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箱根駅伝、東洋大学の優勝とは 2009年01月04日00:43
部員の痴漢行為によって出場が危ぶまれていた東洋大学。何とか出場は認められたものの、応援は禁止。このような条件の中でチーム一丸となれたとか。
出場67回目にして掴んだ栄光だそうです。
そして東洋大学を調べてみると、その前進は「哲学館」とか。そして哲学館は井上円了という哲学者が創設した学校です。
井上円了とは、新潟県の慈光寺というお寺の跡取りで、江戸時代の生まれ。
浦賀にペリー提督がやってきてから5年後の生まれです。(新撰組が活躍していた頃)
10歳の時が明治維新で、明治政府の廃仏毀釈政策によって弾圧され、仏教界からの脱出を企てたりしていたそうです。
石黒忠則(後の陸軍軍医総督)のもとで漢学、儒教、そして西洋の学問を学んだとのこと。
その後、英語を学びキリスト教を学ぶのですが、そこに彼の求めるものを見出せず、明治10年に出来た東京大学へ入学。(仏教界・東本願寺の命令で東京大学に入学したとか)
そして、西洋哲学にこそ求める真理があるとして哲学(明治7年に西周によって作られた言葉)を志すのです。しかし、西洋哲学を学びながらも、いつも彼の身近にあった仏教の教えとの比較をしている自分に気づき、そこに数千年の歴史をもつ東洋の哲学もあることを見出します。
慶応義塾などの設立が相次いでいた時代。若き井上円了は「西洋崇拝の時代を正す」として哲学館設立を企画したとか。(鹿鳴館の時代です。味噌や醤油までが排斥の対象になっていた時代とか)
これ以降、資金作りに奔走する円了、そして勝海舟からの百円の寄付を始めとして資金が集まり、哲学館が創設されることになります。
明治政府の欧米化政策に反対し、日本主義(今の国粋主義)を唱えますが、やがてそれを人類全てとあらゆる動物、植物も含む主義(これを宇宙主義と表現したようです)に展開しました。
当時は日本近代国家建設の真っ只中。学問は自ら寄付を集めなければ成り立ちません。政界や実業界から多くの寄付が集まり始めます。(まだ税金システムがなかったから寄付は集まりやすかったようですね)
大隈重信、渋沢栄一、岩崎弥太郎などからも多額の寄付を受け取っているようです。
しかし円了は「資金はあくまでも民衆からのものでなければならない」といういわゆる「草莽主義」を持っていたようです。つまり日本全国の民衆の後援がなければ、学問は成り立たないという趣旨。
そして一般の人々に哲学館を開放し、平易な言葉で哲学の講話をするのですが、テツガクを鉄学と思われ、鍛冶屋の学校と解釈されたり、なかなか受け入れられません。
そこから、東洋の英知に学ぶ総合大学としての東洋大学構想が生まれたとのこと。
井上円了は合理主義の人。迷信をきらいます。妖怪退治と称して日本全国の妖怪を合理的解釈で廃棄しようとすることから、妖怪博士の異名をとります。
そして東洋大学の最初の校舎建設に当たって、風水とか鬼門などをすべて無視。迷信の排除を画策するのですが、その校舎が火災にあって全焼。周辺からきつい嫌味を言われたとか。
その後現在の白山に校舎を新設して、現在に至るということです。
明治維新から始まるこの時代。西欧かぶれを批判する井上円了と東洋哲学。
大東亜戦争の後のアメリカ一辺倒の日本にあって、どこか通じるところがあるようにも感じますね。
その東洋大学が、箱根駅伝で優勝したこと。
本年しょっぱな、混迷する日本の状況にあって、必要なものは哲学なのかも知れませんね。
勿論それは東洋哲学。今回の経済破綻の原因は西洋にあるようですからね・・・
その詳細は・・・東洋大学の哲学科に聞いてください。>>