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2008年09月01日
日本最初の紙幣として生まれた「山田羽書」
江戸時代、伊勢の度会の地にあった山田という町は伊勢参りで大変なにぎわいだった。年間40万人、多いとき、つまり「おかげ参り」のときには400万人もの参拝者が山田へ、山田へと集まった。人口が現在の4分の1ぐらいの時代、飛行機も自動車もない時代、みんな徒歩である。
伊勢参りを仕掛けたのは御師(おんし)といわれる人々だった。伊勢神宮=当時は神宮とだけいった=の周りには御師の館が数多くあり、参拝客のお世話をした。旅館兼案内人であり、大規模な御師の館では神楽舞台を設け、神さまへの神楽奉納も行った。盛時には1000人の御師がいたというから“従業員”を含めると1万人内外の人たちが“観光業”に従事していたことになる。
御師という人々は伊勢神宮だけのものではなかった。もともとは熊野詣でを斡旋した人々の役割をまねたものだった。全国各地を行脚して伊勢参りの大切さや楽しさを語った。たたの語り部だけではない。村々で「講」をつくって小金を積み立てさせ、交代で参拝するというシステムも御師たちの手によって開発された。
全国行脚にはお土産として、必ず天照大神のお札を携帯した。全国津々浦々の神社で配られるこのお札はいまでも1000万枚に近い。いつからそうなったかは知らないが、たぶん御師たちの功績なのだろうと考えている。
農村部で大切にされたのは暦である。江戸時代いちばん普及していたのが山田で印刷された「伊勢暦」だった。いつの時代でも暦を支配したのは当時の為政者たちだった。もちろんこの伊勢暦は江戸幕府のお墨付きをもらっている。伊勢暦も恩師のおもやげとなった。
このほかみやげとしては万金丹という万能薬と伊勢おしろいがあった。ともにこの地方の特産である。万金丹は全国どこの家にもあったというからすごいことである。富山の薬売りにとっても行商に欠かせない薬だったと思う。
伊勢おしろいについては別途書きたいと思うが、山田で特筆すべきは、日本最初の「紙幣」を発行したことである。「山田羽書」(はがき)という。初めは秤量銀貨の小額端数の預り証(手形)として、釣り銭の代わりに発行されたが、17世紀には事実上の紙幣となって流通した。「羽書」とは「端数の書き付け」に由来する名である。
右(実物大)の縦長の紙に、銀の重さ、発行日、発行者名とその印鑑などのほかに「この羽書と引き換えに銀を渡す」と書いた。つまり兌換券である。兌換という言葉はなかったが、日本で独自に生まれた「金融慣行」の一つだったはずだ。その後、各藩で発行された藩札の起源は山田羽書にある。
この御師たちこそが山田羽書の発行者だった。山田の自治組織である三方会合をつくり発行を厳格に管理したため、幕府が一時、藩札の発行を禁止したときも山田羽書だけは発行の継続を許された。というより寛保2年(1742)には発行者は404人になり、銀一匁札に交換できる羽書だけで130万枚もが藩を越えて流通していたため、幕府としても禁止できなかったのが実情だったのだろう。御師たちは日本金融史の中でもっと評価されていいのだと思う。
ちなみにヨーロッパで最初の紙幣は1695年、エジンバラで設立されたスコットランド銀行によって発行されたとされているから、山田羽書はそれよりもよほど早い時期に発行されていたことになる。