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http://zerohiro.ddo.jp/gunnka/gunka-B/昭和維新の歌.mp3 音量に注意。
青年日本の歌 作詞作曲:三上卓
昭和5年に作られた。作者の三上卓は五・一五事件の反乱将校の一人。別名「昭和維新の歌」。二・二六事件後は「反乱をあおる危険な歌」とされ、歌唱が厳重に禁止された。歌自体の完成度の高さもあってか他の軍歌と同じく当時から現代まで愛唱されている名軍歌・革命歌の一つでもある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%AD%8C)
三上氏は1961年に発覚したクーデター計画である「三無事件」にも関係している。
三無事件
http://www.asyura2.com/07/senkyo43/msg/614.html
投稿者 愚民党 日時 2007 年 10 月 26 日 20:40:07
1 | 汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く | 汨羅の渕に…注1 巫山の雲は…注2 |
2 | 権門上(かみ)に傲れども 国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども 社稷を思う心なし | 権門…権力を持った家柄 社稷…国家・宗廟 |
3 | ああ人栄え国亡ぶ 盲(めしい)たる民世に踊る 治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり | 民…「針で目を突いた奴隷」の形から出来た字らしい。 |
4 | 昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫(ますらお)が 胸裡百万兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の桜花 | 朶…垂れ下がった枝 |
5 | 古びし死骸(むくろ)乗り越えて 雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ 国を憂いて立つからは 丈夫の歌なからめや | |
6 | 天の怒りか地の声か そもただならぬ響あり 民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ | |
7 | 見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫(おたけ)びて 革新の機(とき)到りぬと 吹くや日本の夕嵐 | 九天…中央・東西南北と東北・西北・西南・東南の天 |
8 | ああうらぶれし天地(あめつち)の 迷いの道を人はゆく 栄華を誇る塵の世に 誰が高楼の眺めぞや | |
9 | 功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう | |
10 | やめよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ われらが剣(つるぎ)今こそは 廓清(かくせい)の血に躍るかな | 離騒…屈原の詩。注3 廓清…粛清 |
注1
汨羅の渕に波騒ぎ:
(楚の高官であった屈原(くつげん)は親斉=反秦派として)忠言を以てするが讒言のため職を解かれた上、都を逐出されて各地を流浪した。やがて、秦が楚の都郢を攻めた時、屈原は汨羅(現・湖南長沙の北方)に身を投げて自殺した。時に、前278年の5月5日で、端午の節句の供え物(粽。ちまき)は、屈原を悼んでのものともいう…。
(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p59.htm)
注2
巫山の雲は乱れ飛ぶ:
巫山雲雨:昔、楚の襄王が夢に神女と契った山で、神女は去るときに、自分は朝には雲となり夕暮れには雨となると言ったことに由来し、転じて男女の情交を謂う。
(http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi29.htm)
注3
『離騒』の末尾の部分:
已矣哉(やんぬるかな)! | :もうだめだ |
國に 人 無く 我を 知るもの 莫(な)し, | :国に人物がいなくて、わたしを理解する者がいない |
又 何ぞ 故都を 懷しまん乎(や)? | :またどうして、楚の朝廷を懐かしく思おうか |
既に 與(とも)に 美政を爲すに 足るもの 莫し, | :すでに理想の政治を実現するのに充分ではない以上は |
吾れ 將に 彭咸に 從ひて 居す所に 之(ゆ)かん! | :わたしは、まさに彭咸に従い、水神となるところへ行こう |
土井晩翠『星落秋風五丈原』からの借用が多い。以下の通り。
・治亂興亡おもほへば 世は一局の棊なりけり
・胸裏百万兵はあり
・見よ九天の雲は垂れ 四海の水は皆立ちて
・功名いづれ夢のあと 消えざるものはたゞ誠
・人生意気に感じては 成否をたれかあげつらふ
(http://uraaozora.jpn.org/podoi2.html)
『星落秋風五丈原』は、この昭和維新の歌が作られた当時、若者のあいだに大いに膾炙していたそうである。それが今やどういうわけか、創価学会の「学会歌」なるものになっているらしい。
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20061018/p1
あちゃ。
※屈原について。
屈原の作と伝えられているそうだが、内容からしてそうでもなさそうな気もする「漁父」という詩がある。
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屈原が都から追放されて歌を作りながら川のほとりをさまよっていた。顔はやつれ、姿かたちもやせおとろえている。
漁師が見て、尋ねた。「あなたは三閭大夫様ではないか。どうしてこんなところまで来られたのか?」
屈原は答えて、「世は挙げて皆、濁っており、自分ひとりが清(す)んでいる。人々は皆酔っており、自分ひとりが醒めている。だから追放されて、ここまで来たのだ」
漁師が言う。「えらい人は、物事にこだわらず、世の動きに自分を合わせるものだ。世の人が皆濁ってしまったのなら、どうして一緒に泥にまみれないのか。人々が酔っているなら、どうして一緒に酔わないのか。なぜお高くとまって自ら追放されるようなことをなさるのか?」
屈原は答えて、「聞くところでは、髪を洗う者は必ずかぶる前に冠のゴミをはじき、体を洗う者は必ず着る前に衣服のほこりをふるうという。どうしてこの清廉な身でもって、けがれたものを受け入れることなどできようか。それならいっそ湘水に飛び込んで、魚の腹の中に葬られた方がましであろう。この潔白な身をもって世俗の塵埃をかぶるようなことなどできぬわ。」
漁師はにっこり笑って、舟の楫をたたいて歌いながら去っていった。曰く、
「滄浪(そうろう)の水清(す)まば、もって我が纓(えい)を濯(あら)ふべし。滄浪の水濁らば、もって我が足を濯ふべし。」
(滄浪・・・川の名。もって・・・それでもって。纓・・・冠の飾りの紐。)
そのまま去り、二度と会話を交わすことはなかった。
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何とも融通のきかないカタブツというべきか千万人といえども吾往かん意志の強さというべきか、ともかくあの合従連衡の権謀術数の時代に正面突破一本槍でただひたすらに愛国をつらぬいたとされ、中国では困難に当たると必ず屈原が思い出されることになっている、という話である。