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(回答先: 歴史家としてのフーコー 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 2 月 11 日 23:09:55)
なぜ、哲学に対する解釈が哲学になっていないのか。
すべての哲学は物象論である。当然、物象論でなければ哲学ではないことは論を待たない。このことは、哲学の唯一の意義が物象性の告発にこそあることを意味している。
したがって哲学を評価するには、予め、評者がその哲学が射程としている歴史的世界の物象性を洞察している必要がある。評者の物象性に対する洞察が、評価対象の哲学よりも上回るほど、その哲学に対する正確な理解と評価が可能となる。
この評者には、いかなる物象性も洞察する能力が無いことは、哲学を物象論として理解していないことを見れば明らかで、この評者はフーコーのみならず、全ての哲学の意義を正しく理解できず、また、歴史世界の本質も自然との違いも分からない。
例えば、精神病はそれ自体が歴史的物象化現象であって、事実は病理学が分析するようには存在しない。このことは精神病理学の物象性を前提にしていなければ理解できない。
全ての哲学がそうであるように、歴史的に在る様には、自然には無いことを前提として、フーコーの告発もまた成立している。
学の原則として、物象概念の正確な理解こそが、真理探求の枢要であることは、古代から未来永劫変わる事はない。
もし、自身の絶対的能力を知りたければ、物象性の理解を己に問えばよい。