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2008年01月20日
人間に寄り添って生きる
共生という言葉がついに総理の国会施政演説方針の中で正面から掲げられるようになった。それはいいことである。しかし、その言葉は実践されてはじめて意味を持つ。
これは福田首相の演説を批判して言っているのではない。福田首相は、選挙目当てではなく本気でそう思って演説のかもしれない。
しかし共生の大切さは、政治のスローガンとして大きく掲げるものではない。実現することだ。実践されてはじめて光り輝く。
この世の中には、我々が知らないところでこれを日常的に実践している人たちが何と多くいることか、その人たちこそ真に尊敬できる人に違いない、そういう人たちが政治を動かせばいいのではないか、私はそれを強調したいのである。
そう私に思わせる新聞記事を1月19日の東京新聞の「家族の事を話そう」というコラムに見つけた。袖山卓也さんという30代半ばの介護士が紹介されていた。その袖山さんの言葉に私は深い感動を覚えた。
袖山さんは長距離トラックの運転手の父と美容師の母の下で、家族四人の狭いアパート暮らしで育った。やんちゃな多感期を過ごしていた時、オートバイ仲間が事故で死んだ。通夜の席で泣き続ける友人の母親に衝撃を受け、その翌日から、金髪だった髪を黒くし、なかった眉毛はフエルトペンで書いて、制服にもエリをつけて登校するようになった。以来命について考えるようになって、臨床検査技師になった。しかし、そこで自分のやりたい事は病気を治すことではなく、人間に寄り添いたいんだということに気づき福祉の道を歩む。
今は4つの介護施設の統括マネージャーとなり、有限会社「笑う介護士」を設立したという袖山さんの次の言葉に私は感動した。
「・・・僕が子供のころは障害児も普通学校にいて、一緒に遊んだ。でも、誰かが仕切らないといじめられる。たとえば鬼ごっこで、ずっと鬼にされてしまうとか。ぼくは親から『絶対にいじめてはいけない』と言われていた。だから、一緒に遊べるようなルールをつくった。何回つかまっても鬼にならない、みたいな。嫌だったですよ。だってぼくもいじめられるから。それでも変な自信もあってね・・・」
その袖山氏は高齢者ケアに携わるようになり認知症に出会う。
「・・・認知症は(人生最期のもっともつらい、親しい人との別れすら忘れてしまえるという意味で)、神様のプレゼントではないかと思っている。問題はケア。ばかにされたりし、高齢期が暗くみじめなものになってはいけない。そこで、決めたんです。認知症の人がそのまま普通に過ごせるケアをつくろう。お年寄りがわらっていられる社会にしたい・・・」
その袖山氏も、失禁やはいかいが激しい老人を目にして「この人たちと一緒にくらしたくない」といったことがあったという。
「・・・おばあさんと狭いアパートで一週間ほど過ごした記憶がある。おやじが面倒を見るために、引き受けたんだと思うんです。一緒にいる間、失禁や、はいかいがすごかった。そのとき、『この人と一緒に暮らしたくない』と言ってしまった。あのときに戻りたい。今のぼくなら、最高のケアができると思いますから。そういう思いを、本人も家族の人もしなくていいような介護を、広げていきたいと思っています」
私は確信している。この世の中には袖山さんのような「人と寄り添って生きる」事を大切にし、実践する人たちが無数に存在する事を。その人たちはメディアに毎日のように登場する政治家や評論家などのように「立派」な人ではない。しかしこの世の中は彼らのような、名もなく権力もない無数の人たちの「共生」を実践している人たちで成り立っているに違いない。
彼らにこそ今の日本の政治を任せたい。彼らこそ小泉似非構造改革以来日本を席巻する新自由主義に抗し、「共生」する日本を取り戻せるの人たちに違いない。
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