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●「最高裁判事、真野毅氏」 憲法・軍備・安全保障
衆議院解散無効確認請求 判例 昭和27年:
日本国憲法の精神、行政権の肥大化と独走(暴走)の危険性とその抑止の為の三権分立と抑制均衡の考え方が明確に論じられています。
節度のない「7条解散」を繰り返したあげく、歯止めを失って、ついに独裁政権の誕生を許してしまった現在を真野判事はどの様に見ているでしょうか?
半世紀前の昭和27年の衆議院解散無効確認請求に対し最高裁判所 大法廷は
「現行法制上司法裁判所としてのみ認められている当裁判所においては、かかる訴はこれを不適法として却下せざるを得ないのである。」
と裁判官全員一致の意見で却下されましたが、この際判事真野毅氏は「補足意見」で
内閣による衆議院の解散は憲法違反である
と断じています。
内閣による衆議院の解散は、日本国憲法の2大原則である三権分立と抑制均衡に悖り、
「異る二つ以上の権力が同一機関の下に不当にかつ過度に集中することとなり、三権分立と抑制均衡によつて独裁ないし専制政治を排撃し、国民の自由と人権を擁護せんとする憲法の最大目的は、跡方もなく踏みにじられてしまうに至るであろう。」
としています。
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「内閣が天皇の行う国事行為に対し助言と承認を与えること又はこれについて責任を負うことを理由として、衆議院の解散という実体的な国政について天皇ないし内閣に権限があると論ずる七条論者の主張は、全く根拠のない本末をわきまえざる議論である。
もし、七条論者のように、七条で内閣が助言と承認を与えるから、国事行為の実体である国政の決定も内閣の権限に属するというならば、七条一号に定める憲法改正・法律の公布の実体たる憲法の改正や法律の制定も内閣の権限に属すると解釈できる不都合な結果を生ずるわけである。
この一点からいつても七条論者の誤つていることは明らかであるということができる。
しからば、実体的な国政について、いかなる国家機関が権限を有するかは憲法全体の総考慮から判断すべき事柄である。
さて、わが憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の基盤の上に立つている。
およそ立憲国における憲法は、一人又は一群の少数者が国家権力を掌握する独裁ないし専制政治を排除し、権力の不当独占ないし集中を阻止し、もつて国民の自由と基本的人権を擁護するために、統治権力を分割すると共に、この分割された権力をそれぞれ各独立の国家機関をして行使せしめる機構を定めているのである。
そして、通常統治権力を、統治作用の本質により、立法・司法・行政の三作用に分ち、立法権は立法府に、司法権は裁判所に、行政権は行政府に属するものとして、権力の分配を行つている。わが国では一般にこれを三権分立と呼んでいる。
これと同時に、この統治作用の本質による三権の分立だけでは、とかく独立割拠の弊に陥り、国政の円満な運営は期待し難いという考慮の下に、各国家機関をして相互に他を抑制せしめ、各機関の間に権力の均衡を保たしめることを目的とする調整作用として抑制均衡(チェック・エンド・バランス)の制度を採り入れている。
例えば、本質的には立法権に属すべき法律制定及び本質的には行政権に属すべき行政処分について、違憲審査権が裁判所の権限に分配され、また逆に本質的には司法権に属すべき裁判官に対する弾劾裁判が国会の権限に分配され、一般に裁判官の任命が内閣の権限に分配されているがごときものである。
かくて憲法は、三権分立と抑制均衡の二大原則の交錯と調整の基礎の上に成立つている。
そして、三権分立によると抑制均衡によるとを問わず、憲法上一つの国家機関に分配賦与された権限は、その機関の活動し得る領域の範囲を画するものであつて、従つてこれはその機関の活動し得る積極的限界である。
この一つの国家機関の活動の積極的限界は、とりもなおさず同時に、他の国家機関の活動することを得ない消極的限界であつて、他の機関は恣にこの限界を超えて他の領域を侵犯することは許されない。
かくて、憲法上分配された各国家機関の権限は、互に独立であつて、互に相侵すことのできないのが憲法の根本原理である。
もし、一つの国家機関に分配された統治権力が、他の機関によつて随意に侵され得るものとすれば、異る二つ以上の権力が同一機関の下に不当にかつ過度に集中することとなり、三権分立と抑制均衡によつて独裁ないし専制政治を排撃し、国民の自由と人権を擁護せんとする憲法の最大目的は、跡方もなく踏みにじられてしまうに至るであろう。」
「およそ現代国家においで行政権の分野が、逐年拡大強化されていくことは、すべての文明国に共通の現象である。わが国においても、また然りであつて、日常国民の直接に接触する統治権力の大部分は殆んど行政権である。
この行政権こそは、現代国家機構における巨大なレバィァザン的存在である。
わが憲法の行政権の実質的内容は、それ自体広汎強大なものである。
この内閣の首班である内閣総理大臣は、国務大臣を任命し、また任意にこれを罷免することができる(六八条)。
それ故、内閣は合議体ではあるが、実際においては閣僚に対し生殺与奪の権を握つている内閣総理大臣の独裁下にある。少くとも容易に独裁下におかれ得る。
また最高裁判所裁判官及び下級裁判所裁判官の指名又は任命は、内閣の権限に属する(六条、七九条、八〇)条)。
その任命等につき国会・衆議院・参議院その他の同意を必要としない。
(米国では連邦裁判官は大統領によつて任命されるが、上院の同意を要する。)
その上、七条論者のように内閣が任意に衆議院を解散する権限を有することを認めるならば、内閣の首班である内閣総理大臣は、衆議院に対しこの解散権をひらめかすことによつて、立法府に対しても非常に強大な支配力を及ぼし得る地位に立つことになるわけである。
元来国会は、主権者である国民の代表者の集合体であつて、当然国権の最高機関である(四一条)。
これに反し、内閣総理大臣は、国会の議決で指名されるものであり(六七条)、内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うべきものである(六六条)。
そして、ここにいう「行政権の行使」とは、三権分立の原則によつて、本質上行政権に属するものの行使のみではなく、抑制均衡の原則によつて、行政府に賦与された権限の行使をも含むことは言うを待たない。
すなわち、内閣は、憲法上分配されたすべての権限の行使について、国会に対し責任を負うべきものであると言わねばならぬ。
いわば国会ほ監督者であり、内閣は被監督者である。この関係においては明らかに、国会は主であり、内閣は従である。
国会は優位にあり、内閣は下位にある。
しかるに、七条論者のように、内閣は、法律上全く自由に、何時でも衆議院を解散することを得るものとするならば、責任を問われる地位にある内閣が、自己に対し責任を追及する立場にある衆議院を解散し、これを抹殺することによつて、法律上責任の追及を不当に免れ得る結果となる。
これでは主従の地位の顛倒も甚だしいといわねばならぬ。それは、恰も債務者が、債権者の首をはねる権利をもつことを、認めるに類する滑稽さがあるように思われる。非か。
わが憲法のごとく代表制民主制度の下において、主権者たる国民の代表の集合体である国会は、憲法の明文においても国権の最高機関であると謡われているにかかわらず、そして内閣の監督者としてその責任を追及することを得る地位にあるにかかわらず、国会の主要構成部分である衆議院が、被監督者である内閣の欲するがままに、法律上は、全く任意に、勝手気儘に、何時でも、拔打的・闇討的に解散されるというのでは、代表制民主政治は常に基盤がグラグラし、衆議院の生命は二六時中風前の燈火のごとく揺らゆらしている。
こんな有様で内閣が活殺自在の劒を握つているようでは、どこに国会の独立と権威があるであろうか。
これでは、三権分立も、抑制均衡も、民主政治も、憲法の根柢も、皆共に支離滅裂し、瓦解してしまうではないか。
殷鑑遠からず、十数年前にある。
あえて、ヒトラーの国会解散の暴政の数々の例を引いて、論証する煩を重ねることを要しないであろう。国会の弱体であるところに、独裁政治は常に頭をもたげて来る。独裁政治の行われるところ、国会はますます弱体化する。
国会の強力なところに、民主政治は発達する。国会の強力こそは、独裁政治の出現を阻止する城壁である。
しかのみならず、民主政治における選挙は、機会均等を前提とする。
すなわち、同等の立場に立つてフエア・プレイによつて投票の獲得を争うことを本義とする。
しかるに、抜打解散では、政府与党は野党に比し、不当に有利な立場に立つことは明白である。かようなハンディキャップのついた条件の下に行われる選挙は、公正なものということができないばかりでなく、民意が真に正しく反映して表明されることは不可能となるであろう。
民意の真正に表明されない選挙によつては、ほんとうの民主政治は発達せず、美果を結ぶことはできない筈である。
さらに、七条論者の結論を採れば、前にいつたごとく憲法上内閣総理大臣は、行政府に対するばかりでなく、司法府に対しても、立法府に対しても、甚だしく強大な権力と影響力を及ぼし得ることとなるは必然である。
かくては、内閣総理大臣という一人の具体的人格に過度の諸権力が、容易に集中し、その結果独裁ないし専制政治に陥り易きに至ることは、火を見るよりも明らかである。
思つてもみるがいい。
冷静に、かつ虚心に。
彼の太平洋戦争の苛烈な戦火の洗礼を受け、廃嘘のどん底に沈んだわが国民は、何物よりも独裁ないし専制政治の再現を、恐れかつ憎んでいるではないか。
こういつた体験と環境と条件の下に出来た憲法を、前述のごとく成法上何ら確たる根拠もないのに、独裁ないし専制政治の再現を容易に招来することを許すような風に解釈せんとすることは、民主憲法制定の根本義を真に理解せざる近眼者流の論であると断言して憚らない。
豊かな経験と高い識見を有する尾崎行雄氏は、憲法七条を解散の根拠とするようなことが行われるなら、
「すこし気の利いたものが出れば、たちまち北条・足利の時代が再現する」
と卒直にキツパリ言い放つている(昭和二四年一月三日読売)。
この言やよし。まことに事物の真を洞察した識者の至言である、とわたくしは思う。」
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2006/1/16
晴耕雨読
http://sun.ap.teacup.com/souun/26.html
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