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水俣病−江頭豊のしたこと
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/surf18.html
水俣病−江頭豊のしたこと:
水俣病に関しては、このシリーズの「net案内−2」で書いたが、水俣病に関する話をある患者さんとしていたところ、『1株運動』で糾弾されている江頭豊を「あのひとは水俣病の発生には関係がないのでは・・・結局、事態収拾の当時者だっただけで批判されるのは気の毒な気がする」と言われた。私には即座にそれに答えるだけの知識がなかったのだが、江頭豊の孫達の幸せそうな写真「小和田姉妹」と、ユージン・スミスが撮影した上村智子『入浴する智子と母』の悲惨さの対比が印象的だったので、江頭豊の果たした役割を検証しようと考えた。 (04・08・31 改訂)
今はタブー視?されているようなところがある皇太子妃の母方の祖父が、水俣病とどう関わったのか?と言う疑問に答えるため、水俣病はいつ頃発生し、患者や漁民達はどう行動し、行政はどう関わったのか?企業はどう対応したのか?などを知るため年表を作成した。
水俣病の発生と経過−1 江頭豊の社長就任前
1932 水俣工場、アセトアルデヒド・合成酢酸設備稼働開始、有機水銀を含む排水を
水俣湾百間港へ無処理で放流し始めた。(1932・05・07)
1941 水俣工場で塩化ビニール生産、工場からメチル水銀が流出する。
1942 水俣病はこの頃に最初の発生があった。
1950 この頃から「ネコ踊り病」が多数見られるようになる。
1956・04・21 最初の患者(5歳・女児)が新日本窒素肥料(株)附属病院を受診、23日には
入院となる。この女児の妹も入院、他にも2名入院したため
1956・05・01 附属病院、細川一・院長が「原因不明の脳疾患児の多発」を水俣保健所に
届け出た。(*公的な水俣病の発生)
1956・05・28 水俣市に「水俣市奇病対策委員会」が設置された。感染症も考慮し「患者の
隔離と消毒」を行う。
1957・03 水俣保健所の伊藤所長、水俣湾産の魚介類をネコに与えて飼育する
実験を実施、7匹中5匹が発症した。(症状は自然発症のネコと同じ)
1957 西田栄一・工場長就任、西田天皇と言われる。
1957・07・23 熊本県、食品衛生法による水俣湾産魚介類の販売禁止の方針
1957・09・11 厚生省、熊本県からの照会に対し「適用できない」と回答する。
1958・06 国会で厚生省環境衛生部長がチッソの排水が原因と答弁、通産省にチッソ
に対する指導を要請するが、拒否されてしまう。
1958・08 漁獲禁止にはならず「販売禁止」になり、漁業補償はされない。
(熊本県は「補償される権利がある」ことを漁民に教えなかった)
食品衛生法:有害またはその疑いのある食品の販売停止
漁業法:公益上必要な場合の漁業権停止とその補償
1958・09 チッソは排水管理委員会を設置、排水口を工場南側の水俣湾から、北側
へと変更、これにより不知火海沿岸にも被害が広がった。
1958・09 熊本大学竹内教授、水俣病の病理所見はハンター&ラッセルにより報告
された有機水銀中毒例とのみ完全に一致すると研究班報告会で報告した。
チッソ(西田工場長)が反論、対立を危惧したチッソ本社は、熊本大学と協
同して究明するよう要請、しかし工場長はこれを拒否した。
1959・02・09 厚生省水俣病食中毒部会(=熊本大学研究班)湾内の水銀分布を調査
する必要性を確認し調査を開始する。
調査の結果は彼らの想像を遙かに超えていた。
a)水俣湾内の泥土からは多量の水銀が検出され(排水口近辺では泥土
1tあたり2Kgの水銀を検出)「まさに水俣湾は水銀鉱山化」していた。
b)不知火海沿岸住民の毛髪中からも大量の水銀を検出した、とりわけ
水俣病患者およびその家族の毛髪には著しく大量の水銀を検出した。
c)海水中の水銀量は希薄であるのに、湾内の魚貝類から多量の水銀が
検出された。←生物体内で水銀が濃縮されていた。
1959・04 熊本日日新聞・社内報「患者多発地区の湯道、月浦、茂道と患者宅を取材
に飛び回った。袋湾や漁協には漁の出来ぬ船が無残な姿で放置され、うつ
ろな目で船を見つめる漁民達の姿がみられた。水俣学-高峰武
1959・07・14 朝日新聞が「原因は有機水銀」とスクープした。
1959・07・22 熊本大学水俣病医学研究班が「水俣病は現地の魚貝類を摂取すること
によって惹起される神経疾患であり、魚貝類を汚染している毒物として
水銀が極めて注目される」と発表した。・・・非公開の研究報告会だったが、
発表前に新聞に出てしまい、世論は騒然となる。
熊本大学の有機水銀説の発表に、チッソ内部にも有機水銀説が正しいと
確信していた技術者がいた。塩出忠次はアセトアルデヒドができる課程
で有機水銀化合物ができることは解っていた。酢酸課長の中村氏に
報告した。しかし、チッソは塩出の忠告は採用しなかった。(NHK-96)
1959・10・07 工場排水により「ネコ400号」が水俣病を発症した。
1959・10・17 熊本県漁連、新日窒に交渉を申し入れたが拒否され、工場に投石したため
警官隊が出動する騒ぎになった。
1959・12・30 患者家庭互助会、チッソと「見舞金契約」を締結した。
チッソ社長は患者に謝罪する、しかしこの謝罪は「あくまで道義的な
もので、法律的な責任を負うものではない」と言った。
1959・11・02 熊本県漁連主催・不知火海沿岸漁民総決起大会。漁民が工場に乱入し、
警官隊と衝突し、多数の負傷者を出す。
1960 水俣工場のアセトアルデヒド生産量4万5245トンと最大になる。
1962・11・29 胎児性水俣病16名が認定された。
1963・02・16 水俣病の原因はチッソの工場排水だと熊本大学が証明した。
1964・05 水俣漁協、水俣湾内の漁獲自主規制を全面解除する。
水俣病の発生と経過−2 江頭豊の社長就任後
1964・12 江頭豊、新日本窒素社長に就任(筆頭株主の日本興業銀行から就任)
1965・01・01 社名を「新日本窒素」から「チッソ」に変更した。
1965・01・10 昭和電工、アセトアルデヒドの生産を停止する。
製造工程図は消却し、プラントは撤去してしまう。
1965・06・12 新潟大学・椿&植木教授、新潟水俣病の発生を報告する。
1967・06・12 新潟の水俣病患者が昭和電工を新潟地方裁判所に告訴した。
4大公害裁判、最初の提訴−新潟水俣病第1次訴訟−
3世帯1 3人、昭和電工を相手取り4450万円の慰謝料を請求し提訴
1967・07・21 「公害対策基本法」が成立、8・03 公布施行となる。
1968・05・18 水俣工場がアセトアルデヒド製造設備の運転を停止した。
1968・09・26 政府、公式に水俣病を認め、厚生省も公害病と認定した。
1968・09・27 公害病の認定を受けチッソ江頭社長は患者家族に詫びて回る。
1969・02 チッソが具体的な補償案を出さず、厚生省が調停にのりだす。
1969・06・14 自主交渉派がチッソを提訴した。 (水俣病裁判)
1970・11・28 株主総会に患者が乗り込む。(NHK報道)
1971・07・01 環境庁発足
1971・07 江頭豊、会長に就任
1971・12・06 患者家族がチッソと補償交渉を行い、東京本社前で座り込みを開始
自主交渉闘争を始めた。
1972・01・07 千葉県のチッソ五井工場に抗議に訪れた「自主交渉派」の被害者や
ユージン・スミスら報道陣をチッソは社員(or暴力集団)に襲わせた。
1972・12 ユージン・スミス『入浴する智子と母』を撮影する。(上村智子15歳)
1973・01・20 熊本水俣病患者家族141人、チッソを相手取り総額16億8千万円余の
慰謝料を請求し熊本地裁に提訴−熊本水俣病第2次訴訟−
1973・03・20 熊本水俣病第1次訴訟判決 (原告勝訴・確定)
1977・02・07 上村智子死亡 (21歳)
1978・10 ユージン・スミス死亡 (1918アメリカ生まれ、60歳)
[コメント]
この年表だけで充分、環境汚染の怖さが伝わってきますね。
余談ですが、オウム真理教の元教祖の麻原も熊本の八代町の出身で、目が不自由なのは水俣病のせいだという報道を目にしたことがあります。麻原のルサンチマンがオウムの恐怖を生み出したのでしょうか?