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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu163.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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1908年にローズヴェルトはグレイト・ホワイト・フリート艦隊派遣の発表
に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。
2008年3月8日 土曜日
Great White Fleet
◆第8回「"日本近代史の狂言回し"としての米海軍」(2008/03/06) 岡部いさく
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/okabe.cfm
日本では誰も注目していなかったようですが、2007年は米国の「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」から100周年にあたりました。
「グレート・ホワイト・フリート」は、当時の大統領、セオドア・ルーズベルトが米海軍大西洋艦隊の戦艦16隻を中心とする部隊を世界一周の航海に派遣したものです。その艦隊は船体を真っ白に塗っていたため、「グレート・ホワイト・フリート(白い大艦隊)」と呼ばれるのです。
<「1年かけて地球を一周」の偉業が意味するもの>
その白色の艦隊が米東海岸ヴァージニア州のハンプトンローズを出発したのは1907年12月16日、そこからカリブ海〜南米を経て、太平洋に入り、西海岸のサンフランシスコに翌1908年5月に入港しました。
そこで一部編成を変えて艦隊は7月に出港、さらに太平洋を横断し、ハワイ、ニュージーランド、オーストラリア、フィリピンに寄港し、1908年10月18日から25日にかけては横浜に入っています(日付は日本時間では19日から26日になるかもしれません)。
次いで艦隊は中国のアモイを経てフィリピンに戻り、セイロン(現スリランカ)に寄って、スエズ運河を通って最後にジブラルタルに寄港。1909年2月22日に出発地ハンプトンローズに帰港しました。1年2ヶ月、総行程1万2000海里以上に及ぶ大航海でした。
当時は世界の海洋はイギリスの支配下にありました。“日の沈むことなき大英帝国”が健在で、ヨーロッパ各国が世界に覇を競っていました。
今のような長距離航空戦力のない時代のことですから、外国にまで届く軍事力というと海軍力しかなく、その中心が戦艦でした。米国は自分の戦艦勢力のほぼまるごと全部を世界一周の航海に就かせたのです。
このころの戦艦の動力は、石炭を燃やす蒸気機関です。南北米国を巡って、太平洋と大西洋の二つの大洋を横断するといった長距離航海は、航海術や艦の整備・保守だけでなく、その補給態勢の確保も含めて、大変な挑戦でした。
<「域外関与」の意思と能力を誇示する契機に>
この「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」は、軍艦の信頼性とともに、米海軍の作戦能力の高さを世界に誇示することとなったのです。つまり米国が太平洋や大西洋の向こう側にまで海軍力を派遣できることの証明であり、米国がヨーロッパの“列強”と肩を並べるだけの力があることを見せつけたのでした。
この少し前、1905年にセオドア・ルーズベルト大統領は日本とロシアの間での日露戦争の講和を斡旋。その功績によって1906年にはノーベル平和賞を受賞しています。二つの大洋に挟まれた巨大な未開の島国だった米国は、自分の域外の出来事に積極的に関与するようになっていたのです。
「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」は、米国が海軍を使って、世界へのコミットメントの能力と意思、それと実績を誇示したものだったといえます。
もちろん、これだけで米国が孤立主義から脱却したわけではありません。第一次大戦への参戦に際しては、ヨーロッパの国同士のもめ事に巻き込まれず、ヨーロッパからの干渉を受けずというのが独立以来の米国の国是じゃなかったのか、と反対の声がたくさんあったそうです。
その後の第二次大戦でも、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1941年の日本の真珠湾攻撃以前に、中立国の立場にありながらイギリスを支援するためにいろいろと苦慮しました。そんな揺れ動きはあったものの、米国はこの「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」をきっかけにして、世界への積極的な関与を深めていったのです。(後略)
◆試験問題の解説(2007年7月)−1 内藤陽介
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/category13-1.html
1898年にフィリピンを領有したアメリカは、1904年の日露戦争に関して、日本がロシアに対してそこそこの勝利を収めるのが、最も好ましいシナリオであると考えていました。同時に、アメリカは、日露戦争後の国際秩序の変化をにらんで、具体的な敵国を想定した国防計画に着手。ドイツを仮想敵国としたプランをブラック戦略案と名づけたのをはじめ、イギリスはレッド、日本はオレンジ、南米はパープル、カナダはクリムゾン(臙脂)、メキシコはグリーン、といったように、それぞれ、色の名前のついた戦略案を策定します。
ところが、1905年5月27〜28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が全滅したことで、アメリカの太平洋戦略の前提となっていた軍事バランスが崩れ、日本の海軍力が突出したものとなると、慌てたアメリカは、6月9日、大統領セオドア・ローズヴェルトが日露両国に対して講和を勧告。さらに、7月、陸軍長官のウィリアム・タフト(後にローズヴェルトの後をついで大統領になる)が東京で首相・桂太郎と極秘に会談し、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を相互に承認する協定(桂=タフト協定)を締結し、日露戦争後に備えようとしました。以後、アメリカは日本に対して警戒観を強めていきます。
一方、東洋人が白人を破った戦争は、アジアの人々に勇気を与えた反面、欧米では黄禍論を巻き起こします。特に、日系移民が急増していたカリフォルニアでは排日運動が激化し、1907年には、移民法が改正され、日系移民に対する実質的な制限が加えられました。また、アメリカ国内の大衆紙は国民の排日感情をあおる記事を掲載して部数を伸ばし、日本がアメリカ西海岸を攻撃する内容のシミュレーション小説が多くの読者を獲得します。
国民の反日感情が高まる中、西海岸の人心を安定させるとともに、海軍拡張政策への国民への支持を取り付けようと考えたローズヴェルトは、1907年12月、大西洋艦隊をサンフランシスコへ向けて出航させました。これに関して、無責任な大衆紙は「アメリカ海軍は日本と戦うために太平洋へ出発!」と報じましたが、当初、政府は沈黙を守ります。しかし、艦隊が南米最南端のマゼラン海峡を廻って太平洋を北上し、1908年3月、メキシコのマグダレナ湾に到着すると、ローズヴェルトは、突如、大西洋艦隊の目的地はサンフランシスコではなく“世界一周”であると発表。艦隊が日本を威嚇するために太平洋を渡ろうとしていることは、もはや、誰の目にも明白となりました。
ローズヴェルトの発表に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。米西戦争の記憶が生々しいスペインでは、日本への資金援助を申し出る貴族や資本家が続出したといわれています。
これに対して、日本政府は、アメリカの攻撃を恐れながらも、欧米世論の挑発には乗らず、むしろ、大西洋艦隊を“歓迎”することで危機を脱しようと考えました。
このため、国内では朝野を挙げて、“白船(大艦隊は船体の色からグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれており、これが日本語では白船と訳された)”歓迎のありとあらゆるキャンペーンが展開され、メディアでは、「文明開化もつまるところはペリーの黒船のおかげだった」との論説が日米友好の名の下にさかんに繰り返されました。その一環として、逓信省はここに挙げたような歓迎の記念絵葉書を発行し、白船の乗務員たち全員に無料で配布しています。
結局、1908年10月18日に横浜に入港した白船は、同月25日、歓迎責めに当惑する乗員を乗せて無事、横浜を出航。欧米で予想されていた日米戦争は回避されました。
もっとも、白船が横浜を出港してから2週間後、日本海軍の連合艦隊は、米軍が奄美大島を占領したことを想定した大規模な演習を実施。こうして、大日本帝国は、“仮想敵国・アメリカ”に対する準備を開始することになるのです。
(私のコメント)
日本の学校教育では歴史を受験科目から除外して、高校では世界史を教えないまま社会に送り出している学校があって社会問題化したことがありました。東大を卒業したエリートにも世界史や日本史を学ばないまま大学を卒業している学生がたくさんいる。だから若い人には日本とアメリカとが戦争をしたことすら知らない人もいるくらいで、だから左翼から日本は侵略戦争をした悪い国だと吹き込まれると簡単に信じてしまう。
特に、日露戦争から大東亜戦争までの間の期間が空白となってしまう傾向があるようだ。NHKの大河ドラマにしても明治維新以降の時代を扱ったものは「山河燃ゆ」の一つだけだ。明治時代や大正時代には大河ドラマの対象となるような物語がなかったのかというとそうではない。日清戦争や日露戦争や第一次大戦や満州事変とありすぎるくらいだ。原作となりそうな小説はたくさんあるのにNHKはやらない。
学校でも歴史を教えず、テレビでも近代史を扱ったドラマをやらないとすると、歴史を知らない日本人が量産されてしまう。織田信長や坂本竜馬はよく知っているが、東郷平八郎や乃木希典などは知らない子供が多いだろう。1908年に日本にやってきたアメリカのグレート・ホワイト・フリートの事を知っている人はどれだけいるだろうか?
江戸末期にやってきた黒船のことはよく知っているが、明治末期にやって来た白船の事はほとんどの人が知らないだろう。NHKの「そのとき歴史は動いた」でも白船来航の事はまったくやっていない。当時は日米開戦かと大騒ぎになった事件なのですが、私も岡部氏の記事を見るまで知らなかった。
世界史から見れば、当時は第一次大戦前の大英帝国の最盛期でもあり七つの海はイギリスが支配していた。それに対するアメリカのグレート・ホワイト・フリートの世界一周の大デモンストレーションは大事件だったらしい。1904年から1907年のわずかな間に11隻の戦艦を建造してアメリカは一気に大海軍国家となったのですが、日露戦争で大海軍国家となった日本と共に時代が変わりつつあった。
戦艦16隻からなる大艦隊の世界一周で日本にも1907年10月に来航したのですが、表向きは親善訪問であっても、日露戦争に勝利した日本への露骨な威嚇でもあったのだろう。当時のアメリカはどのような国であったかというと1898年の米西戦争でスペインからフィリピンやグアムやプエルトリコを分捕ったばかりであり、大変ぶっそうな国であった。
アメリカは19世紀の半ばから急速な国力の増大に伴って軍事大国として台頭して来た。1846年〜48年の米墨戦争ではメキシコからテキサスとカリフォルニアなどを分捕って1900年にはハワイを併合している。そんな国の大艦隊が日本にやってきたのだから日本では黒船来襲以来の白色艦隊来襲として危機感が高まった。
そのようなアメリカの歴史から見ればハワイ、フィリピン、グワムの次に狙われるのは日本であることは容易に分析できる。ところが学校の歴史教育ではこのようなアメリカの歴史を教えてはいない。米墨戦争や米西戦争など歴史オタクしか知らない。その延長から見れば日米戦争は歴史的必然であり、米西戦争と日米戦争とは非常によく似ている。まさに「リメンバー・パールハーバー」なのだ。
◆米西戦争 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
<1898年2月15日にハバナ湾で米海軍の戦艦メイン (USS Maine, ACR-1) が爆発、沈没し 260 名の乗員を失う事故が発生した(この中には 8 名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの 2 紙を始めとした当時の米国のメディアは、スペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「メインを思い出せ!くたばれスペイン!」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。>
アメリカという国は1776年の独立以来戦争に次ぐ戦争の歴史であり、現在でもイラクと戦争している。アメリカという国は多民族国家であるが故に、戦争をしていないと一つにまとめられずに分裂の危機を常に生じている。それでも米墨戦争以前はインディアンとの戦争に明け暮れていたのですが、米墨戦争でカリフォルニアやテキサスを獲得するとさらに西の太平洋の西側にも勢力を伸ばし始めた。
日本の国防戦略としてはグレート・ホワイト・フリートの来訪によって、日米戦争は予期されるものとなり、戦略としては対米戦争に備えるべきであった。ところが日露戦争後は満州へと大陸の奥へ奥へと引きずり込まれていった。日本国民の目も大陸進出に間が向けられて、背後からアメリカが日本を狙っている事には気がつかなかった。
今年の2008年はグレート・ホワイト・フリート世界周航の100周年にあたりますが、軍事評論家でもない限り知らないだろう。黒船来襲については日本でも様々な催しが行われましたが、白船来襲の事は歴史オタクしか知る人はいない。ヨーロッパでは日米開戦かと騒がれたようですが、それもおかしくないほどアメリカは好戦的であり、フィリピンの次は日本が狙われるのは歴史的必然だ。太平洋戦争はその結果に過ぎない。
憲法の第9条と日米安保は巧妙な日本への植民地政策の隠れ蓑なのですが、日本政府は国民に対してこの事実を隠し続けている。米兵による国内犯罪も米軍基地に逃げ込まれれば日本の警察はそこに踏み込めないのだ。左翼ならびに愛国保守派はこの事実を訴え続けているのですが、アメリカに飼いならされた親米保守派が学会とマスコミを支配してしまっている。