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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu163.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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『日本軍のインテリジェンス』 小谷賢:著 日本は独ソ戦勃発の情報
を事前に得ていながら時間を浪費し、既定路線の南進策を選択した。
2008年3月15日 土曜日
◆『日本軍のインテリジェンス―なぜ情報が活かされないのか』 小谷賢:著
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062583860.html
◆日本とイギリスの情報戦略に対する姿勢
本章ではより大局的なレベルにおけるインテリジェンスの利用について考察していく。戦略レベルにおける日本の態度は基本的に受身であり、対外政策に関しても外的要因というよりは、陸海軍内部の組織関係が意思決定に及ぼす影響がきわめて大きかった。従ってこのような対外政策決定過程にとって重要なのは部内の組織や人間関係であり、対外インテリジェンスではなかった。この意思決定の仕組みこそが、日本のインテリジェンスを無用にした第一の原因である。
他方、当時のイギリスは、帝国防衛委員会(CID)という世界戦略を規定する場を持ち、そこでの意思決定のためには詳細なインテリジェンスが必要とされた。そしてそのようなインテリジェンス、を提供するのが合同情報委員会(JIC)であり、合同情報委員会の情報評価のために情報を集めてくるのが、秘密情報部(SIS)や各軍の情報部、そして通信情報を集める政府暗号学校(GC&CS)であった。アメリカもこのCIDに傲い、戦後、国家安全保障会議(NSC)を設置している。
ところが日本では何度も説明してきたように、大局から戦略を判断し、そのためのインテリジェンスを提供する組織自体が欠けていた。昭和以前の時代までならそのような役割は元老が果たしたのであろうが、昭和以降になると日本には長期的な戦略を立案する者がいなくなるのである。従ってその隙間に陸軍を中心とする軍部が浸透してきたわけであるが、軍部はそのような能力も組織も持ち合わせておらず、中央情報部に育つ可能性のあった内閣情報部の力を削ぎ、総力戦研究所などに対してもあまり関心を持たなかった。以下では戦争に至る政策決定において、インテリジェンスの役割がどのようなものであったかを俯瞰していく。(中略)
◆(2)独ソ戦勃発に関わる情勢判断
戦前の日本の政策決定過程が苦手としたのは、迅速で柔軟な意思決定であった。当時の政策決定過程で重要とされたのは、組織間のコンセンサスであり、情報ではない。そのため、重要な局面で決定的な情報が届いたとしても、そのような情報は政策決定に活かされ難いのである。
例えば一九四一年六月の独ソ戦勃発以前に、日本、イギリスはほぼ同じ情報を入手したが、それぞれが異なった結論と対策を導き出している。その情報とはベルリンの大島浩大使から東京への報告であった。
一九四一年四月一八日、大島は独ソ開戦情報及び意見具申を東京に伝えたが、当時日米交渉に没頭していた政府及び陸海軍首脳の対応は、情報を胸中に秘めたまま、というありさまであった。近衛首相に関しては、内閣書記官の富田健治が当時の近衛の心境を代弁している。「この情報(筆者注・大島情報)をそう強く信じたわけではないが、かなり心配していた。しかし帰国した松岡外相が否定的であり、陸海軍も独ソ戦開戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」
他方、イギリス側ではこの電信を五月一〇日に解読している。しかしこの段階で日英とも独ソ戦への確信がなく、両国が動いたのは六月四日、六日の大島電であった。大島は第六三六号電で、ヒトラー総統、リッベントロップ外相の見解として、「両人とも独ソ戦が恐らく避け得ざるべきことを告げたり」と伝え、独ソ戦が間近に迫っていることを東京に報告していた。
そのころ、ロンドンの北部に位置するブレッチェリー・パークの暗号解読組織、GC&CSはこの大島電を傍受、解読し、その解読情報はただちにロンドン・ホワイトホールのJICに届けられている。英インテリジェンスの要であるJICの結論は以下のようなものであった。
<最新の情報に拠れば、ドイツはソ連攻撃の意図を固めたようである。攻撃は確実であるが、詳しい日程までは未確認である。それは恐らく六月後半になるであろう。>
さらにこのJICの結論は、カヴェンディツシュ・ベンティングJIC議長からチャーチル首相の許へと届けられた。そしてチャーチルは即座にしてこの情報の持つ重要性に気づき、行動を起こすことになった。それは、フランクリン・ローズヴェルト米大統領に宛てられた極秘の書簡である。
<いくつかの信頼すべき情報筋に拠れば、ドイツの対ソ攻撃が追っている。(中略)もし新たな戦線が開かれれば、もちろんわれわれは対独戦争のためにロシアを援護するべきであろう。>
チャーチルは、まだ勃発もしていない独ソ戦の予測を知らされ、迅速に英米ソの結束をローズヴェルトに働きかけているのである。チャーチルのソ連・スターリン嫌いは有名であったから、この判断は正確な情報と客観的な戦略思考から下されたものである。またこの時、アレクサンダー・カドガン外務次官も、「独ソ戦に備えてどのようなプロパガンダを画策するか、オルム・サージェント(外務次官補)、オリヴァー・ハーヴェイ(イーデン外相の私設秘書、情報省)、レジナルド・リーパー(外務省政治情報局長)らと話し合った」と来るべき独ソ戦に備えて計画を練っていた。
このように大島情報を傍受したイギリス側の対応は迅速なものであった。それでは日本においてこの大島情報はどのように取り扱われたのであろうか。
日本側にとっては、この大島電が初めて独ソ戦の可能性を伝えたものではなく、既述のように大島の警告は東京に届いており、またストックホルムの小野寺からも独ソ戦についての情報が届けられて7いた。後知恵的にこれらの情報を検討すれば、まず独ソ戦の勃発は松岡の四国同盟構想を破綻させるため、対ソ戦略が見直されなければならない。そして陸海軍が四月に策定した「対南方施策要綱」に対しても修正が必要となってくるため、六月初旬に日本の国策の大幅な見直しと新たな戦略策定が行われるべきであった。
ただし現実の状況は複雑である。まず中央で権限を持ってインフォメーションを加工、インテリジェンスを報告する組織がなければ、この種のインフォメーションはあらゆる部局で主観的に評価され、政治的に利用される。南進を望むものは、独ソ戦によって米英がアジアに介入する危険性が低下するとして南進に傾くであろうし、逆に北進を望むものはこの情報を利用して対ソ戦を訴えるであろう。現に六月六日に陸軍省内で行われた課長級会議ではこの大島情報の真偽をめぐって紛糾し、収拾がつかなくなるのである。
さらに上のレベルにおいても大島情報に対する見解は、統一されるには程遠い状態であった。この時、参謀本部情報部長、岡本清福少将の見解は、「一国の元首がやるというからにはやるだろう」というものであったが、松岡外相の反応は、「(大島)大使の観測にも拘わらず、独ソの関係は協定成立六分、開戦四分とみる」であり、東條陸相の見解も「急迫せりとは見ず」というものであった。近衛首相は木戸幸一内大臣に対して、「独はいよいよソ連を討つとのことなり」と話していることから、独ソ戦の公算が高いと考えていたようである。
しかしこの段階で統一した見解を導き出すのは困難な状況であった。「独ソ戦の可能性大」という大島や小野寺からの報告に接していながら、軍、政府首脳はこの情報を正面から受け取るどころか、その可能性について自分たちの認識に合わせた議論を始めるありさまであった。これも一種の情報の政治化であったと言える。
鎌田伸一はこのような日本の政策決定過程を「ゴミ箱モデル」と呼ぶ。「ゴミ箱モデル」とは文字通り、各人がゴミ箱にゴミを投げるように議論を交わし、一致した結論の出ないままいつの間にかゴミが収集される。そしてまた新しいゴミ箱が用意され、それに向かって不毛な議論を繰り返すようなイメージであり、そこには合理性の欠片もない。さらに付け加えれば情報の類もそのようなゴミ箱の中に投げ込まれるため、情勢判断や政策決定が入り混じってしまい、政府として統一した政策を導き出すのが困難となってしまうのである。
そしてこのような政策決定のモデルにおいては、政策と情報が相互に連携する合理的政策決定過程どころの話ではなく、情報利用の可能性はその時々の状況やアクターに拠り、しかも誰も主導権を握ることがないので、予想外の結果が生じてくる事態も起こりうる。
大島情報に話を戻すと、結局この段階では結論を出すことができなかったため、検討は次の会議を開催してから、という悠然とした対応が取られた。そこには独ソ戦の勃発が世界の軍事バランスを、日独伊対米英ソといった二大陣営に分断してしまうという大局観がなく、せいぜい検討されたのがドイツの勝利に便乗した北進であり、実情はすでに南、すなわち陸海軍の目は南部仏印の方を向いており、六月二三日に独ソ戦が勃発してようやく日本政府は対応に追われることとなる。
政策決定者自らがインフォメーションを分析・判断しようとすると、このような状況に陥ってしまう。だからこそ、事前にインフォメーションからインテリジェンスを加工する専門の組織が必要なのである。しかし当時の政策決定者は、このような情報部局からの分析に頼ることはなく、できるだけ自分達で判断しようとしていた。
戸部良一がこの時期の政策決定過程を検討しているが、独ソ戦自体は日本の南進にある程度影響はあったものの、「陸軍では南部仏印進駐は独ソ戦に関係なく実施されるべき措置」であり、陸軍にとって南進は情勢の如何にかかわらず、「対南方施策要綱」によってほぼその方針が固まっていた。一方の海軍も初めから南進を志向していたのである。従って事前の大島情報は、日本の政策決定過程にほとんど影響を与えることがなかったと言えよう。
大島情報の問題は、いかに時局に合致した情報でも、すでに部局内の調整によって得られた方針を変更することは困難である、という命題を提示している。森山優に拠れば、陸軍内の政策決定過程だけでも、まず課長級が中心となって部内の意見を取りまとめ、そこから参謀本部作戦部長、陸軍省軍務局長、陸軍省次官、参謀本部次長、陸軍大臣、参謀本部総長の決裁を経て陸軍の試案が生み出される。
さらにそこからも海軍を初めとする他省庁との調整を行わねばならず、このような仕組みは煩雑そのものである。その結果、政策決定過程で必要とされるのは、情報に基づいた合理的な案ではなく、各組織の「合意」を形成できるような玉虫色の案と根回しとなり、そこに多大な時問と労力が割かれることになる。そうなると情報収集も他部局、他省庁、政治家の意向といった調整対象に向けられていく。
この政策決定の複雑さこそが日英の決定的な違いであった。すでに説明したように、イギリスの場合、GC&CS(情報収集))→JIC(情報集約・評価)→首相(政策決定)、と情報から政策までの流れがきわめてシンプルであり、情報に合わせた柔軟な政策決定が可能である。日本の場合、最初の段階である程度の情勢判断が行われ、その時に情報は必要とされるが、その後の政策決定過程において情報はほとんど必要とならない。
従ってそのような状況で情報が飛び込んできても、柔軟に政策を状況に対応させることができない。できるとすればまた一から政策を立案し直すことであろうが、右記のような政策決定の仕組みを見れば、それは時間的に許容されないであろう。結局、このシステムではどのような決定的情報が入手できても、そのタイミングが情勢判断時でなければそれを有効に利用することはできない。日本は独ソ戦勃発の情報を事前に得ていながら時間を浪費し、既定路線の南進策を選択したことになる。
参謀本部第二〇班の原四郎少佐は、「以上の情報(大島情報)は日本として軽視すべからざる重大情報であり、政府および大本営は独ソ戦開戦問題において、その可能性および対応策に関し、早期本格的に取り組むべきであった」と反芻しているが、根本的な問題は、政策を迅速かつ柔軟に決めることができないシステムそのものにあったと言えよう。
(私のコメント)
「日本軍のインテリジェンス」という本を読むと、戦前の日本軍は情報収集活動において欧米に決して劣っていたわけではないが、それを有効に生かしていくシステムができていなかったことが述べられている。日本の意思決定手段は複雑怪奇であり、昭和以前なら元老たちが中央情報部的役割をはたしてきたが、昭和になると長期的な戦略を立案する人物がいなくなってしまった。
アメリカやイギリスでは国家安全保障会議が作られて、そこで情報の収集と分析が行なわれるのですが、日本にはそのような部署は作られず、政策決定者自らが情報を分析する結果となり、情報が政治的に利用されてしまう結果となる。だから独ソ開戦という決定的な情報がもたらされても、それがどのような結果をもたらすかという分析にまで考える中央情報部がなかった。
日本ではすでに南進策が決定されていましたが、独ソ開戦となると日独伊対米英ソという二大陣営に分断されてしまう。それは松岡外相の四国同盟構想は水泡に帰す事となり、日本はソ連とも対立する構図となってしまう。だから南進策は大幅な修正が加えられるべきであった。しかし日本はそのまま突っ走ってしまった。
日本独特の下からの積み上げ方式による政策決定は時間がかかり、さらには他省庁との調整は玉虫色の内容で、時間と労力のかかる非能率な決定がなされた。だからいったん決定された政策に対して、途中から変更を加えることは非常に難しかった。その前提条件が変わるような重要な情報であっても、情報はゴミ箱行きになって決定が突っ走ってしまう。
平時なら、下からの積み上げ方式の政策決定でも対応ができる事でも、非常事態の状況には対応が出来ない。イージス艦「あたご」の衝突事故でも情報は内局の担当部署からの積み上げで伝えられて、課長、局長、次官から大臣に伝えられたのでは時間ばかりかかった。さらには点々バラバラに記者会見が行われて統一見解が取れなかった。自衛隊は非常事態に適応できないように作られているからだ。
中央官庁は行政の執行機関であって、政策決定機関ではない。しかし日本では中央官庁が下からの積み上げ方式で政策を決定しているのであり、政府に直属する中央情報局がない。最近では官邸組織が拡充されて官邸主導の政治が目指されていますが、中央官庁の抵抗もあって官邸主導の政治はなかなか難しい。それは中央官庁が情報を一手に握って管理しているからだ。
イギリスやアメリカでは中央情報部が出来て首相や大統領を補佐して、情報の収集から評価に至るまでの機関が出来ていますが、日本では内閣調査室はほとんど機能していない。国家安全保障会議も作る話がありましたが、福田内閣になって棚上げになってしまった。たとえ作っても外務省や防衛省や警察庁公安は情報を独占してNSCには伝えないだろう。
中央官庁は情報を武器に政界を動かして主導権を握り締めているのが日本の政治だ。だから総理大臣や各大臣は飾り物であり、政策は下からの積み上げて決定される。だから首相や大臣が主導して政治が動く事はない。出来ないからだ。もし戦前に中央情報部があり近衛首相や松岡外相に統一された分析と評価がもたらせていたら、柔軟な政策変更も出来たかもしれない。
しかし近衛文麿や松岡洋右個人の力量では適切な政策推進は難しく、松岡外交は独ソ開戦でユーラシア枢軸構想は一気に崩壊してしまった。大臣一人では各方面の情報収集や交渉事は出来るはずもなく直属機関が必要だ。しかし日本にはそれがなかった。今でもない。
日本が発展途上国なら中央官庁が執行機関であると同時に政策立案機関であっても目標がひとつであるから問題はない。しかし大国の一つとして外交をするとなると中央官庁の積み上げ方式では欧米の列強の外交に対抗できない。そこで松岡外相は強権を振るおうとしたのですが、松岡外交は暴走して自爆してしまった。今から見ればとんだピエロですが、中央情報部もなく個人では近代国家の外交は無理なのだ。
だからドイツから大島情報として決定的な情報がもたらされても、陸軍省の課長会議では議論が紛糾して収拾がつかない事態となり、積み上げ方式の陸軍省で統一見解は取れなくなってしまった。海軍省や外務省も同じ事であり、いくら決定的な情報がもたらされてもそれを有効に政策に生かせることが出来る体制ではなかった。
このような状況において、いったい誰が暴走する日本を止める事が出来るのだろうか? 近衛首相も後を継いだ東條首相もいったん決定された政策を変更する事は出来ないシステムになっていた。そしてそのシステムは今でも同じであり、中央官庁の課長クラスからの積み上げ方式で、まとめ上げないと何も決められないシステムになっている。
中央情報部を作る事は単純だが、中央官庁から政策決定権を奪う事であり、情報も入らなくなり中央官庁は単なる執行機関に過ぎなくなる。しかし最近では経済政策でも財務省や日銀は適切な政策の立案も出来なくなり、その能力が低下している。だから知的エリートを集めた中央情報部を設立して総理大臣に直属した機関として機能させるべきなのだ。明治大正期には元老が知的エリートの役割をになっていたが、現代では知的エリートがいない。
「株式日記」ではその知的エリートとして日本の長期戦略を提言しているのですが、中央官庁の役人や大学の学者などでは情報を政治的利害に利用されてしまう。明治大正期の元老のように超越した立場から長期的戦略を立案する必要がある。それが出来るのは天才的戦略家だけなのだ。もっとも自分でそう思っているだけなのですが。
9・11テロが起きたときは「株式日記」では前もって中東で戦争が起きることを予言していた。アメリカのCIAは国力の衰退を一番自覚しているのであり、CIAは帝国としてのアメリカを崩壊させて世界を多極化させる構想を持っているのかもしれない。ソ連を崩壊させたのはKGBであり、ソ連の限界を悟ったからである。そしてプーチン大統領はKGB出身であった。だからCIAがアメリカを崩壊させて世界を多極化させてもおかしくはない。その流れで9・11テロが起きたのであり、イラク戦争はアメリカの崩壊を早めるだろう。