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3・1運動90周年に思ふ
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私は、韓国が好きです。韓国の自然、文化、そして人々の人情がとても好きで、これまでに韓国を4回訪れた事が有ります。
最初に訪れたのは、1986年の12月の事でした。30歳に成ったばかりの冬の事でしたが、この初めての韓国旅行で、私は、子供の頃から親しみを抱いて居たこの国(韓国)が本当に大好きに成りました。もちろん、どの国にも良い所と悪い所は有りますし、旅行者が見る物など、その国の表面にしか過ぎない事は事実です。又、当時の私は、若い頃非常に左翼的だった事もあって、韓国に対して、「過去の歴史」に関して、今思へば明らかに間違った観念を抱いて居た事も事実です。しかし、そう言ふ事はともかくとして、この1986年12月の初めての韓国旅行は、私にとって、とても新鮮な体験でした。
その初めての韓国旅行の時、まだ、韓国語も少ししか出来無かった私は、ホテルから出る観光マイクロバスに乗って、ソウル市内を見学しました。そのマイクロバスには、日本で生まれ育ち、韓国に戻ったと言ふ元在日の女性がガイドとして同乗し、日本語で、バスの中から、ソウルの事を色々話して下さいました。
その時の事です。バスが、ソウル中心部に残る李朝の宮殿の一つの前に来た時だったと思ひます。そのガイドさんが、或る門について語り始めました。そして、その際、或る日本人を「先生」と言ふ敬称を付けて呼んだ事に、私は強い印象を与えられました。その日本人の名は柳宗悦(やなぎむねよし:1889〜1961)で、そのガイドさんは、彼を「柳宗悦先生」と呼んで、彼とその門の関わりに言及したのでした。
その門とは、光化門(こうかもん)と呼ばれる門です。その門は、李朝の宮殿の一つ徳寿宮(とくじゅきゅう)の正門として建てられながら、最初は秀吉の軍勢に焼かれ、李朝末期に再建されてそこに在った門でした。その光化門が、日本の朝鮮統治時代に、その門が壊される計画が持ち上がった事が有ったのですが、その時、その門を深く愛した美術評論家であり、宗教学者でもあった柳宗悦が、この門の解体に強く反対し、門の解体が中止に成ったと言ふ出来事が有ったのです。その門は、残念ながら、朝鮮戦争の際に焼失し、その後再建されてそこに在るのですが、日本統治時代、当時の朝鮮総督府が、この文化財を解体しようとした事は、明らかに誤った事でした。ですから、その解体計画に反対し、門の保存を実現させるのに大きな役割を演じた柳宗悦氏は立派な人物であったと、私も思ひます。そして、今思へば興味深いのは、当時、まだ民主化が進んで居なかった韓国で、テレビをつければ反日ドラマが映って居た様なあの時代に、柳宗悦は、韓国人のガイドさんから「先生」と言へ敬称をつけて呼ばれて居たと言ふ事実です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8C%96%E9%96%80
(光化門について)
その後、私は、柳宗悦の書いた文章に触れ、彼が朝鮮の美術に対して抱いた深い愛情に強く印象ずけられました。又、更には、彼が仏教芸術に対して抱く深い愛情や見識をも知り、彼を深く尊敬する様に成りましたが、その柳宗悦が、光化門が解体される計画を知った際に書いた文章の一部を以下に御紹介したいと思ひます。
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光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕(たんせき)に迫ろうとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであるか。私は想い惑っている。醜い鑿(のみ)や無情な槌(つち)がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ。この事を考えて胸を痛めている人は多いにちがいない。だけれども誰もお前を救ける事は出来ないのだ。不幸にも救け得る人はお前の事を悲しんでいる人ではないのだ。
まだ世は矛盾時代だ。門の前に佇んで仰ぎ見る時、誰もその威力ある美を呑み得るものはないのだ。しかし今お前を死から救おうとする者は反逆の罪に問われるのだ。お前を熟知している者は発言の自由を得ないのだ。しかしお前を産んだ民族の間においては、不幸を伴わぬ発言はないと言ってもよいのだ。この事で今そこにいる凡ての者が暗い月日を送っている。人々は必ずやお前を愛しているのだ。今後年月が経ると共にその愛慕がいや募ってゆくのを私は知っている。しかしかかる愛すらも自由には現し得ないこの世だ。否、かかる愛を殺せよと強いられているのだ。苦しさが胸に迫ってくる。しかしどうする事も出来ないのだ。
誰もが言葉を躊躇している。しかし沈黙の中にお前を埋めてしまうのは私には余りにも悲惨だ。それ故言い得ない人々に代わって、お前の死に際しもう一度お前の存在をこの世に意識させるために、私はこの一篇を書きつらねるのだ。
柳宗悦著『失われんとする一朝鮮建築のために』より(岩波文庫『民藝四十年』47〜48ページより)
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彼(柳宗悦)のこの門への思ひが伝わって来る悲痛なばかりの文章です。そして、この同時期に、彼は、次の様な文章も書いて居ます。
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私の知れる、または見知らぬ多くの朝鮮の友に、心からこの書翰(しょかん)を贈る。情の日本は今かくするようにと私に銘じている。私は進み出て、もだし難いこの心を貴方がたに話し掛けるよう。これらの言葉が受け容れられる事を、私はひそかに信じたい。もしこの書を通して二つの心が触れ得るなら、それはどんなにか私にとっての悦びであろう。貴方がたもその淋しい沈黙を、私の前には破ってほしい。人はいつも心を語る友を求めている。特に貴方がたの間においては、人間の愛が心の底から求められているのだと、私は想う。かく想う時、どうして私はこの訪れを果さずにいられよう。貴方がたもこの書翰を手にして、私に答える事を躇(ためら)っては下さらぬであろう。私はそれを信じたい。
柳宗悦著『朝鮮の友に贈る書』(岩波文庫『民藝四十年』19ページ)
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光化門の解体に反対した柳宗悦は、この門に対してだけでなく、朝鮮の文化と人々に深い愛情を抱いて居たのです。彼は、こう書いて居ます。
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私はこの頃、ほとんど朝鮮の事にのみ心を奪われている。何故かくなったかは私には説き得ない。どこに情を説き得る充分な言葉があろう。貴方がたの心持ちや寂しさを察する時、人知れぬ涙が私の眼ににじんでくる。私は今貴方がたの運命を想い、顧みてまたこの世の不自然な勢いを想う。あり得べからざる出来事が目前に現れている。私の心は平和ではあり得ない。心が貴方がたに向う時、私も共に貴方がたの苦しみを受ける。何ものか見知らぬ力が私を呼ぶように思う。私はその声を聞かないわけにはゆかぬ。それは私の心から人間の愛を目覚ましてくれた。情愛は今私を強く貴方がたに誘う。私は黙してはいられない。どうして貴方がたに近ずく事がいけないのであろう。親しさが血に湧き上がる時、心は心に話し掛けたいではないか。出来得るなら、私は温かくこの手をさえさし出したい。かかることはこの世において自然な求めだと、貴方がたも信じて下さるだろう。
人は生まれながらに人に恋している。憎しみや争いが人間の本旨であり得ようはずがない。様様な不純な動機のために国と国は分れ、心と心とが離れている。不自然さの勢いが醜い支配におごっている。しかし永続し得る不自然さが何処にあり得よう。凡ての心は自然へと帰りたがっている。凡てが自然に帰るならば、愛はもっと繁く吾々の間を通うはずだと私は思う。何事か不自然な力が、吾々を二つに裂いているのである。
柳宗悦著『朝鮮の友に贈る書』より(岩波文庫『民藝四十年』20〜21ページより)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8C%96%E9%96%80
(光化門について)
柳宗悦がいかに深く朝鮮を愛して居たかが、ひしひしと伝わって来る文章です。
かつて、私は、彼のこうした心情に深く共鳴しました。そして、今でも、彼の朝鮮芸術に対する愛情と理解には大いに共鳴して居ます。しかし、初めて韓国を訪れてから23年が経った今、3月1日の韓国からのニュースを読みながら、柳宗悦が気が付いて居なかった事が、或いは理解して居なかった事が有ったのではないか?と思はずには居られないのです。
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今日は、3月1日です。今から90年前の今日、当時日本の統治下に在った朝鮮で、朝鮮の独立運動が目に見える形で発生し、当時の朝鮮に騒擾が起きる切っ掛けに成った事から、当時は「万歳事件」と呼ばれて居た事件から90年目の日に当たります。
日本人で、この日を意識して居る人は非常に少ないと思ひます。しかし、若い頃から日本と朝鮮(韓国)の歴史に関心を持ち続けて来た私は、毎年、この日をとても意識します。そこで、思ふ事を述べたいと思ふのですが、先ほど御紹介した柳宗悦が、あの様な悲痛な文章を書いた切っ掛けの一つは、その「万歳事件(3・1運動)」だったのです。
読んで明らかな事は、柳宗悦が、単に文化・芸術上の愛情を超えて、当時日本統治下に在った朝鮮の人々に対して、深い同情を抱いて居た事です。私自身、かつては柳宗悦のそうした心情に深く共鳴して居たし、今でも彼の人間的な心情に共感して余り有る事は変はりが有りません。
しかし、です。あの時代に生きて居た彼は、その時代の只中に居たからこそ、逆に見えなかった事が有ったのではないのか?日本と朝鮮の歴史を、自分なりに考え続けて来た私は、今、彼は、あの時代の朝鮮について、見落として居た事が多々有ったと、考えるに至って居ます。
以下に御紹介するのは、一人の韓国人が書いた本の一節です。一体、日本の朝鮮統治とは何であったのか?韓国人が書いたこの本のこの一節をお読み下さい。
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李朝は1897年、国号を「大韓帝国」にあらため、年号を「光武」とした。王を皇帝と称し、表面的には五百十余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家を形成したが、実態は、変わるところがなかった。
1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状をみかねて、目賀田種太郎(めがたたねたろう:1853〜1926)を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
目賀田財政顧問と統監府は、朝鮮の歳入不足を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を実施したほか、直接支出で援助した。
たとえば1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
1908年度にはこれがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。
統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
そればかりでなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ、将来は開けない。
1910年8月29日には、明治天皇から臨時恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きにされた。
前述したとおり、李朝には元々、予算の編成能力などはなく、目賀田顧問の指導、監督の下で初めて予算が編成された。いかに李朝が非社会的な存在であったか、わかろうというものである。飢餓には食料と金が必要であって、名義と暴力では解決しない。
日韓併合後の補充金と称する日本政府の持ち出し(日本人の税金)は、1911年が1235万円で、それ以前の平均2500万円の半額に減った。これは残りの半分を日本政府発行の公債と、日本からの借入金で補っており、毎年日本から約2000万円前後を調達するという状況は変わっていなかった。
これは朝鮮自体の税収入の倍額に及んでいる。つまり朝鮮は、財政の過半から三分の二を日本人の税金によって賄った結果、ようやく近代化に向かって出発することができたのである。
これ以外に、駐留日本軍二個師団の経費は、ずべて日本持ちであった。
終戦後、独立した韓国・朝鮮の教育は、日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾するが、これがいかに歴史の実態を無視した身勝手、自己中心的解釈であるかはいうまでもない。
日韓併合によって、搾取され、呻吟(しんぎん)したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。
(崔基鎬(チェ・ケイホ)著『日韓併合/韓民族を救った「日帝36年」の真実』 (祥伝社・2004年)19〜23ページより)
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この文章を書いたのは、韓国人です。21世紀に入って、まだ少数派ではありましょうが、韓国人の中から、この様な意見が出始めて居るのです。そうした、韓国人からも出始めた歴史見直しの流れの中で、柳宗悦の上の文章を読み直す時、私は、考え込まずには居られないのです。
柳宗悦が朝鮮の文化と芸術を愛し、そして、独立を希求した当時の朝鮮民衆に同乗した事自体を私は批判する積もりは有りません。いかなる民族も、独立した存在でありたいと思ふのは、当然です。しかし、それでは、そもそも、朝鮮は何故、日韓併合によって独立を失はなければならなかったのか。そして、日韓併合後の日本は、果たして、ただ朝鮮の民衆に不幸を与えてだけだったのか?その点について、私が今も深く尊敬する柳宗悦の見方には、一面的な所が無かったと言えるのか、私は、考え込まざるを得ないのです。
人間のやる事には、良い面も悪い面も有ります。
ですから、日本の朝鮮統治が、全ての面で良い事ずくめだった等と言ふ
積もりは有りません。例えば、始めにお話した光化門の解体計画などは、今日の日本の行政にも見られる文化財の軽視の例で、これなどは非難されて当然の事です。
しかし、結局、その柳宗悦らの反対運動の結果、光化門が解体されなかった事も、歴史のもう一つの側面です。金美齢さんの言葉を借りて言へば、「歴史には光と影が有る」のであって、確かに、朝鮮総督府が光化門を解体しようとした事は恥ずべき事ですが、それを止めようとした日本人が居た事も、そうした日本人の反対によって、光化門が、結局、日本統治時代には守られた事も歴史の一面だったのです。そう言ふ点で、在日を含めた朝鮮民族の人々は、戦後、日本統治時代を公平に語って来たと言へるでしょうか?
話を3・1運動に戻しましょう。この事件について、私は、永年、当時の朝鮮の人々に深い同情を抱いて来ました。この事件では死者も出て居ます。ですから、日本人である私は、この事件に大変心を痛めて来たのです。しかし、そもそも、事件の真相は何だったのか?それは、どうも、若い頃の私が信じて居た様な単純な物ではなかった様です。
以下に御紹介するのは、かつて朝鮮総督府の高官の家族として、日本統治時代の朝鮮を自身で見聞きした人の回想です。これを読むと、実は、あの事件(3・1運動=万歳事件)は、必ずしも自然発生的な物ではなかった事が分かります。
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私の一家の朝鮮との関わりは「万歳事件」に始まる。この事件については後に詳しく述べるが、大正八年の初め、第一次欧州大戦の講和会議がパリで開かれ、その席上、ウィルソン大統領が「民族自決」を高唱して以来、朝鮮独立を叫ぶ者が急激に活動を始めた。その後有力な人物が、亡命地米国から上海に現れて大韓国臨時政府大統領を称し、後に現実に大韓民国初代大統領になる李承晩であった。
李はその後、第二次大戦が終わるまで米国ハワイで亡命生活をしていて、戦後すぐ意気揚々と「解放された」ソウルに米軍機で戻ってきたが、米国の戦後当初の朝鮮政策は信託統治であった。米国は朝鮮が自前で国家を運営できるとは考えていなかったのである。もちろん彼は信託統治などとんでもないと自前の政府を作ったが、その頑固な自信とは裏腹に、彼には現実政治を遂行する能力があるのではなく、空疎な信念に凝り固まって、何の役にも立たない無闇な反日教育を後に残し、韓国自体にも日韓関係にも、悪しき後遺症を長く残したのである。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 18〜19ページより)
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この本の中で、著者は、昭和13年に朝鮮総督府が編纂した『朝鮮総督府施政二十五年史』と言ふ資料に言及して、万歳事件(=3・1運動)の際には、民衆を組織的に扇動した運動家が存在した事、そして、その際、第一次世界大戦後のパリ講和会議で朝鮮の独立が認められたと言ふ、事実に反する流言が流布されて居た事を指摘して居ます。つまり、あの事件は、朝鮮民衆の間に自然発生的に起きた物ではなく、外国に居た一部の運動家が流言を利用して扇動した騒擾であった可能性が極めて高い事を指摘して居ます。
そして、もう一つ大事な事は、こうした独立運動の発生の後、当時の日本は、必ずしも、それを「弾圧」する事だけを考えて居たのではなかった事です。その点について、この本の著者は、こう述べて居ます。
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ここで総督府が半島人の自然な要求である参政権について何をしていたかを述べておこう。総督府施政下において、朝鮮現地民の政治参加は、昭和初年から実現に向けて検討が進められていた。斎藤朝鮮総督府は朝鮮自治州案を持って上京したこともある。半島人の参政に内地延長論も当時論ぜられていた。柳宗悦など学者、評論家の中に熱心にそう言った論議をする人もあった。日本知識人たちの中に朝鮮独立論もあった。朝鮮における地方議員選挙は、斎藤実三代目総督時代から着実に実行されており、内地における県会に相当するものができ、議員が選出されていた。昭和四年光州道庁にその集会のための施設が建築中だったのを私は目撃している。国政参加については昭和十九年小磯首相の施政方針として、台湾、朝鮮の参政権実現に向かって、衆議院選挙法改正案を通常国会に提出し、貴衆両院の協賛を経て原案通り成立し、昭和二十年四月一日から施行する予定だった。
これらは朝鮮総督府七奪史観では説明できない。日本の朝鮮統治の根底は同化、内鮮一体化であったのだ。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 189ページより)
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あの出来事から90年が経って、真相を検証する事は最早不可能に近いと思ひますが、こうした可能性をも視野に入れた、多角的な研究が、歴史家には求められて居ます。
3
この同じ本の中で、著者は、日本の朝鮮統治について、次の様に論じて居ます。
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戦前、戦中、いわゆる非常時の時代に行き過ぎがあったことは認めなければならないが、私の実見した斎藤総督時代の朝鮮統治はそれなりに良質であった。事には依って来たる由来と事情がある。今日南北朝鮮の人たちの日韓併合以来の日本の行動に対する感情的反発は激しい。その気持ちは分からないではないが、併合当時の事情もまた客観的に捉える必要があろう。韓国統監伊藤博文は朝鮮併合には当初反対していた。これには彼の書簡が残っている。併合を主張したのは外務大臣小村寿太郎であった。なぜ伊藤が不賛成で小村が賛成であったのだろうか。ここには今日十分に検討すべき問題が潜んでいる。
朝鮮をよく知っていた伊藤はその書簡に、国を愛する者が幾人かでもいれば朝鮮が亡国することはないのだが、と書いている。併合後幼少の元李王世子垠を東京に移すときには、彼は文字通り手を引いて歩いた。維新廃藩に当事者として立ち会った彼には、想い深いものがあったのではないか。日清・日露戦争時代の朝鮮事情を書いた新聞記者や成書、そして写真は今日これを見ることができるが、当時の漢城(ソウル)の乱脈の状況は日本人の想像を遥かに超えたものだった。政治も物理的環境も、韓国統監府は政治、行政、厚生の改革、改善に日本人一流の能率で取り組んだ。これによって中世的停滞と汚辱に塗れた「大韓帝国」は。それまで依怙地に拒否していた近代化に踏み出したのである。今日の朝鮮があるのは総督府政治による上からの社会、政治、精神革命があったからだ。このことは台湾でも同じで、評論家・黄文雄氏はこれを痛論している。朝鮮人士の日本統治批判は、自己の事態を冷静客観的に看る力の欠落を語るのではないか。
併合の文言、そして明治帝のご意志に沿って、皇室典範に王族を設け李王家を立てた。私の見聞したところでも李王家は丁重に遇されていた。もとより立場によって見方が異なるのは当然だが。
ここで注意しておくが、私は当時の日本の対韓政策ないし施策がすべて当を得ていたと主張しているのではない。後知恵だが、おそらく併合せず統監府政治を残して、現地人の成熟を気長に謀った方が良かったのではないか。だがそれができなかった事情も考えなければならない。伊藤と小村の対韓政策の当初の違いは、この二人の世界支配中枢のデザインと力に対する認識の違いにあったと現在の私は考えている。当時も今日も世界の政治・経済を人知れず確実に誘導しているのはこれである。鹿鳴館を取り仕切った伊藤は親露政策を取りつつも、この世界勢力についての認識に甘いところがあった。小村はポーツマス会議に出た外交官として、国権派として、この世界勢力の現実と日本への危険を知っていたのではないだろうか。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 64〜66ページより)
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皆さんは、この著者(馬野周二氏)のこうした見解をどう思はれるでしょうか?
私は、歴史と言ふ物を、極力客観的に見る様、心がけて居ます。 歴史に対する姿勢の中で、私が最も忌み嫌ふ姿勢は、「自分は***人なのだから、自分の国の事は悪く言はない」と言った物です。即ち、日本人の場合ならば、「私は、日本人だから、日本の事は悪く言はない」と言った姿勢こそは、私が最も忌み嫌ふ姿勢です。私は、そう言ふ姿勢は大嫌いで、日本人であるから過去の日本を批判しない、等と言った態度ほど、私の歴史に対する態度から遠い物は有りません。私は、祖国よりも事実を重んじる人間です。「民族派」を自称する人々の中には、日本にとって不利な事は言はない、と言ふ姿勢を取る人が居る様ですが、私は、そう言ふ姿勢は絶対に取りません。真実だと確信すれば、私は、日本に不利な事を私は、幾らでも、声を大にして言ひます。もし、それを「左翼」とか「反日」とか呼ぶのであれば、私は、喜んで「左翼」とでも「反日」とでも呼ばれる事を選びます。私にとって、事実と真実は、それほど神聖な物だからです。
だから、と言ふべきでしょうか。若い頃、私は、学校や新聞やテレビ、それに色々な本から影響を受けて、日本の朝鮮統治は、朝鮮の人々に対する一方的な加害の歴史だと信じて居ました。ですから、冒頭にお話した1986年の初めての韓国旅行の際には、私は、まるで、全日本人を代表して謝罪しに行く様な積もりで韓国を訪れたものでした。
しかし、その後、日本と朝鮮(韓国)の歴史について勉強すればするほど、私は、日本と朝鮮(韓国)の歴史は、そんな単純な物ではなかった事を知るに至りました。そして、かつては、朝鮮半島の人々にそれほど深い罪悪感を抱いて居た私は、今は、日本の朝鮮統治は、悪よりも善の方が遥かに多かったと確信するに至って居るのです。繰り返して言ひますが、若い頃から韓国を愛し、かつては、日本の朝鮮統治を一方的な「侵略」だと信じて疑はなかった私が、そう考える様に成ったのです。
歴史とは、そんな単純な物ではないのです。
ほんの一例ですが、次の文章をお読み下さい。
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朝鮮は昔から守礼の邦を称し、階級社会を規定するものは「礼」だった。この社会体制が奇怪に変形しながら李朝末まで続いた。中国ではこの体制が崩れたのは遠く戦国以後のことであったのだが、極端な階級差別の象徴である奴婢は日韓併合まで牢固として存在した。朝鮮総督府は「奴婢の解放」を断行した。歴史の長い両班(ヤンパン)制も朝鮮総督府が廃止させた。これは近代国家の国民を作る出すためだった。これはアメリカにおける奴隷解放よりも実質徹底していた。今日の韓国、北朝鮮で社会差別、地域差別が復活横行していると見られている。階級差別を法的に禁止したのは朝鮮総督府であったのだ。それは内地と同じ原則に立つべき日韓併合の要請であった。
我々には理解するところが難しいのだけれども、今日の韓国でも地域的な差別が厳然として存在している。それは朝鮮社会の永遠なる民族的課題だろう。朝鮮総督府が絶対権力を持って強制した門閥廃止、万民平等という社会改革は、彼らにとって前代未聞、両班にとっては死活の関頭であった。これは朝鮮史初めての階級廃止であったのだ。この折角の改革は、解放独立半世紀の今日、南北とも再び差別社会に回帰しつつあるといわれている。今日の北朝鮮・韓国の反日も、その隠れた根はここにあるのではないか。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 185〜186ページより)
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そして、以下も又、お読み下さい。
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李朝時代の反体制行動者に対する残虐な極刑は、朝鮮総督府時代に比べると、実に想像を絶するものであった。福沢諭吉や頭山満に匿われていた金玉均は、甲申政変(1884年)で騙されて上海まで連れ出され暗殺された。その遺体は首と四肢に寸断され、首がソウルで獄門に曝された。先述べた閔妃が殺害した政敵の死体を徳寿宮の門扉に逆さまに磔にしたことなど、信長、秀吉時代の日本の有り様も相当ひどかったが、そんなものではなかった。秀吉の朝鮮出兵当時、捕虜として連れてこられた李朝儒者姜(カンハン)は戦時下日本の社会をその著『看羊録』に活写しているが、彼が閔妃や大院君の時代を書くとどうなるか。これはほんの百年前の出来事だったのだ。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 183〜184ページより)
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日韓併合前の朝鮮は、今の北朝鮮の様な世界だったのではないでしょうか。
その李朝末期の挑朝鮮で身分制度を廃止し、教育を進め、日本国民の血税を投入して朝鮮社会の基盤を整備した日本は、本当に、多くの韓国人や在日朝鮮人たちが声高に言ひ続けて来た様に、朝鮮民族をただ苦しめ、収奪しただけの「侵略者」だったのでしょうか?
かつては、日本の朝鮮統治を一方的な悪だとする歴史観を信じ、朝鮮半島の人々に深い罪悪感を持って居た私が、今、皆さんに、こう問ひ掛けて居るのです。
もう一度、馬野周二氏の言葉を引用します。
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朝鮮戦争後しばらくして半島人による戦前日本の無闇な非難、悪態が始まった。旧朝鮮総督府についてはありもしない搾取、迫害、虐殺、抑圧、弾圧を声高に唱え、その歴史的役割を正当に評価する公正な態度は全く見られない。韓国人、北朝鮮人が考えている日本帝国主義の朝鮮半島支配の歴史は、日帝三十六年支配、保護国化時代という硬直化した喧轟だけが響いた。朝鮮総督府をはじめとする日本時代の歴史については「侵略史観」に基ずく「あら探し」と「つまみ食い」の歴史叙述が、朝鮮近現代史の一大特徴となっている。
搾取、虐殺、弾圧を朝鮮総督府が行ったと声高に言うが、以前の李朝時代は日本人が正視できないことが多かった。戦後の李承晩政権(1948〜60)は李朝時代に帰った印象もある。総督府が近代的法治社会をつくり、近代社会の基盤を建設したことは歴史的事実である。法治国家を目指した司法制度も、全国土地調査も、治山治水事業も、鉄道・道路建設も、ハングル普及の教育政策も、朝鮮米増産計画も直視していない。これらが今日に及ぶ南北朝鮮半島の政治と産業の基盤を造成したのだ。
(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 182〜183ページより)
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厳しい言葉です。馬野氏は、朝鮮に生まれ、朝鮮の人々に友人、知人を持って育った人物です。しかし、その馬野氏が、ここまで厳しい言葉を書くに至った理由は何なのか。在日を含めた朝鮮民族の人々は、馬野氏のこの言葉を正面から受け止め、考えるべきではないでしょうか。
私は、今も韓国と韓国人に深い愛情を持って居ます。しかし、そうであるからこそ、3・1運動から90周年に当たる今日、あえて、この様な、辛口の問題提起をして、日本と朝鮮半島の真の友好が確立される事を祈りたいと思ひます。
2009年3月1日(日)
3・1運動発生から90周年の日に (転載歓迎)
西岡昌紀
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1095339310&owner_id=6445842
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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=764975&media_id=4
北朝鮮は核・ミサイル放棄を=「3・1運動」の90周年式典で−韓国大統領が演説
(時事通信社 - 03月01日 13:11)
【ソウル1日時事】韓国の李明博大統領は1日の演説で、「北朝鮮を本当に守るのは核兵器やミサイルではない」と語り、北朝鮮に核兵器などの開発を中止し、韓国や国際社会との対話に応じるよう求めた。
李大統領は「誰も朝鮮半島の安寧と平和を損なってはならない。(威嚇行為が)決して成功することもない」と述べ、長距離弾道ミサイル・テポドン2号発射準備の動きを見せる北朝鮮に警告した。さらに、「南北は相手を認め尊重し、平和的に共存共栄していくことで合意してきた」と指摘。北朝鮮に挑発行為をやめるよう促した。
演説は日本統治時代に起きた「3・1独立運動」の90周年記念式典で行われたが、日本に関する言及はなく、未来志向の関係構築を目指す李政権の姿勢を反映するものとなった。昨年の式典では、日本との関係について、李大統領は「いつまでも過去に縛られるべきではない」と述べていた。
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