものの、裁判で審理した結果として無罪判決が確定した場合は、同じ罪で裁判をむしかえされることがないように国家の処罰権を制限したものです。犯人と疑われた人物が半永久的に逮捕・起訴の恐れにさらされるという非人道的な事態が起きないようにするための制度で、無罪推定の原則と並んで刑事裁判における最も重要な原則の一つです。 日本の刑法は外国判決についてどのように扱っているかそれでは、今回のアメリカ側の法制度による逮捕は、この一事不再理原則に照らしてどのように考えたら良いのでしょうか。それを考える参考になる日本の刑法の規定があります。「外国において確定裁判を受けた者であっても、同一の行為について更に処罰することを妨げない。ただし、犯人が既に外国において言い渡された刑の全部又は一部の執行を受けたときは、刑の執行を減軽し、又は免除する。」というもので(5条)、外国の裁判所で刑事事件の確定判決を受けた者を、同じ罪で日本の裁判所がさらに処罰することが出来るとするものです。 この規定は、ただし書きが刑の執行について外国での執行を日本国内でも考慮することを定めているところから明らかなように、直接的には外国で有罪判決を受けた場合にさらに日本でも有罪判決を下すことを想定した規定です。もし、この条文の「外国に」おける「確定裁判」という概念には無罪判決は含まれないとすると、外国で無罪が確定した者を同じ罪で日本の裁判所で処罰することは出来ないと解釈する余地があります。しかし、日本の裁判所や学者は、おそらくそのような解釈はとらないでしょう。 このように、日本の刑法は一事不再理(あるいは二重の危険禁止)原則は外国の判決には及ばないという考えに立つものと考えられます(さもなくば、この規定は憲法39条違反ということになります)。 私はアメリカ法については専門家ではありませんが、今回の逮捕劇を見ていると、おそらくアメリカ法も同じような考えに立っており、外国判決(この場合は日本の無罪判決)があってもアメリカで裁判することが出来るという前提なのだろうと思われます。 一事不再理原則は国境を越えないかしかし、このような外国判決があっても再度同じ罪について国内法で裁くことが許されるという考え方に対し、私は違和感を覚えます。現代社会は、人もモノもお金も、さらには情報も国境を超えて出入りするのが当たり前の時代です。人について言えば、観光客を初めとしてビザなしで自由に出入りすることを相互に認め合う国が増えていますし、ビジネスや学術目的の出入国も昔に比べれば遙かに大幅に自由に認められています。モノやお金は、自由貿易協定や投資協定などで、これまた昔とは段違いに自由な出入りが可能になっています。情報に至っては、インターネットの普及が事実上国境の壁を崩壊させてしまったと言えるでしょう。 もちろん、国際社会が今でも主権国家により構成されていること、裁判のような重要な国家主権の行使は簡単には他国や国際機関には委ねられないこともまた認めなければなりません。 しかし、一事不再理の原則が先に指摘したように全ての民主主義国家の共通の原則であることを考えるとき、現代社会のように国境がますます低くなる時代に、いつまでも外国は外国、うちはうちといった論理が通用して良いものでしょうか。例えば、今回のロス疑惑事件もそうですが、日本で裁判をするといっても事件が外国で起きている場合は、当該外国の警察など司法当局の協力なしでは十分な審理は出来ません。逆に、日本国内で起きた事件について被告人が外国の裁判所で裁判を受ける場合、日本側の捜査資料を提供するなどして審理に協力するのが当然でしょう(ブラジル人が日本国内で起こした交通事故について、日本側の要請によってブラジルの裁判所で審理されている実例が最近あります)。 そのような協力の下で行われた裁判で無罪判決が確定した時に、あれは外国の裁判だからうちとは関係ない、日本で裁判すれば有罪に出来るはずだ、などと考えるのは、いささか実情に合わないと言わねばなりません。 なによりも、被告人の立場はどうなるでしょう。もしあなたが、海外旅行中に身に覚えの無い罪で逮捕・起訴されたとしましょう。必死になって無罪を主張し、長い裁判の末に弁護士の力添えもあって何とか無罪判決を受けて釈放されたあなたは、ようやく家族の待つ日本に帰国します。ところが、数年後にあなたは今度は日本の警察に逮捕されます。容疑は、あの外国旅行中の事件です。無罪判決でぬれぎぬをはらしたと安心していたあなたに検察官が言います−「あれは外国の判決。日本は日本だ。」 こんなふうに考えてくると、今回の三浦氏の逮捕には大きな疑問を感じます。三浦氏という人物に対する評価がどのようなものであれ、一事不再理という刑事裁判の原則がないがしろにされる危険を感じないわけにはゆかないのです。 私のような考えは未だ少数かもしれません。しかし、国際社会は間違いなく国境の壁を低くする方向へと向かっています。一事不再理の原則が国境を越える日がいつか必ず来るでしょう。その時、今回の逮捕は「かつてはこんな野蛮な捜査が許されていたんだ」と語り草にされることでしょう。 (2008年2月26日) |
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