★阿修羅♪ > 歴史01 > 340.html
 ★阿修羅♪
三国志メモ:南陽の地政学      【神々しいまでのガラクタ市】
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/340.html
投稿者 hou 日時 2008 年 8 月 24 日 22:46:56: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.144.html


三国志メモ:南陽の地政学(8月13日)
 南陽という地がある。


 三国志の中ではその南陽郡の中に含まれる都市、襄陽・樊城が非常に重要な拠点であるという結論だけ語られてきた(この漢水を挟んで向かい合う二都市は後に『双子都市』襄樊として元の侵攻を退け続ける南宋屈指の防御コンプレックスとなる)、そしてそれだけで打捨てられてきた地だ。

 なぜ襄陽・樊城は重要なのか?

 これは本当に基本的な問いだと思うのだが、この問いをきちんと検証してみた人は恐らくいまい。ネット内をあらかた漁りまわったが、見当たらなかった。「襄陽・樊城が重要なのは、そこは『北が制すれば南を攻略でき、南が保持すれば北に対抗できる』拠点だからさ」と言う人はいるだろう。しかしそれは何故か?と問われたら、口を噤むしかないのではないだろうか?

 三国志時代から始まる襄陽・樊城の重要性は、それらが属していた南陽の地勢が地政学的に偏ったありかたをしていたためであったことを示したい。

 

 まず図をみて頂きたい。(図:南陽の地勢と三国志各将の侵攻経路)
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.503.gif

 南陽郡は南陽盆地をまるまるその治政下に収めている郡である。ここは元々は戦国七雄『楚国』の本拠地だった。そのため図に描かれているように旧楚国の長城が遺構として存在している。楚の長城は南陽盆地の縁に沿うようなかたちで桐柏山系が途切れる東端から南陽盆地の北半分までを囲い、そのまま南に南下して穣城付近で途切れる。これは防御コンプレックスとして南方からの侵攻を想定していないため今の我々から見て中途半端な形状に見えるが、春秋戦国期にあって楚はまさに中原から外れた南端にあり、楚の南は楚を脅かすようなまとまった勢力などない未開の地で長城をつくる意味がなかった。また南陽盆地の西半分にも長城が伸ばされて居なかったが、それはやはり後に武関を経由する道が成り立つまで、盆地の西は登*林と称される森林地帯で垣根が作られており、西からの防御を考える必要がなかった。楚が西よりも東への膨張政策を念頭においていたことも理由としてあったのだろう。この旧楚の長城は三国志時代にも残っていた。現在でも(この楚国長城だけでなく他の六国の長城も)遺構が残っていることから、六国を束ねて全土を統一した秦の始皇帝はこれら六国が築いた長城を積極的に破壊するようなことはしなかったらしい。(始皇帝にとっては先に匈奴対策として北辺の長城を万理に亘って築き上げることの方が急務だったのだろう。)どの程度残っていたか定かでないが、現在でも残っているなら三国志時代であれば、まだ使用に耐える部分があったとしても不思議はないだろう。

 

【黄巾賊の南陽戦略】

 後漢末、中平元年(184年)正月、黄巾賊が蜂起する。張角を首領とする黄巾賊首脳部はかなり練り込んだ叛乱計画を企図してしていたようだ。彼らはまず冀州西南部、豫州西北部、荊州北部で一斉に蜂起した。戦略としては洛陽を包囲する形を取って蜂起し、中央と関東の連絡を断ちきった上で、中央が対策を施す前に連絡を断ちきられた関東以東、河南以南の地を順次黄巾賊のものに塗り替えていくというものである。戦術として彼らは蜂起にあたって軍事力が弱体なところを狙った。冀州安平国や甘陵国など劉氏が王に封じられている所が真っ先に狙われ、黄巾賊の手に陥ちた。豫州では陳国が狙われた。軍事オタクで強弩マニアの陳王劉寵は趣味で集めていた強弩数千張を駆使して辛うじて自身が囚われる最悪の事態は回避したが、陳国自体は黄巾賊の首魁波才のいいようにされた。

 このように、黄巾賊の所期戦略は先ず中央と地方の連携を断ちきるように蜂起する。その蜂起の拠点として軍事力の弱体な王国を狙い撃ちする、次いでそこを核に戦力を整え、中央との連絡を断ちきられて動揺する郡守たちを順次潰してゆくというものであった。しかし、その黄巾賊の所期戦略で唯一、南陽郡だけが『軍事力の弱体な王国を先ず狙う』という主旨に沿わないのに、狙われて攻め落とされた。南陽郡は光武中興以来優遇されてきた郡で、後漢書郡国志に拠れば城の数(県の数)三十八は洛陽を擁する河南と見紛うばかり、戸数は五十三万に迫り、口数(人口)は二百四十三万を越える堂々たる大郡であり、その郡城である宛は周囲三十六里を数える大城であった。その堂々たる大郡の郡城を、貧弱な装備しか持てないはずの蜂起初期に黄巾賊は真っ先に狙ったのである。何故か。

 それは、南陽の地勢を見れば明かだ。宛を押さえた上で、旧楚の長城遺構に拠れば、長城によって囲い込まれ南陽郡の治める他の三十を越える諸都市が中央と切り離されてそれぞれに孤立する形勢となる。宛を押さえただけで三十余りもの都市を吾がものと出来るのだ。これほど美味しいことはないだろう。その上、進んでは楚国長城から勢力を浸透させて河南・豫州を脅かすことが出来るし、退いては楚国長城に拠って朝廷から荊州を防御しその資を食むことが出来る。一方、ここを押さえることに失敗すれば非常に不味いことになる。南陽郡はそれ一郡だけで中原の三郡にも匹敵する城数、人口を誇る。郡守が楚国長城を利用して豫州で蜂起した黄巾賊から郡を護りつつ(荊州)刺史を助けて郡内で盛んに兵を募れば三郡分の軍事力が宛に集まることになる。楚国長城のような巨大な防御コンプレックスを持たない中原の黄巾賊は一旦守勢にまわればとても南陽から出征する(荊州からの)政府軍を防ぎきれない。

 南陽(とその郡城である宛)は黄巾賊が蜂起する時、その最初にどのような無理をしても陥として置かなければならない場所であった。その南陽の戦略的重要性は南陽の地勢と光武帝によって始まった後漢王朝の南陽優遇政策によって生みだされた地政学的要件によるものであった。

 なお、旧楚の長城遺構には穴があった。葉-堵陽-博望を結ぶラインからの侵攻が容易であったようなのだ。豫州黄巾賊を撃破した政府軍の将官朱儁は豫州西平を陥落させた後、そのまま西へ進むこのルートで豫州から宛へ侵攻したと見られる。また曹操も劉表との間で荊州北部を争った際、ほぼ毎回このルートで侵攻している。

 

【旧楚長城遺構(南陽盆地北辺防御コンプレックス)の有効性】

 前段、中心拠点を押さえられたら、南陽盆地北辺防御コンプレックスである旧楚長城遺構に囲い込まれた長城以南にある南陽郡の諸都市は中心拠点を押さえられた勢力に帰するしかないと言った。それは本当なのか?どの程度本当であるか?

 それを最も雄弁に語るのが、建安初めから冀州が曹操に帰すまでの間に曹操と劉表の間で行われた荊州北部を巡る軍事衝突である。建安元年仲秋、許への遷都に成功して献帝を奉戴することが出来た曹操は翌建安二年から盛んに荊州北部への出征を繰返す。建安元年に曹操が拠点を移した許の地は潁川郡に属する。この豫州潁川は拠るべき広域防御コンプレックスを持たない『四戦の地』であり、常に周辺の勢力から脅かされる定めにあった。旧楚の長城を擁する南陽はこの潁川と接していた。南陽は長城に拠って潁川の勢力を容易に防ぎうるのに、潁川は南陽からの勢力浸透を防ぎえない。曹操が南陽への侵攻を繰返したのは、南陽を擁する勢力(劉表)の影響力を常に排除しつづけなければ潁川を保持できなかったと言う点で至極当然のことだった。

 建安二年(197年)、曹操は張繍征伐の軍を起こし、宛へ攻め込む。別動隊として曹洪が舞陽、(舞陰)、葉、堵陽、博望に攻め込みそれらを手に入れる。しかし、曹操の本隊が舞陰から撤退すると、これらの都市はたちまち反旗を翻し、曹操側は確保出来ずに撤退してしまう。南陽盆地丘陵部(楚の長城)の為に後方連絡線を確保するのが難しく、そのため劉表の勢力が浸透すると曹操勢力は退けられてしまったのだ。曹洪は長城の外にある葉に駐屯しそこを盾に劉表が長城外へ勢力を浸透させるのを防ごうとするが、なかなかに難しく、殆ど自分が孤立したような状況になっていることが曹操の伝である三国志「武帝紀」に記されている。仕方なく曹操はこの年(197年)冬に再度南陽に攻め込み、宛、湖陽、舞陰を攻め落とし、劉表の勢力を削ぎ落とす。恐らくこの時、宛の城壁をかなり破壊したようだ。劉表と連合している張繍はその後、宛に戻らず穣を拠点としているし、後に劉表の下へ寄宿する劉備は新野に駐屯しているからだ。

 しかし、官渡の戦い以後、長沙太守張羨の叛乱を鎮圧し荊州南部への勢力拡張に成功した劉表が力を蓄えてくると、やはり長城に囲われた領域は曹操の手を離れる。三国志「杜襲伝」に裴松之が注する「九州春秋」に記されているが、建安六年(201年)、曹操によって西鄂の県長に任じられていた杜襲は劉表軍の攻撃を受け、防戦虚しく西鄂を失陥し、曹操の下へ逃げ帰っている。この頃、汝南から逐われて劉表の下に居た劉備は南陽を押さえるべき新たな拠点として新野を選んでそこに拠ると、そこを拠点として機動防御を行うことで旧楚長城内の諸都市を劉表勢力に塗り替えることを試みた。建安六年に行われた劉表勢力の積極的な拡張政策は劉備らを擁することで、また新たな戦略拠点として劉備が新野を選択しそこに拠ったことで成されたものと考えられる。(このような視点で見ると、劉備の戦略眼や軍事能力は『演義』の劉備観に基づかれた巷間の劉備評のような無能なものでは決してなく、曹操が本気でかからなければ足元を引っ繰り返されかねない油断ならないものであったことが窺われる。つーかいい加減劉備の軍事能力をちゃんと評価してやれんもんなのかね、みんな、さ。)そのようにして南陽盆地一帯を劉表勢力に塗り替えると、劉備は建安七年(202年)、長城を越えて拡大策に出た。197年以来失われた葉の奪還に向かったのである。そのように潁川を脅かされた曹操は袁譚袁尚兄弟と対峙する中、夏侯惇を総司令官にし于禁を吶喊戦力にした軍に、彼らの輔佐役として李典を派遣して対処させた。劉備はその大軍を組織的な撤退によりうまく長城内に引込むと、博望陂にて火計で散々に打ち破る。劉備が長城内へ彼らを引込んだのは、夏侯惇らの後方連絡線を断って全滅させる積もりであったようなのだが、これは李典が途中で気づいて自らを後方予備として劉備に対処したため失敗に終わった。

 このように曹操と劉表の争いを見るだけで、南陽という地は中原から南陽盆地へ乗り込んできた勢力にとって後方連絡線を断たれ易く、また長期に渡って維持することも難しい地であり、南陽郡の南にある勢力によって容易く追い払われてしまうものであることが分かる。董卓の乱がおこった頃、袁術は麾下の孫堅に襄陽を拠点とした劉表を攻めさせたが、それはその地政学的要件が南方に他の勢力を残して置けば必ず南陽盆地に囲われた地域(即ち南陽郡の殆ど)を失ってしまうというものであったからで、それを危惧したからと分かる。また孫堅を喪った袁術が劉表に構わず北に向かうと、たちまち南陽を失ってしまったのも、まったく同じ理由によると分かるだろう。また、建安二十三年(218年)冬十月、宛で侯音が叛乱したがこれも同じことである。この叛乱はまるで黄巾賊が立った時のことを彷彿とさせるが、だが残念なことに黄巾賊がやりのけたようには上手くいかなかった。樊城に駐屯していた曹仁の北上によって翌年初頭に宛を陥とされ、彼らの叛乱は失敗したのである。曹仁の迅速果敢な行動がなければ恐らく南陽は曹操の手から滑り落ち、樊城に居た曹仁らも劉備勢力に囚われただろうに。しかし侯音の叛乱は時期が、時代が悪かった。南方からの勢力浸透に対し無防備な南陽は、この時、樊城を押さえられていたために当の南方の勢力と繋がり得ず、北方の勢力が楔として遺した樊城の軍事力によって防御コンプレックスが備えられていない南方から強襲されたため、拠点を陥とされ失敗したのである。しかしこれは(樊城を抜かれてしまえば)南陽は南からの侵攻にはまったく無力であることを逆説的な形で示している。

 南陽は中原と南方の勢力が接した時、南方の勢力に帰すべき運命の地勢にあった。北方の中原勢力が中原を脅かされないようにするには襄陽・樊城の確保が必須なのである。(北にとっては漢水の南側にある襄陽よりも北側にあって南方からの勢力浸透を漢水を盾にして防ぐことができる樊城の方がより重要であるのはここまでで分かって貰えると思う。)

 襄陽・樊城の重要性はこの三国志の時代に確立される。

 

【最後に:中原逐鹿の夢遥か】

 北から見た南陽の(そして襄陽・樊城の)重要性はこれまでの議論で明らかになっただろう。そして此処では最後に、この南陽の地政学的な要件を正しく認識していた二人の人物について触れたいと思う。

 諸葛亮は、荊州を用武の地であると言った。彼は、四方に拓けたこの地は武力を用いて周辺を切り取ってゆくほかに安定させることは難しい、ここは守業の地ではなく創業の地、天下に覇を争うための地なのだと見た。諸葛亮は主君と見込んだ劉備にここはそのような用武の地であるのだから、ここに拠って西方は益州に侵攻してその地を我がものとし、南方は蛮族を懐け、東方は孫権と結んだ上で、上将に荊州を任せて北の方、宛、洛(陽)へ攻め込ませる、そして劉備自らは益州の兵を率いて秦川を窺う、そのように(この地を利用)すれば覇権は成ると説いた。

 周瑜もまた彼の主に荊州から中原を窺うよう説いた。彼は天下を二つに割ってその南方を尽く自ら兵を将いて孫家のものとし、漢中に孫権の弟を置いて守りを固めさせた上で、自らを一人の上将として荊州から北を窺い曹操と雌雄を決し、なんとしても孫家に天下の全てを闊歩させる所存であった。

 二人とも、襄陽から宛を抜け、中原へ攻め込むことが必要なことだと認識していた。南陽の地政学的要件からすれば、それこそが、中原の勢力を脅かし、雌雄を決さざるを得なくする只一つの道程<ロイヤル・ロード>であったからだ。

 しかし。

 二人の夢が叶うことは無かった。

 周瑜は志半ばにして病で斃れた。周瑜の図ったものを正しく量ることが出来なかったか行う自信を持てなかったか、孫権は曹操が死に、劉備が逝ったあとも、周瑜の壮図を実行することはなかった。鮮やかに描かれた筈の夢は、時の流れに洗われて、やがて孫家の中で虚しく頽れていった。

 諸葛亮は主に捧げた夢を託した上将関羽が荊州と共に滅ぶのを見た。長安の曹操と寿春の夏侯惇、曹操が持っていた軍事力の殆ど全てを、互いに連絡を取りあえようもなく合流しようもない隔たった二つの場所に集めさせることに劉備勢力は成功し、関羽はその機を過たず捉え、南陽確保へ向かった。曹操勢力は真っ二つにされる筈だった。曹操がその生涯で冒すことなどおよそ有りえないような状況がそこにあったのだから。只一度の機会。二度と来ないだろう、その機会。それが目の前にあったが故に、その機会が去りつつあったこと、去ったことを関羽は認められず、引き際を誤った。そして、夢は滅んだ。

 

 三国志の時代は古代中国終焉の晩鐘が鳴り響いていた時代であった。古代から中世への緩やかな流れの中に三国志の時代はあり、その三国志の時代にあったからこそ、南陽の地勢の特殊さはドラマを生んだ。古代中国の戦国七雄華やかなりし頃に南陽盆地の北縁に沿って築かれた旧楚の長城は漢が興って中国が大きく南へ広がると、南陽の地政学的要件の特殊さを一層際立たせることになった。その南陽をめぐる三国志時代の英雄・俊傑たちの動きはやがてこの地を押さえるべき重要な拠点としての襄陽・樊城の確立に繋がっていった。南北朝が終わり隋興り唐が立って時代が中世に変わってしまってからまことしやかに「襄樊(襄陽・樊城)は中華のへそである。北が制すれば南を攻略でき、南が保持すれば北に対抗できる」との言辞が語られるようになる。しかし、その言辞はそれだけを鵜呑みにすべきものではない。それは古代から中世への流れの中で果たした南陽の特殊な地政学的要件とそれをカバーするためにその確保に心を砕き、その整備に務めた中原の勢力の積み重ねあって出来上がった見解なのである。

 

P.S.:長い中国の歴史の中、南方が北方を併呑することは殆ど起こらなかった。だから三国志の時代も、魏以外の勢力が中原へ攻め込み、天下を統一することはありえなかろう、との議論を見ることがある。しかし、この南陽の地勢を見ると、南から北へ、そして全土統一へ、のルートは確かに存在していることが分かると思う。(結果として)魏が樊城・襄陽を頑なに確保しつづけていたからそう見えないだけで、可能性はあったのである。

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 歴史01掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。