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僕の彼女は社会主義者【キューバ有機農業ブログ】
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投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 2 月 09 日 20:28:30: YdRawkln5F9XQ
 

【キューバ有機農業ブログ】
http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=273401

僕の彼女は社会主義者
革命家
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 写真を見ていただきたい。美人である。1939年、若き一人の青年将校が彼女と恋に落ちたとき、ひとつの歴史が生まれた。


 彼女の名は、マリア・クリスチーナ・ヴィラノヴァ(Maria Cristina Vilanova)。エル・サルバドルの裕福な名家の娘だった。だが、厳しい保守教育にもかかわらず、マリアは上流階級の社会になじまなかった。父親は、彼女が結婚するまで、自分のオフィスで秘書を勤めることを望んでいた。だが、当人にはその気はさらさらなく、両親に隠れては政治や社会主義の本を読んでいた。メキシコに旅した後、マリアは、エル・サルバドルの不平等な社会構造にショックを受ける。メキシコでは1911年に社会主義革命が起きていた。若きマリアは社会改革の道を歩む決意をする。そして、1939年にエル・サルバドルで行われた運動競技で、グアテマラ出身のハコボ・アルベンス・グスマン(Jacobo Arbenz Guzmán)大尉と恋に落ち、すぐに結婚を決意。両親の反対を押し切って、マリアは夫とともにグアテマラに移住するのである。

 アルベンスはスイス移民の息子で1913年9月14日にグアテマラの中産階級の家庭に生まれた。当時の硬直しきった体制の中で、世に出るには軍人になるしかなく、アルベンスは、多くの青年と同じく軍人の道を歩み、1937年にグアテマラ陸軍士官学校の科学と歴史の教師となっていた。新婚当初は二人は政治的な見解があわないことが多かった。だが、中米の社会問題についてのマリアの意見が、次第にアルベンスに影響を与え始める。マリアはアルベンスがそれまで一度も聞いたことがなかった著作や理論を紹介した。

 また、マリアはチリの共産主義のリーダー、ビルヒニア・ブラボ(Virginia Bravo)やエル・サルバドルの共産主義党員、マティルデ・エレナ・ロペス(Matilde Elena Lopez)と親交を深めていた。3人の女性たちは、アルベンス家でしばしば政治議論を行ったが、それが、アルベンスの思想信条を社会主義に向けた。アルベンスは、グアテマラの政治・経済の問題に関心を持つようになり、独裁者ホルヘ・ウビコの批判者となっていた(1)。

 グアテマラは1839年にグアテマラ共和国として独立したが、1931年からホルヘ・ウビコ(Jorge Ubico)による独裁政治が続いていた。ウビコは米国のユナイテッド・フルーツ社と癒着していた。ユナイテッド・フルーツ社は輸入税や固定資産税を免除され、鉄道、電気設備、電信、そして、国の唯一港、プエルト・バリオス港も所有していた。当時は農地の70%以上が2%の所有者の手に集中し、他方で半数以上の農民が土地を持っていなかった。1944年6月、グアテマラの教師はストライキを行うが、この街頭デモをウビコは軍で弾圧し200人以上が殺される。その中には、教師組合運動のリーダーだったマリア・チンチラ(Maria Chinchilla)をもいた。

 数日後、300人以上の教師、弁護士、医者等多くの著名人がこの行動を非難し、米国もウビコへの支援を見送り、フランシスコ・ポンセ(Francisco Ponce) 大佐がグアテマラの新しい独裁者になった。国民の支持を得るため、ポンセは民主主義的な選挙を行うと発表し、立候補した。だが、反対派はアルゼンチンに追放されていた元教師フアン・ホセ・アレバロ(Juan Jose Arevalo)を選んだ。選挙に負けることを恐れたポンセは、アレバロがグアテマラに到着するやいなやすぐに逮捕してしまう。

 この事件に対し、1944年10月20日、アルベンス大尉ら若手将校が決起し、学生や市民に武器をわたし、自らの率いる「名誉部隊」とともに首都を制圧し、ポンセに辞任を迫ったのである。反乱に同調する若手将校が次々に決起し、ポンセ派の軍や警察を攻撃した(1)。

 こうしてアルベンスは、近衛機甲師団のフランシスコ・アラナ(Francisco Arana)少佐とともに臨時政権を作り、民主主義的な選挙を公約し、二人は新憲法を制定する。

 男性も女性も法の前に平等であると宣言され、人種差別は犯罪と宣言され、高等教育は政府管理から自由になり、検閲は終わり、独占企業は禁止され、労働者は週40時間の労働を保証され、労働組合も合法化された。
アレバロも初の民主選挙で勝利をおさめ、グアテマラは改革の時代を迎えた。アレバロは「精神的な社会主義者」と自称し、改革に着手し、労働者に組合を組織する権利を与えたが、これには、ユナイテッド・フルーツ会社で働いていた40,000のグアテマラ人を含まれていた。

 ユナイテッド・フルーツ社の筆頭株主、サム・ザムライ(Sam Zemurray)は、アレバロがグアテマラで所有している農地を国有化するのではないかと恐れ、裏工作を始める。こうして、1949年7月に、CIAやユナイテッド・フルーツ社の圧力を背景に、次期大統領の有力候補であったアラナ大佐が裏切り、クーデタを企てた。アレバロは、アラナ大佐の逮捕を命じ、抵抗するアレナ派との銃撃戦の結果、アラナ大佐は殺され、クーデタは未遂に終った。

 だが、CIAはしたたかだった。アレバロとアルベンスがアラナを殺すため共産主義者を使用したという噂を広げ、別のクーデタを引き起こさせる。だが、ウビコの独裁政治を倒した労働組合や軍の一部はこれには従わず、政権は守られた。

 改革を守り抜いたアルベンスは国民的英雄になった。大統領への当選が確実となり、1951年3月15日、65%の票を獲得し、アルベンスは大統領となる。以降、アルベンス新大統領が行った改革は目覚しかった。

 まず、ユナイテッド・フルーツ社のプエルト・バリオス港と対抗するため、国営港を構築するよう命じ、大西洋に通じる新高速道路を建造することで中米国際鉄道(IRCA)による独占輸送を打ち壊すことを試み、さらに、米国による電力の独占管理に対抗して廉価なエネルギーを供給するため、水力発電所を全国で構築しはじめた。アルベンスはさらに新累進所得課税制度も提唱する。

 極めつけは、1952年6月17日の新農地改革案の発表だった。アルベンスは「何千もの小作農民に農地を与え、彼らの購買力を向上させ、国内産業の発展につながる大域内市場を作り、ラティフンディウムや半封建体制に終止符を打つ農業改革が必要だ」と宣言、この農業改革は1952年に議会で承認され、政府は大規模プランテーションで耕作されない未利用地を押収する権限を得た。6月27日の農地改革法の公布により90ha以上の個人所有地でも未開墾地は没収。30ha未満の農地はそのままだが、30〜90haについては1/3以下しか耕作されていない農地が接収されることとなった。没収は、時価に基づき行われ、接収された農地は、土地なし農民にのみ配布され、農民たちは食料生産額の5%の賃貸料を政府に支払い、耕作権の転売は禁止されることとした。

 この農地改革で、政府は契約で8,345,545ドルを払い、約10万もの家族に60万haもの土地が与えられた。また、約46の農場が小作農民グループに与えられ、彼ら自身で協同組合を組織した。この大改革で農地を失った地主の中には、アルベンス自身もいた。アルベンスは裕福な妻の婚姻持参金で大地主となっていたが、この政治改革には、アルベンス自身よりもマリアの方がより熱心だったといわれる。

 キューバでも1959年の第一次農業改革のときには400ha以上を収用、有償で没収し、1963年の第二次農業改革の場合でようやく60haに引き下げられた。アルベンスの改革がどれほどラジカルであったかわかるだろう。

 だが、CIAとユナイテッド・フルーツ社にとっては、これは見過ごせない大事件だった。同社は大西洋岸で22万haもの広大な土地を所有していたが、その85%は耕作されていなかった。1953年3月、アルベンス政権は、エーカー当たり2.99ドルとの時価でユナイテッド・フルーツ社の未利用地8万4000haを525,000ドルの補償金で押収した。だが、米国政府はそれを75ドルと評価し会社は1600万ドルの支払いを要請した(1)。

 ユナイテッド・フルーツ社の筆頭株主、サム・ゼムラィは、米国メディアで反アルベンス・キャンペーンをはじめる。これには「グアテマラがラテンアメリカでソ連を広める始まりだ」との根も葉もない誹謗中傷も含んでいた。加えて、米国はニカラグアの傀儡政権、アナスタシオ・ソモサ(Anastasio Somoza)大統領に対し「グアテマラ革命がニカラグアへ波及するかもしれない」と警告する。

 さらに、ウォルター・スミス(Walter Bedell Smith)CIA長官のもとで、アルベンス政権を打倒する秘密計画が立てられた。武器弾薬をユナイテッド・フルーツ社の貨物船に載せ、グアテマラに送って反体制派に配布する計画だった。だが、トルーマン大統領は何も知らされていなかった。ディーン・アチソン(Dean Acheson) 国務長官は秘密計画の詳細を知るとCIAに猛烈に抗議する。トルーマンは計画の延期を命じた。

 だが、1952年11月にドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)が大統領となると、工作はずっと容易になった。アイゼンハワーはグアテマラ駐在大使を通じ、「アルベンス政権が米国に取って脅威である」との反共産主義キャンペーンを始め、さらにディーン・アチソンを更迭し、ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)を国務長官にすえた。そして、その弟アラン・ダレス(Allen Dulles)がCIAの長官になった。ダレス兄弟はユナイテッド・フルーツ社の大株主だった。

 アルベンス政権を打倒するCIAの新計画「オペレーション・サクセス」が立てられ、アラン・ダレスCIA長官が代表となり、トレーシー・バーンズ(Tracey Barnes)とリチャード・ビッセル(Richard Bissell)が計画を実施する準備を整えた。
150人の「解放軍」が形成され、ニカラグアで訓練され、その指揮官として、グアテマラ陸軍の反革命派カルロス・カスティージョ・アルマス(Carlos Castillo Armas)大佐をあてた。カルロスは隣国のホンジュラスに亡命していた。いくら解放軍といっても150人ではグアテマラ政権は倒せない。だが、トレーシー・バーンズは、制空権を握り、グアテマラの市や町を空爆すれば、市民はパニックとなり、政権が倒れると見込んだ。

 さらにCAIは「グアテマラにおける共産主義時代」との題名を付けたパンフレットを10万部配布し、映画も3本製作するなど、宣伝工作にも力を入れた。アルベンスが敵を切り刻む写真も配布された。無論偽造だった。さらに、CIAによる解放ラジオ放送も1954年5月1日に始まり、CIAからの提供情報に基づき200以上の記事が、米国の海外情報局を通じて新聞や雑誌に掲載された(1)。

 1954年6月18日、カルロス大佐の解放軍は、ホンジュラスとの国境を越え攻撃を始めた。グアテマラ軍の兵力は7000人もおり、数百人程度の進入軍に負けるはずはなかった。事実、最初の戦闘では勝利した(3)。だが、6月27日には空軍が空爆を始める。もっとも、米軍も調子に乗りすぎた。グアテマラに向かう船をチェコの武器を運ぶ船舶と判断したため、CIAやアイゼンハワー大統領からの許可を得ないまま、勇み足で沈めたのは良かったが、それは誤爆で、ただコーヒーと綿を運んでいただけの英国の商船だった。相手がまずかった。ウィンストン・チャーチル首相はアイゼンハワー大統領に文句を言い、後に米国は150万ドルの賠償金を支払わされている。

 だが、英国はともかく当のグアテマラの国際的立場は弱かった。外務大臣ギジェルモ・トレジョ(Guillermo Toriello)は、国連に支援を求め、米国政府を非難したが、アイゼンハワー大統領は「グアテマラでは共産主義の独裁政治が確立されており、これはすべての米州諸国を害するために米大陸に設けられた前哨地点である」と述べ、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は「グアテマラの人民は共産主義型テロリズムもとでの生活を強いられている」と付け加えた。だが、ソ連はグアテマラに外交代表部を設けていなかったし、軍事援助もしていなかった。アルベンスが行なったのは、不耕作地を数十万人の土地なし小農民に分配し、労働組合の合法化や基本的な成人識字キャンペーンを含む社会改革だった。

 だが、アルベンスは国際的にも孤立し、さらに多くの部隊が侵入するとの情報が流され、グアテマラ市の各地での空爆音を聞くと、グアテマラ人のほとんどは、戦車や飛行機をもたない自分たちの軍の弱さを自覚した。農民たちも支持を捨てた。さらにCIAがアルベンス政権の軍司令官を6万ドルの贈賄で寝返らせた。もはや、どんな種類の抵抗も多くの死を導くだけだ。そう自覚したアルベンスはラジオで辞意を表明し、以下の劇的な演説を行った。


「反共産主義という口実が使われたが、真実は大いに違う。真実は、多量の資金をラテンアメリカに投資した果物会社と他の米国の独占の投資者にある。他のラテンアメリカ諸国がグアテマラに続くのを恐れているのだ。私は、グアテマラの大半の人民から選ばれたが、難しい条件のもとで戦わなければならなかった。真実は、人民の主権は、防衛なくしては維持できないということだ。私は自由とグアテマラに経済的自立を達成する可能性、民主的なシステムに対するすばらしい信頼のもと大統領職を継承した。私は、このプログラムが正当であると信じ続けている。私は民主主義の自由、グアテマラの独立、そして人類の未来へのすべての利益と信頼に反していない」

 アルベンスは、カルロス・ディアス(Carlos Diaz) 大佐に権力をゆだね、メキシコ大使館に亡命した。その態度は、大統領に威厳や勇気を期待した人々の多くを失望させた。

 そして、カルロス・カスティージョ大佐の解放軍がグアテマラの領土の大半を制圧すると、ディアス政権は倒れた。カスティージョ新政権はアイゼンハワー大統領により直ちに認められた。カスティージョは、1954年7月19日、共産主義に対する全国防衛委員会を設立、アルベンス派を押さえ込むため共産主義防止法を制定、以降数週間にわたって、何千人もが共産主義活動の容疑で逮捕され、こうした逮捕者の多くは苦しめられ死んだ。

 新政権は、選挙人名簿から文盲者を除くことでグアテマラの投票者の4分の3から公民権を剥奪した。政党、労働組合、農夫組織もすべて禁止され、批判的な新聞は閉鎖され、危険な書物の出版は禁止され、既存本は街頭で焼かれた。

「グアテマラはようやく自由な国となった」米国国務省は公式に述べた。だが、米国政府による武器や訓練の提供が続き、新政権軍に対抗するゲリラとの争いが激化し、集団虐殺や村の破壊が続き、その後20万人にものぼる先住民族が虐殺される悲劇が起こるのである。貧しい人々は、これまで以上に貧しくなった(2)。

 亡命後のアルベンス夫妻の人生も痛ましい。夫妻は初めメキシコに亡命した。次にスイスに移った。アルベンスは親がスイス出身であることから、スイスに住むことを望んだ。だが、スイス政府は「グアテマラ市民権を放棄する場合にだけ滞在を認める」と述べた。アルベンスには納得できない条件だった。夫妻はパリに移ったが、そこではフランス警察の監視下におかれた。1カ月後、夫妻は東欧で最も世界性があると考えたチェコ・スロバキアに移った。だが、チェコでも冷たくあしらわれ、3カ月後にはモスクワに移った。だが、そこも安住の地ではなかった。夫妻は、ラテンアメリカに戻ることを何度か試み、1957年にようやくウルグアイが亡命を受け入れる。だが、今後一切政治にかかわらないこと、定職に就かないこと、そして、週一度警察に報告を行うことという屈辱的な条件を義務付けられた。

 アルベンスとその家族を快く迎え入れる国は当時世界にはなかった。だが、1960年、夫妻に居を移すようわざわざ首相自らが依頼をしてくるという奇特な国が現れる。キューバだった。フィデル・カストロは、キューバに住むことを夫妻に依頼し、アルベンスはすぐにこれに同意した。だが、キューバでの暮らしも夫妻の運命を好転はさせなかった。カストロが米国からの介入を避けるため「キューバはグアテマラではない」と発言したことが、アルベンスをいらだたせた。

 1965年にはさらに家族を不幸が襲う。アルベンスが最も愛していた長女、アラベラは女優になることを夢見ていたが、ラテンアメリカをボーイフレンドと旅していた最中、コロンビアのボゴタのレストランでボーイフレンドと論争になり、突然、自分の財布から銃をぬいて、彼の目の前で自殺してしまったのである。まだ、25歳の娘の死にアルベンスは意気消沈し、残っていた政治への感心を失った。1970年、メキシコで娘を埋葬することが認められるとアルベンス夫妻はメキシコに移住した。そして、翌年の1月27日、メキシコ・シティで入浴中にアルベンスは死んだ。その死にはまだ疑いが残されている。まだ、58歳だった。夫の死後、妻マリアは祖国エル・サルバドルに戻った。マリアの政治への情熱も失われていた。エル・サルバドルで内戦が勃発すると、マリアは祖国を去りパリに移住した(1)。

 だが、グアテマラでのアルベンスの改革はひとつの遺産を残した。アルゼンチン出身の一人の若者の人生を変えたのである。グアテマラの土地改革は当時、ラテンアメリカ最大の話題だった。仲間の学生たちから「グアテマラでは今本当の意味の社会革命が行われている」という話を聞かされた若者は、1953年のクリスマスにグアテマラに入国した。まだ、25歳だった。青年はアルゼンチンの大金持ちの長男だったが、アルベンスが社会主義者マリアに一目ぼれしたことで啓発されたように、青年もグアテマラでペルーから亡命してきた若き社会主義者イルダ・ガデア(Hilda Gadea)と恋に落ちた。青年は安宿でセールスマンや行商人をやりながら貧乏暮らしを楽しんでいた。だが、やがて、青年が遭遇したのはアルベンス政権の瓦解の姿だった。青年は、市民に武器を与えてでも抵抗するよう呼びかけ、市民軍を組織することを試みた。だが、時はすでに遅かった。グアテマラ軍の士官たちは武器の供与を阻んだ。反米思想をもつ人間が次々に逮捕され、処刑され始めた。その処刑リストの中には「武装蜂起」を呼びかけた青年の名もあった。青年は「ハコボ・アルベンス政権の崩壊を見た」という文書を故郷のアルゼンチンの雑誌社に送り、1954年の夏、グアテマラを後にする。だが、若者が向かった先はメキシコだった。故郷に戻らなかったのは、逮捕されていた恋人イルダが、メキシコへの亡命を許されていたからである。恋人の後を追った青年は、メキシコ・シティで1955年の8月8日にイルダと結婚し、街頭の写真屋で身を立てていた。当時、メキシコ・シティには反米思想をもつ各国からの亡命者たちが数多く集まっていた。1955年の夏、青年はメキシコ・シティで、カストロという名の若いキューバからの亡命者と出会った。アルゼンチン人ではあったが青年はキューバ人たちと打ち解けあい意気投合しあった。青年が、エルネストではなく、後に有名となった「チェ」というニックネームで呼ばれるようになったのはその頃だった。

(引用文献)
(1)Jacobo Arbenz (1913-1971)
(2) Jacobo Arbenz


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